伊藤博文の死因は暗殺。理由は何?矛盾の多い事件の概要と、経緯を簡単に解説!
日本の初代内閣総理大臣、そしてその後も何度も総理大臣を務めた伊藤博文。
幕末から明治と激動の日本を駆け抜け、近代化を推し進めた伊藤博文の死因は暗殺です。
初代総理大臣まで務めた人物がなぜ暗殺されてしまったのでしょうか?
今回は、伊藤博文はなぜ暗殺されたのか?暗殺事件の理由や経緯を簡単に解説していきます。
目次
伊藤博文の死因は暗殺
多くの人がご存じの通り、伊藤博文の死因は暗殺です。
しかも、暗殺されたのは日本ではなく中国です。
ここでは、伊藤博文がいつどこで暗殺されたのか?誰に暗殺されたのか?そして暗殺動機を解説していきます。
伊藤博文はいつ、どこで暗殺された?
伊藤博文は1909年(明治42年)10月26日、中国のハルビン駅で射殺されました。
伊藤博文は1905年(明治38年)、韓国統監府の初代統監に就任。
1909年(明治39年)には韓国統監を辞任し、韓国統監を辞任した年に暗殺されてしまいました。
満州(現在の中国東北地方からロシア沿海地方)・朝鮮問題について、当時ロシアの財務大臣であったウラジーミル・ココツェフと話し合うため、駅に降り立った直後でした。
伊藤博文の暗殺犯は韓国人の「安重根」?動機は?
伊藤博文を暗殺した犯人は韓国人の民族運動家・安重根でした。
安重根はすぐに捕らえられ、共犯者の禹徳淳・曹道先・劉東夏の3名もロシア官憲によって拘束されています。
捕らえられた後に安は博文を暗殺した動機を以下のように述べています。
【伊藤博文暗殺の動機】
- 伊藤博文は明成皇后を殺害した
- 伊藤博文が兵を使って韓国を日本の保護国にした
- 伊藤博文が第三次日韓協約を強制的に結ばせた
- 伊藤博文が高宗皇帝を退位させた
- 伊藤博文が韓国の軍隊を解散させた
- 伊藤博文が韓国の罪のない人々を虐殺した
- 伊藤博文が韓国人の権利を剥奪した
- 伊藤博文が韓国の教科書を燃やした
- 伊藤博文が韓国人たちが新聞を購読することを禁止した
- 伊藤博文が銀行紙幣を強制的に発行した
- 伊藤博文が韓国人から国債を募り、負債を抱えさせた
- 伊藤博文が韓国の皇帝制を廃止し、日露戦争などを引き起こして東洋の平和を破った
- 伊藤博文が韓国人が必要としていない施設を作った
- 伊藤博文が日本の天皇の父上である孝明天皇を殺した
- 伊藤博文は韓国人が憤慨しているにもかかわらず、韓国は大丈夫だと言って日本の天皇や世界を欺いた
伊藤博文が暗殺された理由は?
伊藤博文は暗殺された際、満州(現在の中国東北地方からロシア沿海地方)・朝鮮問題について、当時ロシアの財務大臣であったウラジーミル・ココツェフと非公式に話し合うためハルビン駅に来ていました。
なぜ博文はこの地で暗殺されることになったのでしょうか?
暗殺された理由を詳しく見ていきましょう。
【伊藤博文が暗殺された理由と考えられている説】
- 安重根は韓国独立を目指していた?
- 日韓併合の強硬派が伊藤博文を暗殺した
- 伊藤博文暗殺の影にはロシアがいた?
伊藤博文暗殺犯「安重根」は韓国独立を目指していた?
ハルビン駅で伊藤博文を射殺した安重根は、大韓帝国(現在の韓国)の独立運動家でした。
この当時、韓国は事実上日本の保護国となっており、諸外国から韓国を守る名目で韓国統監府が設置されていました。
そしてこの韓国統監府の初代統監が伊藤博文だったのです。
韓国側から見れば、伊藤博文は韓国を日本の支配下に置こうとする、憎むべき人物として映ったのでしょう。
なお、安重根は事件後、本来の目的は伊藤博文の暗殺ではなく韓国独立と東洋平和である述べています。
伊藤博文暗殺犯は、日韓併合の強硬派?
伊藤博文は韓国統監府の初代統監に就任していたものの、元々、日本が韓国を支配することには反対していました。
そのため、韓国支配を進めたい日韓併合の強硬派が、邪魔な存在だった伊藤博文を暗殺したという説もあります。
伊藤博文暗殺の影にはロシアがいた?
博文が暗殺された際、周りにはたくさんのロシア人がいましたが、彼らは混乱の中、傷ひとつ負いませんでした。
そのため、博文の暗殺にはロシアが関係しているという説もあります。
また、博文暗殺に使われた銃はロシア陸軍が使っていたもので、ロシアから安重根に供給された可能性があるともいわれています。
博文はロシアと協定を結ぼうとしていましたが、先に日英同盟が結ばれ日露戦争を早める結果になってしまいました。
当時、ロシア側としてはすぐに日露戦争が開戦するとは思っておらず、準備が不十分なまま開戦してしまったため、実質的に敗北を期してしまいました。
そのため、日本に恨みがあったのではないかとされています。
伊藤博文の最後の姿
伊藤博文は狙撃された際、3発の銃弾を受け「3発あたった。相手は誰だ。」と叫んだといわれています。
銃弾に倒れてから約30分後に伊藤博文は事の世を去りました。
伊藤博文の最後の言葉
伊藤博文は銃弾に倒れてから亡くなる約30分までの間に、周囲の人間と言葉を交わしたと言われています。
自分を撃った人物が韓国人だとわかると「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と言ったそうです。
伊藤博文は日韓併合には反対していた人物でしたから、自分が死ぬことで日韓併合が進むと予測したのでしょう。
伊藤博文は、国葬された
伊藤博文が暗殺された後、「明治維新の功労者」として約30万人の人に見送られながら国葬が行われました。
それまでにも国葬は行われていましたが、宮家の人々など、身分も功績も高い人々だけが対象でした。
その中で、もともと下級武士の出身であった伊藤博文の国葬が行われたのはかなり異例の出来事といえます。
伊藤博文のお墓はどこにある?
博文は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所に埋葬されました。
山口県熊毛郡大和町束荷(現・光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社がありましたが、1959年(昭和34年)に近隣の束荷神社境内に移動されています。
束荷神社
〒743-0150 山口県光市大字束荷第270番地
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-yamaguti/jsearch3yamaguti.php?jinjya=6840
伊藤博文の暗殺が、結果として日韓併合を急進させた
伊藤博文は韓国統監府の初代統監に就任していたものの、元々、日本が韓国を支配することには反対していました。
その伊藤博文が暗殺によって亡くなったことで、暗殺の翌年には「日韓併合ニ関スル条約」に署名がなされ、日韓併合(韓国併合)が行われました。
伊藤博文の暗殺により日韓併合の方針が決定し、実行が急がれる結果となったのです。
伊藤博文の暗殺が、結果として日韓併合を急進させたことになります。
まとめ:伊藤博文の死因は暗殺。その事件の背景には謎が多く残っている
伊藤博文は初代の内閣総理大臣に就任し、紙幣に印刷されていた人物としても知られています。
その晩年は、韓国統監府の初代統監に就任したものの、最終的には大韓帝国の独立運動家・安重根の銃弾に倒れる結果となりました。
今回の記事をまとめると
- 伊藤博文は1905年(明治38年)、中国のハルビン駅で大韓帝国の独立運動家・安重根によって暗殺された
- 安重根の博文暗殺は、第二次日韓協約や第三次日韓協約、博文による韓国軍解散などが動機とされている
- 安重根の本来の目的は伊藤の暗殺ではなく韓国独立と東洋平和であった
- 伊藤博文の暗殺の影には、日韓併合の強硬派やロシアが影にいたという説がある
- 伊藤博文暗殺が結果的に日韓併合を急進させた
日韓併合に反対の姿勢を取りながらも、結果的に暗殺されてしまった伊藤博文。
韓国側に伊藤博文の姿勢が伝わっていれば、また違った結果となったのかもしれませんね。