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伊藤博文の名言集|性格や人物像がわかるエピソードを交えて簡単に解説!

伊藤博文の名言集|性格や人物像がわかるエピソードを交えて簡単に解説!

伊藤博文は、1841年10月16日(天保12年9月2日)〜 1909年(明治42年10月26日)は、明治時代に4度にわたり、内閣制度発足以降の内閣総理大臣を務めた人物です。

貧しい農家の子に生まれながら、明治国家の礎を築いた人物で、現代に生きる私たちにも役に立ちそうな名言を数多く残しています。

今回は、伊藤博文の名言を、性格や人物像がわかるエピソードを交えて、簡単に解説していきます。

目次

伊藤博文とはどんな人?

伊藤博文(いとうひろぶみ)
出身地:周防国束荷村すおうのくにつかりむら(現在の山口県光市)
生年月日:1841年9月2日〜1909年10月26日(享年69歳)
妻:伊藤すみ子(先妻)伊藤梅子(後妻)
子:貞子(長女)生子(次女)朝子(三女)文吉(長男・庶子)眞一(次男・庶子)

伊藤博文は貧しい農家に生まれながらも、松下村塾に入塾し吉田松陰に学び、イギリスへ留学した勉強家です。

さらには、初代内閣総理大臣に就任、その後も総理を歴任し、大日本帝国憲法の制定にも携わりましたが、最後は暗殺という非業の死を遂げました。

そんな伊藤博文ですが、プライベートでは天皇にも注意されるほどの大の女好きで、芸者遊びに明け暮れていたそうです。
2度目の妻となった小梅も芸者遊びで知り合い、当時伊藤博文は既婚者だったにも関わらず、不倫で小梅との子を授かり、最初の妻と離婚しています。

子供は二男四女の他、養子もいたようですが、梅子との実子は長女と次女のみで、他は芸者遊び等で知り合った女性との間に生まれた子で、妻の梅子は文句一つ言わず、立派に彼らを育てあげ、伊藤博文を生涯に渡り支え続けてきました。

伊藤博文の名言1:大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ。

伊藤博文の名言1
大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ。

現代語訳:
「一番怖いのは、一見では偉そうに見えない人。見るからに強そうでも、言動に余裕がなく、 面白みもないような奴には、大した事はできない。」

「分かりやすく偉そうにしている人間に、本当に偉い人間はいない。言動に余裕がなくて面白みもなければ、それはただの傲慢であり勘違いである」

本当に優れた人間は、謙虚で物腰が低く、自身の非を素直に認め、人前で偉そうに威張り散らすことはしません。

初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文は、いつも謙虚で人に愛される人物だったそうです。

また、お金に一切執着がなく、開けっぴろげで朗らかな性格だったと言われています。
状況によって、国に有益なことだとなれば、何でも取り入れる度量があり、政治的立場を変えるという柔軟性も持ち合わせた人物でした。

農民出身だった伊藤博文は、格式や建前に囚われることなく、明るく天真爛漫、かつ、権力、金銭欲がなかったからこそ、常に謙虚にすることを心がけていたのかもしれませんね。

伊藤博文の名言2:私:私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及せよ。君らの言うことがわからなければ、私も君らを徹底的に攻撃する。互いに攻撃し議論するのは、憲法を完全なものにするためである。くり返すが、長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論・議論を究めて完全なる憲法をつくろうではないか。

伊藤博文の名言2
私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及せよ。君らの言うことがわからなければ、私も君らを徹底的に攻撃する。互いに攻撃し議論するのは、憲法を完全なものにするためである。くり返すが、長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論・議論を究めて完全なる憲法をつくろうではないか。

1885(明治18年)年12月22日、伊藤博文は初代内閣総理大臣に任命され、1889年(明治22年)2月、大日本帝国憲法が公布されました。

18世紀の終わりごろ、世界ではアメリカやヨーロッパ諸国が次々に憲法を制定し、それが近代国家の証となっていきました。

そんな中、日本では1886年(明治19年)の王政復古の大号令によって天皇を頂点とした明治政府が誕生します。

しかし、明治政府にとっての最大の悩みの一つに、江戸時代に欧米諸国と結んだ不平等条約がありました。

このままでは日本が欧米の植民地にされる。
不平等条約を解消するためには、日本が法治国家であるであることを証明する必要がありました。
そのためには、大日本帝国憲法の制定を急ぐ必要があったのです。

伊藤博文が関わった、1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法は、東アジア初の近代的憲法であり、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行まで約56年間一度も改正されませんでした。

欧米のような大国に追い付け追い越せという共通の高い志と目標があるからこそ、このような覚悟ある言葉が出てきたのでしょう。間違いだと思えば、上司や部下、立場は関係なく、徹底的に討論し、よりよい物を作り目的を達成していくという、伊藤博文の強い思いが感じられます。

伊藤博文の名言3:現在の日本は地平線から出たばかりの太陽である。暁の雲から出たばかりの太陽は光が弱く、色も薄い。だが、その太陽はやがて中天までくると、全天に輝きわたる。 これと同じように、日本もまもなく世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念を持って世界の人々から見られるようになるだろう。

伊藤博文の名言3
現在の日本は地平線から出たばかりの太陽である。暁の雲から出たばかりの太陽は光が弱く、色も薄い。だが、その太陽はやがて中天までくると、全天に輝きわたる。 これと同じように、日本もまもなく世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念を持って世界の人々から見られるようになるだろう。

現代訳、時代背景

岩倉使節団の副使に就任した後に、サンフランシスコ市長歓迎のパーティで、日本側を代表し伊藤博文が英語で発した名言です。

明治という時代は、日本が欧米列強との対等な関係をめざして近代国家への転換を推し進めていった時代です。

長きにわたる徳川・江戸幕府から、新国家の建設が始まって間もない1871年(明治4年)、欧米諸国との交際や外交交渉、海外事情の視察を目的として、岩倉使節団が派遣されました。

およそ2年間に渡った視察旅行では、欧米各国の国家制度や産業、技術、伝統、文化など、新しい国作りを始めていた明治新政府にとって、欧米の進んだ産業や制度を学ぶことは、とても重要なことでした。

「日本の国旗にある日の丸は、もはや帝国を閉ざす封印という意味合いを持たない。現在の日本が地平線から出たばかりの太陽だ。暁の雲から出たばかりの太陽は光も弱く色も薄い。だがその太陽はやがて中天までくると全天に輝きわたる。

これと同じように、政府と国民との一致協力により、成就された日本の精神的進歩が、物質的進歩を凌駕し、日本もまもなく世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念を持って世界の人々から見られるようになるだろう」

と、伊藤博文は日の丸を指しながら演説しています。

その言葉通り、日本は伊藤博文を筆頭に近代国家の建設に乗り出していったのです。

伊藤博文の名言4:たとえここ(英国)で学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか。

伊藤博文の名言4
たとえここ(英国)で学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか。

この名言は、伊藤博文が連合艦隊に長州藩が攻撃されていることを留学先の英国で知り、志半ばでの帰国を決断したときの言葉です。

1863年(文久3年)、22歳のとき、長州藩による留学生として、井上馨らと上海経由で4か月かけてイギリスに向かった伊藤博文。

ロンドンで必死に英語を学び、数か月のうちに、日常会話もでき、手紙も書けるようになりました。

しかしこの留学で、今の日本の力では、まともに外国と戦争しても勝てないと実感したとも言われています。

そんな時、出身地の長州藩が外国船を砲撃したことを知り、戦争を辞めさせようと慌てて帰国します。

しかし、結局イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊は下関を攻撃し、長州藩は敗北してしまいます。(下関事件)。

伊藤博文は、自分が学んでも日本が滅びてしまっては意味がない、強い日本を作るために自分は学んでいるのだ!という強い覚悟を、この時に定めたのかもしれませんね。

伊藤博文の名言5:国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である。

伊藤博文の名言5
国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である。

現代訳:
国の安危存亡に関係するような外交を、軽々しく自分の思い通りにできるように思うのは、仮説や、既存の理論が実際に当てはまるかどうかを確認するともせず、役に立たない考えや理論を議論するのと同じである。

こちらは交渉にまつわる名言です。

交渉とは、相手に自分の要求を通そうとするときに使う手段で、お互いに合意に達するために行うものです。一方的に相手を説得するのではなく、対話でお互いが納得のいく決着点をつくらなければなりません。

相手側の思惑を忖度しつつ、こちらが譲れない条件をなんとか通すために、議論の落とし所を的確に見定める必要があるからです。

しかしながら、交渉以前に大切なことは、まず相手との常日頃からのかかわりを大事にすることです。

日頃から、相手との関係を円滑に保っておくことはとても重要です。

伊藤博文は、交渉術も非常に長けており、その交渉術を最大の武器として出世を重ねました。

長州藩の弱体化が進んでいた1865年(慶応元・元治2年)には、持ち前の英語力とその交渉力を生かして、在日イギリス人商社「グラバー商会」から武器を調達し、藩の危機を回避したと言います。

伊藤博文は、得意の英語に、この「交渉力」をプラスすることで、世界を相手に、近代化に向けた功績をあげたのです。

伊藤博文の名言6:いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ。

伊藤博文の名言6
いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ。

現代訳:
かりにも何かを成し遂げようとするなら、決して人を頼らず自力で乗り越えなければならない。

初代内閣総理大臣となった伊藤博文ですが、裕福な家庭で生まれ育ったわけではなく、幼いころから奉公に出されていました。

16歳で松下村塾に入門しましたが、身分が低い伊藤博文は、塾の外で立ち聞きしていたそうです。

そうして努力を重ね、長州藩の留学生になり、イギリスに留学を果たした伊藤博文は、必死に英語を学んだり、工場などを見物するなどして、見分を広めました。

そうして、イギリス留学で身につけた英語を武器にして、政治にかかわるようになった、まさに努力の人です。

初代内閣総理大臣就任を巡って、既に政界のトップであった三条実美など、家柄の良い他の候補もおり、誰もが初代内閣総理大臣は三条実美だと思っていました。

しかし、伊藤の盟友である井上馨が
「これからの総理大臣が外国の電報を読めなくてはならない」と意見、周囲の賛同を得て、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任したのです。

貧しいながらも逆境に立ち向かい、常に向上心を持って努力を惜しまず、努力が身を結び内閣総理大臣にまで上り詰めた伊藤博文のこの名言からは、「人生をかけて自分で努力をしなければ物事を達成することはできない!」との覚悟のもと、努力し続けた伊藤博文の人生観を感じますね。

伊藤博文の名言7:本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない。

伊藤博文の名言7
本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない。

この伊藤博文の名言は、日清戦争後に言った言葉です。

戦争によって、自国に対する愛国心はよりいっそう強まります。
当時の日本は、大国であった清に勝ったことで、かなり調子付いていた時期でもありました。

肩をそびやかすとは、威勢のよさそうな態度を取ること。
目を怒らすとは、目に角を立てこわい目つきをすることです。

愛国心と言う言葉に対し、そういうイメージを持つ人も多いですが、伊藤博文は、愛国心を持つことは、威勢の良い態度や、威張ることではないと教えています。

伊藤博文の伝えたかった愛国心とは、敵対心剥き出しで威張って偉そうにすることではなく、自身の生まれ育った国や土地に感謝し、そこでどれだけ恩返しができるか、そういう行動が取れるか考えることであると教えています。

伊藤博文の名言8:われわれに歴史は無い。我々の歴史は、今ここからはじまる。

 伊藤博文の名言8
われわれに歴史は無い。我々の歴史は、今ここからはじまる。

先に紹介した伊藤博文の名言6
「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ。」
と同様に、誰かがやるのを待つのではなく、新しい歴史は自分が動いて作っていくという思いで政務にあたっていたのでしょう。

伊藤博文は、44歳で初代内閣総理大臣になり、その後、3度も総理大臣を勤めています。44歳での就任は最年少記録となり、未だに破られてはいません。

明治維新後、内閣制度が発足するまでは、大久保利通などが実権を握っていました。

当時の日本では自由民権運動が高まっており、1881年(明治14年)政府は「10年後に国会を開設する」とし、英語力を評価された伊藤博文は、岩倉使節団の副使に任命されて再び欧州に向かいドイツ憲法の研究を行いました。

伊藤博文は、イギリスからの帰国後、華族令を制定し、貴族院を創るために、華族制度を整えました。
そして1885年(明治18年)に内閣制度を制定、内閣総理大臣に就任します。

そして、「大日本帝国憲法」を発布。

江戸時代に欧米諸国と結んだ不平等条約により、日本は欧米の植民地にされる危険性があり、憲法や法律が不充分で、国として整っておらず、近代化とは程遠いものでした。

そのため不平等条約を解消し、日本も一人前の法治国家であることを世界に認めてもらうためには、「大日本帝国憲法」の発布は重要なものだったのです。

この伊藤博文はこの憲法制定によって、天皇中心とした君主制に基づいた政治を行い、近代国家へ近づくことを目指し、進み続けたのです。

まさに、日本の新しい歴史を作った伊藤博文らしい言葉ですね。

伊藤博文の名言9:お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ。

伊藤博文の名言9
お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ。

伊藤博文には2人の実子以外にも、芸者との間に生まれた子や養子を合わせ、7人の子がいました。

これは、留学を控えた次男・眞一に向けて伊藤博文が発した言葉です。

伊藤博文が、1871(明治4)年から約2年にわたって岩倉使節団の副使として欧米12カ国を歴訪した時期と、憲法調査のために1882(明治15)年から1年余り訪欧した時期に、日本にいる妻・梅子に手紙を送っています。

当時、まだ幼かった次女生子と養嗣子として迎えた勇吉(伊藤博邦)の子育てに際し、
「子どもはあまり内ばかりに置き候てはよろしからず。朝晩はくたぶるるほど遊ばせるがよろし」
「子どもはすべて抱きかかえて育つるより、むやみに歩かせ候方よう育つと申すことに御座候」
などと記し、外遊びや外歩きの大切さを説いたといいます。

伊藤博文は、子供が青年期を迎えると、勉学を重視させ、勉強に励む様子を渡航先で知っては安堵の気持ちを手紙で伝えたそうです。

子供の教育には熱心でありながらも、決して縛り付けることをせず、自由にやりたいことをさせる、まさに伊藤博文らしい言葉のように感じます。

伊藤博文の最後の言葉(辞世の句):誰が撃ったのか。森(秘書官)も撃たれたのか。  

伊藤博文の最後の言葉
誰が撃ったのか。森(秘書官)も撃たれたのか。

この言葉は、伊藤博文が中国・ハルビン駅で安重根の銃弾に倒れ、息をひきとる直前に残した最後の言葉です。

1909年(明治42年)10月26日午前9時30分、韓国統監を辞任して枢密院議長の地位にあった伊藤博文は、日韓併合についてロシアと交渉するためハルビン駅に降り立った時のことです。

伊藤博文の孫にあたる伊藤満洲雄の話によると、
「俺は駄目だ。誰かほかにやられたか?」と聞き、秘書官の森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉だったと言います。

自分の最後を知りながらも、秘書官や他の人の心配をする、最後まで優しい人物だったことが伝わる言葉ですね。

まとめ:伊藤博文の名言からは、日本を近代化しようと戦う覚悟が感じられる

貧しい農民から、日本の初代内閣総理大臣にまでなった伊藤博文は、まさに近代日本の歴史を推し進めた人物です。

今回の内容をまとめると、

  • より良い国づくりを目指し、地位や立場に拘らずに人材を採用する
  • 間違っているなら徹底的に納得のいくまで討論する
  • いばったりすることなく、常に謙虚で学び続ける
  • 新しい歴史を作ろうと思えば、他人の力ばかりあてにせず、まずは自分が動くこと

伊藤博文の名言からは、欧米列強に負けず、日本を近代化しようと戦う決意と覚悟が感じられますね。

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