勝海舟の死因は何?晩年はどう過ごした?最後の言葉はなんだった?
勝海舟は、幕末から明治にかけて活躍した、武士・政治家です。
激動の幕末を経て、明治新政府が立ち上がった大きな流れの中で、江戸幕府と明治新政府の間に立ち、江戸城を無血開城させた立役者です。
勝海舟は貧しい旗本の家に生まれながらも、自らの努力でチャンスをつかみ、旧幕府や新政府の要職に就いた、まさに努力の人と言えるでしょう。
今回は、そんな勝海舟の死因はなんだったのか?晩年はどう過ごしていたのか?最後の言葉はなんだったのか?を簡単に解説していきます。
目次
勝海舟の死因は病死?
幕末から明治と、激動の時代の変わり目に大きな役割を果たした勝海舟は、1899年(明治32年)77歳で亡くなってしまいした。
お風呂上がりにトイレに立ち寄った後に倒れました。
そして、お手伝いさんに生姜湯を持ってくるよう頼んだものの、間に合わずブランデーを飲み、そのあとすぐに脳溢血で意識不明となり、そのまま帰らぬ人となりました。
幕末は幕臣として、明治政府でも海軍大輔や参議兼海軍卿などを歴任した、勝海舟の死因は脳溢血というあっさりとした最後でした。
勝海舟は晩年はどう過ごしていた?
勝海舟は、貧しい家庭に生まれながらも剣術や蘭学を学び、その能力が認められて幕府の役人となりました。
そして、その能力を高く評価され、1860年(万延元年)には日本の使節にも選ばれアメリカにも渡っています。
1867年(慶應3年)に大政奉還が行われた際には、新政府の代表だった西郷隆盛と相談して、江戸城を無血開城させました。
その後、明治新政府でも海軍大輔や参議兼海軍卿などを歴任しています。
そんな勝海舟ですが、晩年はほとんどの時期を赤坂氷川(東京都港区赤坂)で暮らし、政府から依頼されて国家の歴史資料の編纂にあたっていたといいます。
【勝海舟が編纂した資料】
- 「吹塵録」(江戸時代の経済制度大綱)
- 「海軍歴史」
- 「陸軍歴史」
- 「開国起源」
- 「氷川清話」
勝海舟の最後の言葉
勝海舟の最後の言葉は、「これでおしまい」。
お風呂上がりに立ち寄ったトイレで倒れ、その直後に脳溢血で意識不明となった、勝海舟。
まるで、自分の最後を予感していたかのような言葉です。
以前の君主であった徳川慶喜を、明治天皇に謁見させるという仕事を成し遂げて
「自分の役割が終わった」という意味なのか、
「自分の人生がこれでおしまいになってしまった」という意味なのか、
はたまた別の意味なのかは今となってはわかりません。
日本の歴史において大きな役割を果たした勝ですから、「やり切った」という感情だったのでしょうか?
幕末から明治と、激動の時代で大きな役割を果たした勝海舟は、やり切ったという感じも強かったのかもしれませんね。
まとめ:勝海舟の死因は病死。最後に残した言葉は、勝海舟らしい言葉だった。
勝海舟は新政府軍の代表だった西郷隆盛と交渉し、江戸の町を戦火から守った立役者です。
明治新政府でも数々の要職を歴任しました。
今回の内容をまとめると
- 勝海舟は貧しい家庭に生まれながらも努力して幕臣、明治政府での要職を歴任した
- 勝海舟の死因は、脳溢血
- 勝海舟は、晩年は徳川家の復権に貢献し、国の歴史資料の編纂に携わっていた
- 勝海舟の最期の言葉は「これでおしまい」
江戸城を無血開城に導いた勝海舟。
最後の言葉、「これでおしまい」という言葉の真意はわかりませんが、いさぎよい言葉は勝海舟の生き様を表しているようです。