中大兄皇子(天智天皇)の家系図と天皇の系図を簡単に解説!中臣鎌足との関係は?
中大兄皇子(天智天皇)は、日本の第38代天皇(626年(推古34年)〜672年(弘文1年/天武1年)です。
天皇中心の国づくりを目指して、政治改革「大化の改新」を行なった人物として、歴史で習ったのではないでしょうか?。
今回は、中大兄皇子(天智天皇)の家系図と、天皇の系図を簡単に解説していきます。また、同じ時代の人として習った、中臣鎌足との関係についても解説していきます。
目次
中大兄皇子(天智天皇)の家系図を簡単に解説!
中大兄皇子は家族もまた天皇で、なるべくして天皇になった人物です。両親や兄弟について、家系図をもとに、詳しく解説していきます。
中大兄皇子の先祖は天照大神
中大兄皇子(天智天皇)は天皇家なので、祖先を辿ると天照大神になります。
天照大神は太陽を神格化したものです。
伊勢神宮は天照大神を奉っている最も代表的な神社です。日本で最も重要な神様のひとつとして、あらゆる願いを聞き届けるとし、所願成就の神様として知られています。
日本は神の国であり、当然ながらそれを敬い、崇め、祀らなければならず、こうした祭祀を 行う役職を神職と言い、天皇はその神職のトップの地位にありました。
最初の天皇は神武天皇で、『日本書紀』・『古事記』によれば天照大御神の孫・天孫の曽孫が神武天皇と言われています。
中大兄皇子と繋がる天皇の系図
前述したように、中大兄皇子(天智天皇)は天皇家です。第38代の天皇となります。
当然ながら、その家族も天皇になった人物が多いです。
【中大兄皇子の家族で天皇になった人物】
- 父 :第34代 舒明天皇
- 母 :第35代 皇極天皇
- :第37代 斉明天皇
- 叔父:第36代 孝徳天皇
- 第一皇子:第39代 弘文天皇
- 弟 :第40代 天武天皇
- 義妹:第41代 持統天皇
中大兄皇子の父は舒明天皇
中大兄皇子の父親は第34代・舒明天皇です。
生没年月日は、593年(推古1年)〜641年(舒明13年)11月17日です。
舒明天皇は蘇我家の後押しで天皇に即位し、政治の実権は蘇我蝦夷に握られていました。
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中大兄皇子の母は皇極天皇(斉明天皇)
舒明天皇の後、天皇に即位したのは舒明天皇の皇后で、中大兄皇子の母親でもある宝皇女(594年(推古2年)〜661年(斉明7年)です。
宝皇女は第35代・皇極天皇として即位。
当時は天皇に相応しい皇子がいない場合、皇后が天皇になることは珍しいことではなく、
「乙巳の変」の後、一旦、弟の軽皇子(孝徳天皇)に天皇の位を譲りますが、孝徳天皇が亡くなると、再び斉明天皇として天皇の位につきます。
とても気の強い性格で高齢にもかかわらず、朝鮮半島での戦争(白村江)に備えて、自ら筑紫に遠征し、遠征中に疫病で亡くなりました。
中大兄皇子の弟は天武天皇
中大兄皇子(天智天皇)が亡くなった後に、天皇に即位したのが弟の大海人皇子(第40天武天皇)です。
中大兄皇子(天智天皇)には男子がいましたが、後継ぎの優先順位は、実弟の大海人(天武天皇)が上でした。
しかし、天智天皇は実子の大友皇子を跡継ぎと考えており、この後継者争いを巡り、後に壬申の乱が起こります。
天皇中心の政治を強化し、大臣は置かず、自ら政治を主導し、日本の律令国家(法治国家)体制を目指しました。
「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われています。
中大兄皇子の義妹は持統天皇
持統天皇は天武天皇の皇后(天智天皇の娘)で、皇室史上3人目の女性天皇として、第41代天皇になります。
天皇候補の皇子が幼かったため、「中継ぎ」として即位しました。当時はこのように、皇子の後継が不在の場合に、中継ぎ天皇として女性が天皇の代理をすることもよくあったようです。
中継ぎとはいえ、積極的にリーダシップを発揮し、天武天皇の政治路線を引き継いだとされています。
中大兄皇子と中臣鎌足の関係は?
中臣鎌足(614年(推古22年)〜669年(天智8年)11月14日)と言えば、中大兄皇子と共に、蘇我入鹿を倒したことで知られている人物です。
天皇中心の政治を目指していた聖徳太子が亡くなり、豪族の蘇我入鹿が政治を支配し始めます。
その蘇我入鹿を倒し、天皇を中心とした国づくりを行います。大化の改新をおこなった人物としても有名です。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を滅ぼした
天皇中心の国づくりを目指した「聖徳太子」が622年(推古30年)に死去すると、大臣を務める蘇我氏が権勢を振るい始めます。
皇位継承における人事にも大きな発言力を持つようになり、641年(舒明13年)に舒明天皇が崩御し、翌年の642年(皇極元年)に皇后が皇極天皇として即位するようになると、大臣として実権を握っていた蘇我氏は、舒明天皇の第1皇子である古人大兄皇子を次期天皇にしようと画策します。
古人大兄皇子と中大兄皇子(天智天皇)は異母兄弟で、古人大兄皇子の母は蘇我馬子(蘇我入鹿の祖父の娘)で、蘇我入鹿は従兄弟に当たります。
当時、皇位継承権があったのは、聖徳太子の子、山背大兄王です。
山背大兄王が邪魔だった蘇我入鹿は、643年(皇極2年)に挙兵し、山背大兄王のいる斑鳩宮に攻め入り、自害に追い込んでしまいました。
この蘇我氏の横暴に中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が激怒し、645年(皇極4年)に曽我入鹿を暗殺。
蘇我入鹿暗殺のわずか2日後、中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足を天皇の最高顧問で政務の機要を掌握する「内臣」とする新政府が樹立され、天皇中心の律令国家を築き、王族・豪族の権限を吸収し取り上げました。
新しい改革は大化の改新と呼ばれ、内容は以下の通りです。
- 第1条「公地公民制」
王族・豪族が支配していた土地や人民を国(天皇)が支配する - 第2条「国郡制度」
全国を国に、さらに国をいくつかの郡に分けるというもの。地方行政組織を定め、中央の朝廷からは国司が派遣され、各地の政治を行なった。 - 第3条「班田収授法」
6年に一度戸籍を作り、戸籍にしたがって土地(公地)を公民に分け与えた。 - 第4条「租調庸の税制」
公民に税を負担させる統一的税制を行ないました。
中大兄皇子の家族関係は泥沼だった?
中大兄皇子の家族関係は、かなり泥沼だったようです。
不倫関係や三角関係、さらには継承権争いなど、複雑な家族関係があったようです。
中大兄皇子は妹の間人皇女と不倫していた
中大兄皇子は、実の妹である間人皇女と不倫関係にあったと言われています。
当時は、親戚同士で結婚することは、よくあり、異母の兄妹関係では許されていたようですが、同じ生母同士の兄妹の恋愛、結婚は御法度でした。
しかも、間人皇女は、中大兄皇子の叔父の孝徳天皇の皇后でもあったので、完全な不倫の関係でもありました。
蘇我入鹿を倒し、大化の改新の立役者でもある中大兄皇子は、当然天皇になるチャンスが何度かあったのようですが、なかなか天皇に即位しなかったのは、このスキャンダルが原因だったという説もあるようです。
中大兄皇子は、弟の大海人皇子と三角関係にあった
中大兄皇子は、実の妹・間人皇女と不倫関係になるだけでなく、実の弟の大海人皇子(天武天皇)とは、三角関係になる泥沼劇までしていたのです。
大海人皇子(天武天皇)には、額田王という大変美しい妻がいました。
子供も2人いて、夫婦仲も良かったようです。
ところが、中大兄皇子が額田王に恋心を抱き始め、大海人皇子(天武天皇)に妻を譲るように迫ったというのです。
当然断るかと思いきや、中大兄皇子を恐れた大海人皇子(天武天皇)は、言われるままに差し出しました。
その時、額田王の代わりにと、大海人皇子に嫁がせた自分の娘が後の持統天皇です。
当時、絶大な権力を握っていた中大兄皇子(天智天皇)に逆らうことは、たとえ実の弟であっても許されない時代だったのでしょう。
中大兄皇子の弟と息子の争い
中大兄皇子(天智天皇)の亡きあと、弟の大海人皇子が第40代天武天皇となります。
これは、亡くなる前からの約束だったようで、中大兄皇子(天智天皇)は死の間際に、大海人皇子を呼び出し、「自分の死後は天皇になるように」と言いつけます。
しかし、これは中大兄皇子(天智天皇)の息子の大友皇子に後を継がせたいための罠で、この提案を受ければ暗殺されると悟った大海人皇子は、提案を断り吉野に逃れました。
大海人皇子は、中大兄皇子(天智天皇)が亡くなるのを待って挙兵し、大友皇子を倒します(壬申の乱)。その後、天武天皇として即位します。
このことがきっかけで、その後もしばらく、天皇家は天武系と天智系に分かれ、対立することになりました。
まとめ:中大兄皇子の家系図は天皇だらけ。その家族関係は泥沼だった。
中大兄皇子(天智天皇)は天皇家に生まれ、天皇のとしての権力を存分に使って好き放題していた印象がありますね。
今回の内容をまとめると、
- 中大兄皇子(天智天皇)の家族は、両親、叔 父、息子、弟、義妹が天皇という天皇一家
- 中大兄皇子(天智天皇)は、中臣鎌足と共に蘇我入鹿を滅ぼし、大化の改新をおこなった
- 実の妹との不倫関係、実の弟の妻を略奪婚、弟と息子との次期後継者争いなど、家族関係はかなり泥沼だった
天皇中心の国づくりを目指し、中臣鎌足と共に蘇我入鹿を倒し、大化の改新の立役者となった中大兄皇子(天智天皇)ですが、私生活ではかなり横暴なことをしており、家族関係も泥沼だったようです。
天皇のスキャンダルなんて、今では考えられないですね。