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豊臣秀吉がしたことは何?戦さ面・政策面で行ったことを逸話を交えて解説!

豊臣秀吉がしたことは何?戦さ面・政策面で行ったことを逸話を交えて解説!

豊臣秀吉は、貧しい農民の子として生まれましたが、持ち前の人心掌握と情報収集の能力で、天下統一を成し遂げた戦国武将です。織田信長や徳川家康と共に、戦国三英傑の1人ともされています。
今回は、豊臣秀吉は何をした人なのか?戦や政策面で行ったことを、逸話を交えて解説していきます。

なお、秀吉は、出世と共に名前を変えていますが、ここでは豊臣秀吉と統一して記載しています。

豊臣秀吉は何をした人?

豊臣秀吉は、主君の織田信長の仇をうち、その意思をついで天下統一を果たした人物です。
ここでは、そんな豊臣秀吉が天下統一を果たすまでの、重要な出来事とその後の出来事に注目していきます。

【豊臣秀吉の人生での重要な出来事】

  • 織田信長に仕え、可愛がられた
  • 織田信長の敵を討った
  • 天下統一を果たし、関白になった
  • 朝鮮出兵をした

織田信長に仕えていた

豊臣秀吉の生まれた年は、1536年(天文5年)とも1537年(天文6年)ともいわれています。
名門の武将ならば、誕生した年だけでなく、月日までも記録に残っているなかで、はっきりとしていない豊臣秀吉は珍しいと言えるでしょう。
これは、豊臣秀吉の父親は農民(足軽との説もあり)だったといわれており、身分があまりに低く、家族の出生記録も残されていないためなのです。
そんな低い身分出身の豊臣秀吉でしたが、1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え始めました。

豊臣秀吉は、若い頃から機転が効くこともあり、織田信長に気に入られるようになっていきます。
織田信長の草履を、懐で温めたとされる逸話は有名ですよね。

それ以外にも、裏山の全ての木の数を縄を使って素早く数えたり、台所を取り仕切って薪を減らすことに成功したり、工夫たちを競争させることで城の修理の工期を短縮させたりと様々な逸話が残っています。

戦の際も、持ち前の機転を生かして偉業を成し遂げていく豊臣秀吉に、織田信長の信頼は非常に厚かったようです。

そして足軽として仕えはじめたにもかかわらず、功績をあげ続け領地をもらい、ついには中国地方の攻略を織田信長から命じられるほどになりました。
天下統一を狙っていた織田信長にとって、中国地方の平定は欠かせないものでした。
豊臣秀吉はそんな大役を任されるほど、大出世を遂げていったのです。

山崎の戦いで、織田信長の仇を討った

豊臣秀吉が、中国平定に取り組んでいるさなか、思いがけない出来事が起きます。
1582年(天正10年)の本能寺の変です。
織田信長は、自分の家臣である明智光秀の謀反によって、本能寺で討たれてしまったのです。

本能寺の変が起こった時、豊臣秀吉は備中高松(現在の岡山県)にいましたが、翌日には織田信長が亡くなった知らせが届いたと言われています。
電話もメールも無い時代に、遠く離れた場所にそんなに早く伝わるとは驚きですよね。
秀吉の情報収集力の凄さが伺えます。

織田信長の悲報を聞いた豊臣秀吉は、講和を結び中国平定を取りやめて、即座に京へ軍を引き返しました。
これが中国大返しです。
200キロメートル以上もの道のりをわずか10日間で突き進み、山崎の戦いで明智軍を打ち破ります。
織田信長の仇を討ったのです。
豊臣軍4万に対し、明智軍は1万6000程しかいなかったようです。
豊臣秀吉の脅威の速さに、明智軍の態勢が整う前に決戦できたことが、豊臣秀吉の勝利につながったことは間違いないでしょう。

織田信長の跡を継ぎ、天下統一を果たした:関白 豊臣秀吉

信長の弔い合戦で主君の仇を討った豊臣秀吉は、織田家臣団の中で政治力・発言力を強めていきます。

織田家家臣団で力を持っていた柴田勝家を打ち破り、足場を固めた豊臣秀吉はいよいよ天下統一へと突き進みます。四国を平定を皮切りに、九州の島津氏や、東北の伊達氏らの残る地方武将たちも傘下に降りていき、北条氏の小田原落城後の奥州仕置を以て、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の天下統一は完了するのでした。

天下統一に向けて動いている中で、豊臣秀吉は関白に就任します。
関白とは、成人した天皇を助ける形で政治を担う、由緒ある公家だけが付くことができる役職です。

なぜ公家出身でもない、豊臣秀吉が関白になることができたのでしょうか。

これは、朝廷で関白の座を巡る争いが起きた際に、最初は仲介役として豊臣秀吉は介入します。
そして、自分が公家の養子になることで、自分を関白に就任するようにしたのです。
驚きの行動ですが、このような行動がまかり通るくらい、当時の豊臣秀吉の力は強かったのだともいえるでしょう。

朝鮮出兵で、中国(明)を手中に修めようとした

朝鮮出兵(Wikipediaより)

天下統一を果たした豊臣秀吉ですが、彼の野心はまだまだ衰えません。

1592年(文禄元年)と1597年(慶長3年)に、豊臣秀吉は明と朝鮮の征服を目的として朝鮮への出兵しました。
その時の軍勢は16万ともいわれており、豊臣秀吉の本気度が伺えます。
しかし、二度目の朝鮮出兵の最中に、豊臣秀吉は病気により亡くなります。
豊臣秀吉が中国を手中に治めるという夢は叶うことはありませんでした。

豊臣秀吉のしたこと:政策面

豊臣秀吉は政策面でも、画期的な事をいくつも実施しています。
政策面での功績に注目していきましょう。
【豊臣秀吉のしたこと:政治面】

  • 太閤検地
  • 刀狩り
  • バテレン追放令
  • 惣無事令
  • 茶道を文化として発展させ、政治に利用した

それぞれ詳しく見ていきましょう。

太閤検地

豊臣秀吉は、1582年(天正10年)以降に、制服した大名の領地に「検知奉行」を派遣し、直接的に、田畑の面積や収量を調査しました。それまでは、各々の大名の申告制だった検地の方法や計量の基準を全国的に統一することで、正確に把握できるようにしたのです。

そのうえで、検地帳に土地ごとの担当する百姓を記録していきました。
これにより百姓は、その土地を耕作する権利を保障されるようになりました。
しかし一方では、百姓には年貢負担が義務付けられ、その土地から離れられなくする効果もありました。

刀狩り

1588年(天正16年)に、豊臣秀吉は「刀狩令」を発布しました。
刀狩令とは、武士以外の農民や僧侶が、日本刀や槍などの武器を持つことを禁止する条例です。

表向きの理由は、大仏を建立に使用する釘や鎹とするための鉄の寄付を呼び掛けるものでした。
しかし、豊臣秀吉の本来の目的は、刀を武士だけが持てるようにすることで、武士を特権階級と位置付けたいとの思惑があったようです。下剋上が起こりにくい環境を整備したのです。
戦国時代は、農民や僧侶が武器をもち反乱を起こすという一揆が多かったので、農民や僧侶の武器を取り上げることで、反乱を抑制するという目的もありました。

バテレン追放令

1587年(天正15年)に、豊臣秀吉は「バテレン追放令」という法令を発布しました。
バテレンとは、神父を指す言葉で、主にキリスト教宣教師に国外退去を命じるものでした。
キリスト教の信仰を禁止した法令と誤認されることが多い「バテレン追放令」ですが、キリスト教宣教師の存在を排除する法令で、この法令では国民がキリスト教を信仰すること自体は禁止はしていません。

惣無事令

惣無事令そうぶつじれいとは、戦国大名同士での争いを禁止したものです。
この法令で私刑や私戦が禁じられたことで、裁判権や刑罰権を武家領主が行う公刑主義へと移行したとされています。江戸時代の大岡越前の名裁きも、この法令が無ければ存在しなかったのかもしれませんね。

茶道を文化として発展させ、政治に利用した

織田信長は、「御茶湯御政道おちゃのゆごせいどう」という、茶道を政治的に利用した政策をおこなっていました。
茶会に参加することを名誉とし、許可制にすることで、茶の湯に政治的権威が与えられるようになったのです。

豊臣秀吉は、織田信長の茶道文化の重用を引き継ぎ、茶の湯の政治化は、豊臣秀吉政権で最高潮を迎えました。
千利休せんのりきゅうは、豊臣秀吉の茶道文化の発展を支えた人物の一人です。

千利休については、こちらの記事でも詳しく解説しています。

豊臣秀吉の主な戦い

豊臣秀吉は、生涯で数々の戦いを勝ち抜いています。
秀吉は、戦が非常に強かったというよりは、情報収集や人身掌握に長けており、その情報をうまく利用した奇策による戦いが多いことが特徴です。
ここでは、豊臣秀吉の主な戦いに注目していきましょう。
【豊臣秀吉の主な戦いの年表】

  • 1582年(天正10年)備中高松攻(中国大返し)
  • 1582年(天正10年)山崎の戦い
  • 1583年(天正11)賤ヶ岳の戦い
  • 1584年(天正12年)小牧長久手の戦い
  • 1590年(天正18年)小田原征伐
  • 1592年(文禄元年)〜1597年(慶長3年)朝鮮出兵「文禄の役」「慶長の役」

備中高松攻め(中国大返し)

備中高松攻めとは、1582年(天正10年)に織田信長に中国地方の平定を命じられた、豊臣秀吉が備中高松城を水攻めという奇策で攻略した戦いです。
備中高松城は、難攻不落とよばれる堅い守りの城でした。
豊臣秀吉は、城の近くに流れる「足守川」を決壊させて、城の周りを水で満たすことに成功します。
その結果、備中高松城は湖に浮かぶ孤島と化し、城内も兵糧も尽きていきます。援軍として駆け付けた毛利軍も城に近づけず、助けることができません。

備中高松城の降伏を待つばかりの、豊臣秀吉に有利な状況の中、本能寺の変で織田信長が討たれたとの知らせが届きます。
信長の悲報を聞いた豊臣秀吉は、織田信長の死を隠して講和を結ぶと、城攻めを中止し、京へ急いで引き返すのです。これを中国大返しといいます。

山崎の戦い

1582年(天正10年)に、中国大返しで備中高松城から京へ強硬軍で引き返した豊臣秀吉の軍勢が、織田信長を討った明智光秀の軍勢と戦い勝利しました。この戦いを「山崎の戦い」といいます。
「天王山の戦い」といわれていきましたが、現在では「山崎の戦い」や「山崎合戦」とよばれるようになっています。

主君の仇を討ったことをきっかけに、豊臣秀吉の力は次第に強まり、天下統一に向けて動き出したきっかけとなった戦いです。

賤ヶ岳の戦い

1583年(天正11)に、豊臣秀吉は織田信長の筆頭家臣であった柴田勝家と戦い、勝利しました。この戦いを、「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」といいます。

1582(天正10年)に織田信長が亡くなった後、織田信長の筆頭家臣4名が集まり、後継者と遺領の配分を決めました。これを清洲会議といいます。豊臣秀吉は清州会議の参加者の一人でした。

この会議の中で、後継者を誰にするかで意見が分かれます。

豊臣秀吉は織田信長の孫の「三法師(織田秀信)」を推したのに対し、柴田勝家は織田信長の三男である「織田信孝」を推したのです。

後継者は三法師となりますが、これをきっかけに羽柴勝家と豊臣秀吉との間に、確執が深まっていくのでした。

両氏の対立は激化していき、ついに豊臣秀吉は前田利家や佐久間盛政らを率いた柴田勝家軍と戦うことになりました。

豊臣秀吉軍と柴田勝家軍が激戦を繰り広げる中、柴田勝家軍の背後を守っていた前田利家が突如として戦線を離脱します。前田利家が柴田勝家を裏切ったのです。前田利家が戦線を離脱したことは、柴田勝家軍に大打撃を与えます。他の武将たちの撤退も続き、統制が取れなくなっていきます。すかさず豊臣秀吉軍が攻撃をしたことで、柴田勝家軍は総崩れとなるのでした。

豊臣秀吉は追撃の手を緩めることなく攻め続けます。ついに柴田勝家は北ノ庄城の天守へ追い込まれてしまいます。

そして、柴田勝家は天守に火を点け、妻のお市の方と共に自害したのでした。こうして小田原北条氏は滅亡します。

なお、お市の方の3人の娘たち(茶々・初・江)は、豊臣秀吉に託されることになりました。その後、茶々は豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀吉の唯一の実子とされる豊臣秀頼を生むこととなるのでした。

「賤ヶ岳の戦い」では、豊臣秀吉の家臣の中に、特に著しい功績を上げた武将が7名いました。「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるこの7名の武将は、戦いの後、豊臣秀吉から感状と領地を与えられました。

【賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた武将たち】

  • 福島正則ふくしままさのり
  • 加藤嘉明かとうよしあきら
  • 加藤清正かとうきよまさ
  • 片桐且元かたぎりかつもと
  • 脇坂安治わきざかやすはる
  • 槽谷武則かすやたけのり
  • 平野長泰ひらのながやす

この賤ヶ岳の戦いに勝利したことで、豊臣秀吉の政治力や発言力が一層強固なものとなり、天下統一への足掛かりとなりました。

賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた「加藤清正」に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。

小牧長久手の戦い

1584年(天正12年)に、豊臣秀吉は、織田信雄・徳川家康陣営と戦います。
この戦いを「小牧長久手の戦い」といいます。 

なぜ、豊臣秀吉はこの時期に織田信雄おだのぶかつ徳川家康徳川家康と戦うことになったのでしょうか。

織田信長が亡くなった後、徳川家康は、織田信長の遺した甲斐や、信濃を自身の物としていました。
豊臣秀吉はこれが面白くありません。

豊臣秀吉は、賤ヶ岳の戦いで織田信長の次男の織田信雄を自軍に迎え戦い勝利しますが、手に入れた柴田勝家の領地は自分や家臣たちで分け合い、織田信雄は領地をもらえないばかりか、安土城を退去させられます。
当然、織田信雄は納得できるはずもなく、織田信雄と豊臣秀吉の関係は悪化していきます。

織田信雄は徳川家康と同盟を結ぶことで後ろ盾を得ると、豊臣秀吉派の自分の家老を処刑します。
このことに激怒した豊臣秀吉は、織田信雄への出兵を決意します。
こうして、「小牧長久手の戦い」が開始されたのでした。

小牧長久手の戦いは、豊臣秀吉と徳川家康が、直接対峙した唯一の戦いです。

徳川家康は、味方が豊臣秀吉側に寝返るアクシデントにも迅速に対応し、家康は小牧山城の占拠を成功します。(羽黒の戦い)

豊臣秀吉軍は徳川家康軍への攻め手を欠き、戦いは膠着状態に陥ります。
両者の睨み合いが続く中、豊臣秀吉軍では、徳川家康の領地のある三河地方に、家康が留守にしている今のうちに攻め入る作戦が立てられ、豊臣秀吉軍勢の池田恒興と森長可が進軍を開始します。
しかし、この作戦は徳川家康に筒抜けでした。
家康軍は、長久手付近で秀吉軍に追いつき、捕縛することに成功します。そして池田恒興も森長可も首を討ち取られてしまうのでした。(長久手の戦い)

徳川家康は非常に迅速に対応を行ったようで、豊臣秀吉が援軍に駆け付けたときは、戦いはすでに終わっていたと言われています。徳川家康と豊臣秀吉の直接対決では、豊臣秀吉の敗北という結果となりました。

徳川家康との直接対決に敗北した豊臣秀吉は、今度は織田信雄の説得を開始します。
そして、織田信雄と単独講和を結ぶことに成功します。これにより徳川家康は大儀を失い、戦場から撤収することとなりました。

小牧長久手の戦いで、秀吉はは合戦では敗北するものの、全体的には豊臣秀吉に利がある結果となった戦いといえるでしょう。

小田原征伐

1590年(天正18年)に、豊臣秀吉は、小田原北条氏を降伏させ天下統一を果たしました。
この一連の合戦を「小田原討伐」といいます。
北条氏と真田氏の間での領土紛争が起きた時、北条氏の行動が惣無事令に違反したとして、豊臣秀吉に北条氏を攻撃する大儀を与えてしまいます。
惣無事令は、豊臣秀吉の天下統一には欠かせない法令だったのです。

豊臣秀吉が最後に攻略した北条氏の小田原城は、難攻不落の城として有名です。

城は2里半(約9キロメートル)に及ぶ空堀と土塁で囲まれています。
相構そうがまえとよばれるこの防衛ラインは、城下町をも含んでおり、籠城しても物資に困りません。
豊臣秀吉が小田原城を攻めた時も、北条氏は籠城作戦を取りました。

豊臣秀吉軍は、北条氏の支城を次々と攻め落とし、最後に残った小田原城を21万ともいわれる巨大な軍勢で取り囲み、完全に孤立させることで、心理的なプレッシャーをかけていきます。 

さらに、豊臣秀吉は小田原城の近くに突如城を出現させます。
石垣山一夜城と言われるこの城は、たった80日程で完成させられました。
豊臣秀吉は、木々で隠すように築城し、完成後に一気に樹木を伐採たのです。
北条氏側からみれば、突如お城が現れたように感じ、豊臣秀吉の驚異の力に恐れたといわれています。

さすがの北条氏も士気を保つことができず、石垣山城の築城を目の当たりにした翌月には、ついに投降し小田原城を豊臣秀吉に明け渡すのでした。

朝鮮出兵

朝鮮出兵は、豊臣秀吉が明の征服をめざして朝鮮に侵略した戦いです。1592年(文禄元年)始まり、1594年(文禄2年)に休戦した「文禄の役」と、1597年(慶長3年)に始まり、豊臣秀吉が亡くなったことにより、豊臣軍が撤退した「慶長の役」からなります。

なぜ、豊臣秀吉は明の征服を考えたのでしょうか。実は明確な記録は残っておらず、謎につつまれているのです。豊臣秀吉の朝鮮出兵の理由は、専門家の中でも様々な説が存在しています。その中でも有力ないくつかの説をご紹介します。
【豊臣秀吉が朝鮮出兵した理由】

  • ・明と貿易をしたかった
  • ・織田信長の大陸出兵構想を引き継いだ
  • ・キリスト教の勢力拡大を警戒し、阻止するため
  • ・傘下の大名たちを統制するため
  • ・征服欲に錯乱した秀吉の思いつき

上記の説の一つとは限らず、いくつかの複合的な理由があるかもしれません。
どのような理由があるにせよ、豊臣秀吉は明の征服をめざす野心を持っていたことは、間違いないでしょう。

豊臣秀吉に関するエピソード

豊臣秀吉にはさまざまな逸話が残っています。そんな逸話に注目していきましょう。

農民から天下統一を成し遂げた、元祖下克上!

両親も生まれた年も記録に残らないような、身分が高くない家に生まれた豊臣秀吉は、自分の才能と行動力だけでのし上がり、遂に天下人を手に入れる、輝かしいサクセスストーリーの持ち主です。
「元祖下剋上を成し遂げた男」それが、豊臣秀吉なのです。

人の心を掴むことがうまかった

豊臣秀吉は、人の心を掴むことが、非常に上手だったと言われています。
人を味方につける力が強かったというわけです。
織田信長に献身的に仕えることで信頼を得たり、部下の失敗を寛容に許すことで忠誠心を勝ち得たり、お金を使ったりと様々な方法で、相手の心を掴んでいきました。

情報収集力が非常に長けていた

豊臣秀吉は、情報を集める力も非常に長けていたと言われています。
本能寺で織田信長が亡くなったことを、次の日には、遠く離れた高松にいる豊臣秀吉が把握できています。
豊臣秀吉の情報収集に貢献していたのが、軍師の黒田官兵衛といわれています。

指が六本あった

豊臣秀吉は、生まれた時から右手の親指が一つ多く、六本の指を持っていたとの記録が残っています。
先天性の多指症だったのかもしれませんね。

あだ名はサル?はげねずみ?

ドラマや小説などで、豊臣秀吉を織田信長が「サル」と呼んでいるイメージがある方も多いのではないでしょうか。実際、朝鮮の使者の記録では、豊臣秀吉はサルに似ていると記載されたものもあるようです。
肖像画もサルに似ているので、「サル」というあだ名は納得できるかもしれません。

織田信長は豊臣秀吉を「はげねずみ」と称した記録も残っています。
それは、豊臣秀吉の妻の寧々に織田信長が送った手紙の中に書かれていました。

「サル」も「はげねずみ」もあまり嬉しくないあだ名ですね。。。

まとめ:豊臣秀吉は天才的な人身掌握と情報収集力で、農民から天下統一を成し遂げた「元祖下克上」だった

豊臣秀吉は、人心掌握と情報収集力に長けた優れた才能を持つ人物であったことが分かります。
そして何よりも、大きな野心を持ち続けていたことが、天下統一を成し遂げた一番の要因だったのではないでしょうか。
今回の内容をまとめると、

  • 仕えていた織田信長の跡を継ぎ、天下統一を果たした
  • 日本だけでなく、中国(明)も手中に修めようとした
  • 太閤検地や刀狩り、バテレン追放令などの政策を行った
  • 茶道を文化として発展させた
  • 人心掌握と情報収集力に長けていた
  • サルやはげねずみといったあだ名があった

貧しい農民の出から天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の人生を知ることは、現代に生きる私たちにとっても生きるヒントをくれる気がしますね。

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