楠木正成の家紋「菊水の紋」は忠義の証?家紋の意味や由来を徹底解説!
楠木正成(1294(永仁2)~1336(建武3))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。
その生涯を後醍醐天皇に捧げ、最後の最後の時まで主君を裏切ることはありませんでした。
そんな楠木正成の家紋は「菊水の紋」と言われています。
この楠木正成の家紋「菊水の紋」にはどのような意味や由来があるのでしょうか?
この記事では、楠木正成の家紋「菊水の紋」の由来や意味についてわかりやすく解説していきます。
目次
楠木正成の家紋は「菊水の紋」
楠木正成の家紋は「菊水の紋」です。
同じ菊の花がモチーフとなっている「菊の紋」は天皇家の家紋として使われていました。
天皇家が使用している菊が入った家紋を、なぜ楠木正成が使用することになったのでしょうか?
ここでは、菊の紋と菊水の紋との違いに触れながら、楠木正成が菊水の紋を使用することになった経緯を解説していきます。
楠木正成の家紋「菊水の紋」と、天皇家の家紋「菊の紋」の違いは?
「菊の紋」は天皇家の家紋です。
これは、鎌倉時代に後鳥羽上皇が菊の花がとても好きで、家紋として様々な場所に菊の紋を使用するようになったのがきっかけだと言われています。
ちなみに現在の天皇家の御紋は「菊花紋章」で、花びらが16枚あることから「十六八重表菊」とも言われています。この御紋は「八重菊」を家紋にしたもので、現在は天皇と東宮しか使用できません。
このように、菊の花を使用した家紋は天皇家の象徴でもあるのです。
その菊の花が入った家紋を楠木正成はなぜ持っていたのでしょうか?
それは、楠木正成が生涯を通して後醍醐天皇に忠義を尽くしたことに由来しています。
楠木正成の忠義に感謝して、後醍醐天皇は正成に菊の紋を下賜したのです。
しかし、楠木正成は天皇家の家紋などあまりにも身に余ることだと考え、少し形を変えています。
菊の花が川の流れにゆっくりと身を任せているような美しい家紋、これが「菊水の紋」です。
天皇家の菊の紋が大きな菊の花を現しているのに対し、菊水の紋は菊の花が水に流れているところを現しています。つまり、菊水の紋は楠木正成の忠義の証でもあったと言えるでしょう。
楠木正成の家紋「菊水の紋」に込められた意味は?
楠木正成の家紋「菊水の紋」にはどのような意味が込められているのでしょうか?
ここでは、この家紋を使用することになった経緯に触れながら、菊水の紋に込められた意味をご紹介していきます。
菊水の紋は天皇から下賜されたものだった?
楠木正成が菊水の紋を使用することになったのは、実は後醍醐天皇から菊の紋を下賜されたことがきっかけでした。
楠木正成は元々悪党(朝廷や幕府の支配下にない人)でした。
しかしある日、後醍醐天皇に家臣にならないかと誘われ、それからというもの後醍醐天皇に忠義を尽くしました。
そして最後まで裏切ることなくその生涯を閉じました。
それほどまで自分に忠義を尽くしてくれた楠木正成に、後醍醐天皇は感謝して菊の紋を下賜したのです。
しかし楠木正成は、菊の紋は自分にはあまりにも身に余ることだと考え、菊水の紋に変えて使用しました。
菊水の紋は、菊の花が川に流れている様子が現れています。
それは、「後醍醐天皇が目指すところに、自分が支えて連れて行く」
という楠木正成の覚悟の表れだったのかもしれません。
他にも菊の紋を下賜された人物がいる?
楠木正成のように、天皇から菊の紋を下賜された人物は他にも存在します。
菊の紋を下賜されたのは、室町幕府を開いたことで有名な足利尊氏と、天下統一した戦国武将の豊臣秀吉です。
足利尊氏も、楠木正成と同様に後醍醐天皇から菊の紋を下賜されています。
豊臣秀吉の家紋と言えば「五七の桐」が非常に有名ですが、後陽成天皇から菊の紋も下賜されています。
豊臣秀吉は、調度品などに使用していたようです。
他にも、菊の紋から派生した家紋を下賜された人物がいます。
代表的なところは、西郷隆盛(南洲菊紋)や木戸孝允(丸に三つ星紋)、夏目漱石(菊菱紋)などが挙げられます。
菊水の紋の菊は実は山吹だったという説も?
この楠木正成の家紋「菊水の紋」の菊は、実は山吹だったのではないかという説もあります。
『太平記』によると楠木一族は、奈良時代に左大臣を務めた橘諸兄の後裔だとされています。
そして、その橘諸兄は山城国の井手の里に邸宅を構え、近くの川堤に山吹を植えて愛でていたと言われていることから、その子孫が川面に浮かぶ山吹を家紋とし、時代が流れるにつれて菊の花に変わっていったという説です。
しかし、この可能性も0ではないとしつつも、天皇からの恩賜を全面的に否定することはできないとして、この説はあまり有力ではないようです。
楠木正成の家紋「菊水の紋」にまつわるエピソード
楠木正成の家紋「菊水の紋」は、楠木正成の忠義を表すものとして別の場所で利用されることもありました。
ここでは、そんな菊水の紋にまつわるエピソードをご紹介していきます。
湊川の戦いでは「菊水の紋」を見た敵が勇んだ?
楠木正成の最後の戦は、湊川の戦いです。
この湊川の戦いでは、後醍醐天皇の政治に不満を持った足利尊氏と戦うことになります。
この戦いにおいて、楠木正成は圧倒的に不利な状況でした。
『太平記』によると、
「左馬頭直義の兵ども、菊水の旗に見合ふを幸ひの敵と思ひければ、取り籠めて討たんと駆け合はせ、思ひ思ひに揉みけれども、正成は元来名士なれば、小勢なれども、ちとも漂はず」
このように、敵であった足利直義の軍勢は菊水の旗を見て、目前の敵が楠木正成だと知り勇んだとされています。
当時は識字率が低く、家紋は誰もが一目で見分けることができるシンボルマークの役割も持っていました。
そのため、戦場では、敵味方を識別する重要な役割を果たしていたのです。
足利直義も、相手が楠木正成だと家紋で知り勇んだわけですが、予想外の楠木正成の善戦に苦しめられたのでした。
太平洋戦争では作戦名もなった?
菊水の紋は、楠木正成の忠義の証として後世に伝えられていき、太平洋戦争の際には作戦名にもなっています。
作戦名は「菊水作戦」。
この菊水は、楠木正成の家紋から由来しているのです。
菊水作戦は、太平洋戦争末期に、沖縄に来攻する連合国軍に対して特攻攻撃を仕掛けるという作戦でした。
特攻攻撃ということは、当然そのまま帰ってこれない可能性が高いわけです。
しかし、後醍醐天皇に生涯忠義を尽くした楠木正成のように、兵たちも国に尽くすのだという思いが作戦名に込められているのです。
まとめ:楠木正成の家紋「菊水の紋」は正成の忠義を現していた
楠木正成の家紋は「菊水の紋」。
菊の紋は天皇家の家紋でしたが、楠木正成のその忠義に感謝した後醍醐天皇が菊の紋を下賜したことがきっかけで、楠木正成が家紋として菊の花を使うようになったのです。
今回の内容をまとめると、
- 楠木正成の家紋は「菊水の紋」
- 後醍醐天皇が正成の忠義に感謝して菊の紋を下賜した
- 菊水の紋の菊の花は実は山吹だったという説もある
- 楠木正成の忠義は後世にも語り継がれ、太平洋戦争では楠木正成の家紋由来の「菊水作戦」という作戦も実行された
室町時代の人物の家紋が後世において作戦名になるなんて、それほどまでに楠木正成の忠義がすごかったということの現れなのでしょう。