今川義元の家紋は二つ「足利二つ引両」と「赤鳥紋」その意味と由来を徹底解説
今川義元は駿河(静岡県中部)・遠江国(静岡県西部)の守護大名で「海道一の弓取り」との異名を持つ人物です。政治や経済を整備して今川家を発展ただけでなく、北条氏康や武田信玄と三国同盟を結んで京都への進出も計画していたことも有名です。
桶狭間の戦いで、織田信長に敗れましたが、今川家の最盛期を築き上げたのは今川義元だと言われています。
今回は、そんな今川義元が使っていた家紋「足利二つ引き両」と「赤鳥紋」について、その意味と由来を解説していきます。
目次
今川義元の家紋
家紋は古くは平安時代に貴族が自らの調度品などに自分の目印と使われてきたものでした。
戦国時代には、旗幕や幔幕に家紋をあしらい自分の働きをアピールするため、また名を残す方法として武士にとって重要なものでした。
当時の今川義元は、海道一の弓取りと称され、天下人に最も近かった武将といわれていました。
天下の三傑とよばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も天下取りの手本としたほどの人物です。
そんな今川義元が使っていた家紋は二つあります。
- 足利二つ引き両
- 赤鳥紋
今川義元の家紋「足利二つ引両」
義元は「足利二つ引両」を使っていました。
この紋は丸の中に二つの線が引かれたようなデザインです。
何をもとに考案されたのかは分かっていませんが、「両」が霊を表す、棒線が龍を表しているという説もあります。
足利二つ引両とあるように、足利家に由来する家紋です。
今川義元の他にも、足利二つ引両の家紋を使用していた武将をご紹介します。
- 足利尊氏 1305年(嘉元3年)~1358年(正平13年)
言わずとしれた足利将軍家の祖。彼が将軍になり家臣たちに二つ引両を下賜しました。 - 吉良頼康 ?~1562年(永禄4年)
今川の本家となる吉良氏も足利二つ引両を使っています。 - 畠山義就 1437年(永享9年)~1491年(延徳2年)
畠山氏も同じく足利家の一門です。
戦国時代から後も、新選組の局長の近藤勇も足利二つ引両ではありませんが、引両紋を使っています。
足利二つ引両と似たものに、「丸に二つ引」と「丸の内に二つ引」などがありますが、引両と丸輪が一体化しているか否かで区別します。
足利尊氏の家紋に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
今川義元の家紋「赤鳥紋」
今川義元は、「足利二つ引き両」の他に、「赤鳥紋」も使用していました。
赤鳥は鳥ではなく「垢取り」と呼ばれる道具のことです。
馬の毛をすく道具や、櫛についた垢をとる道具などと言われています。
紋の形は櫛のような形で、紐を通す穴もあります。
今川義元はなぜ「足利二つ引両」を家紋として使用していたのか?
今川義元はなぜ、「足利二つ引両」を家紋として使用していたのでしょうか?
その理由は、今川家のルーツにあります。
今川義元は清和源氏の流れを汲む、足利一門だった
「足利二つ引両」は足利とあるように、足利氏が使用していた家紋です。
なぜ、今川義元が足利家の家紋を使用できるのか?その理由は、今川家の家柄にあります。
今川氏はもともと、清和源氏の流れを汲む足利氏の一門であり、その系図の中でも各式の高い家柄なんです。
「御所(将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ 吉良が絶えれば今川が継ぐ」
と言われるほどの名家なんです。
同じく足利氏の一門の中で、位の高い吉良氏は、足利宗家の継承権を持っていました。
今川氏は吉良氏の分家です。
つまり、今川義元は家柄が非常によく、将軍になってもおかしくない出たっだのです。
今川と足利、苗字が違えど清和源氏の流れを汲む足利一門だったので、「足利二つ引両」使用していたのです。
今川義元は「足利二つ引両」をどのような時に使用していた?
引両紋は伝統的な家紋であり、武士の間で人気でした。
今川義元はこの「足利二つ引き両」の家紋を、戦の際に旗印や陣幕に使っていました。
今川義元は1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで、織田信長に敗れ亡くなっています。
敗因は諸説ありますが、天下にもっとも近かった今川義元も、のちに天下布武を掲げ天下統一目前までいった織田信長の勢いには叶わなかったのです。
「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元は、足利二つ引両の紋に見届けられながら、最後を迎えたと考えると感慨深いですね。
足利尊氏の家紋に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
今川義元はなぜ「赤鳥紋」を家紋として使用していたのか?
今川義元は「足利二つ引両」以外にも「赤鳥紋」という家紋も使用しています。
当時、家紋を複数持ち使い分けるのは当たり前でしたが、なぜ今川義元は「赤鳥紋」を使用していたのでしょうか?
今川家初代当主から受け継いだ「赤鳥紋」
赤鳥紋にはある言い伝えがあります。
駿河を収めていた今川範国(今川氏の初代当主)が、富士浅間神社(静岡県)の神女から
「赤い鳥と軍を進めれば勝つ」
という神託を授かり、実際に戦に勝ったことがきっかけで今川家の家紋になったというものです。
今川義元は「赤鳥紋」を、馬印として使っていました。
先祖から続く由緒ある家紋を馬印にすることで、「赤い鳥と軍を進めれば勝つ」という神託に肖ったのかもしれませんね。
しかし、赤鳥紋は今川氏の初代当主の言い伝えが発祥だと言われていますが、今川家で使ったのは義元だけだったようです。
実はこの赤鳥紋、現代でも意外なところで目にすることができます。
落語家の春風亭昇太師匠も着物に使っているのです。
昇太師匠は静岡県出身で、NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」で今川義元を演じたことがあります。
テレビなどで春風亭昇太師匠を見る機会があったら、ぜひ赤鳥紋を探してみてください。
まとめ:今川義元は足利一門の正当な後継者で、先祖から受け継いだ家紋を使用していた
海道一の弓取りとの異名を持ち、天下人にあと一歩手が届かなかった今川義元は、二つの家紋を使っていました。
そして、その家紋には先祖から代々続く思いが込められていることがわかりました。
今回の内容をまとめると
- 義元は「足利二つ引両紋」と「赤鳥紋」の二つを家紋として使っていた。
- 今川氏は清和源氏の流れを組む足利一門で、「足利二つ引両紋」を使っていた。
- 「赤鳥紋」は、今川家が受けた神託に肖ってつかっていた?
- 「赤鳥紋」は、現代でも落語家の春風亭昇太師匠の衣装にも施されている
今から400年以上も昔に、今川義元が使用していた家紋が、現在でも春風亭昇太師匠が赤鳥紋を使っているなんて、なんだか親近感がわきますね。
足利尊氏の家紋に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。