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柴田勝家の最後!なぜ秀吉と争ったのか?賤ヶ岳の戦いの敗因は何なのか?

柴田勝家(しばたかついえ)は、織田家の重臣として活躍した「鬼柴田」の異名をもつほどの勇猛果敢な戦国時代の猛将です。

柴田勝家は、最後、羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗れ、妻のお市の方と自害しました。
今回は、なぜ同じ織田信長に仕えていた柴田勝家と羽柴秀吉は、対立したのか?鬼柴田と呼ばれるほどの猛将が、なぜ賤ヶ岳の戦いで敗れたのか?について、簡単に解説していきます。

柴田勝家の最後の姿を簡単に解説

柴田勝家の最後の姿は、自分の腹を掻っさばき、五臓六腑をかき出してから介錯させるという、壮絶な切腹ののち果てたとされています。「鬼柴田」の異名に違わない、無骨で剛直な武将の最期ですね。

柴田勝家の最後は妻のお市と共に自害

柴田勝家の最後は、賤ヶ岳の戦いの敗北により退却した本拠地の北ノ庄城の天守で、妻のお市の方と共に自害しました。

北ノ庄城が羽柴秀吉軍によって包囲され、柴田勝家は自らの最後を悟ります。

妻のお市の方に城を出る事を勧めますが、お市の方は娘たち(茶々・初・江)だけは城から逃がし、自分は柴田勝家とともに死ぬことを選びます。

腹が決まった柴田勝家は豪胆な行動を起こします。

城に残っていた家臣を身分の上下なく集め、酒宴遊興に及んだのです。
家臣たちへのねぎらいの意味も込められていたことでしょう。

その後、城の天守にて柴田勝家とお市の方は辞世を詠むと、自害しました。

柴田勝家は、妻らを一刺しで殺すと、自分の腹を十字に切って五臓六腑を掻き出してから、介錯されたといわれています。この時、80人程の家臣たちも後を追って自害しました。

柴田勝家はなぜ秀吉と争うことになったのか?

柴田勝家も羽柴秀吉も、どちらも織田信長に仕えていた家臣です。なぜ元々は味方同士だった両者が争うことになってしまったのでしょうか?
柴田勝家が、なぜ秀吉と争うことになったのか?その経緯を簡単に解説していきます。

【柴田勝家と羽柴秀吉の争いの経緯】

1)手取川の戦い:1577年(天正5年)

織田信長軍と上杉謙信軍が、加賀の国を巡って激突した合戦です。
柴田勝家が率いる北陸方面軍に援軍として駆けつけたはずの羽柴秀吉ですが、柴田勝家の方針に反発し、勝手に自軍を引き揚げてしまいます。
これにより、柴田勝家が率いる織田軍は足並みが乱れ、敗北してしまいます。

更に、無断で戦線離脱したにもかかわらず、羽柴秀吉の処分が謹慎だけだったことも、柴田勝家にとっては納得できなかったことなのではないでしょうか。

2)本能寺の変:1582年(天正10年)

柴田勝家は、謀反人「明智光秀」を打ち取る手柄を羽柴秀吉にとられてしまいます。

3)清洲会議:1582年(天正10年)

本能寺の変から25日後、尾張の清洲城で織田家の重臣が集まり、後継者と織田領の分配を決める清洲会議が行われました。
この会議で柴田勝家と羽柴秀吉の主張が激しく激突します。

4)長浜城陥落:1582年(天正10年)

柴田勝家が清須会議で手に入れた長浜城に、羽柴秀吉軍が攻め入り、わずか一日で陥落します。

柴田勝家の本拠地北ノ庄城に雪が降り積もり、柴田勝家は援軍が出せないタイミングを狙ったものでした。

5)賤ヶ岳の戦い:1583年 (天正11年)

ついに、柴田勝家と羽柴秀吉を筆頭として織田家の勢力を二分する激しい戦いが起こりました。

この戦いに勝利した羽柴秀吉は天下人へ上り詰め、敗れた柴田勝家は自害に追い込まれました。

柴田勝家と秀吉の仲が悪化した清洲会議

柴田勝家と秀吉の仲が悪化した清洲会議

織田信長の家臣であった柴田勝家と羽柴秀吉の仲が悪化するターニングポイントとなったのは、織田信長が本能寺の変で亡くなった後に開かれた、清洲会議です。

1582年に本能寺の変が起こります。
絶対的な君主である織田信長が亡くなると、織田家の重臣たちが清須に集まり、織田家領の分配と新しい当主を決める清洲会議が開催されます。

この時、柴田勝家は筆頭家臣でした。

そのため、清州会議でも主導権を握れるはずです。

柴田勝家は織田信長の跡継ぎとして、織田信孝を推薦します。
織田信孝は織田信長の三男で、年齢も24歳と申し分ない存在です。

しかし、羽柴秀吉がこれに真っ向から反対。

羽柴秀吉は、まだ3歳の織田信長の孫の三法師を跡継ぎに推したのです。

「織田信長の嫡男の織田信忠の息子である三法師こそが正当な後継者である」

と羽柴秀吉は主張。

織田信忠は生前に織田信長から家督を譲られ、二代目当主となっています。
その織田信忠も本能寺の変で亡くなっているため、三代目当主は織田信忠の息子の三法師であるべきだということです。

君主の仇討ちを果たす功績を残した羽柴秀吉の発言力は、柴田勝家に負けないものとなっていたのでした。

羽柴秀吉の案に、丹羽長秀などの他の家臣も賛成したため、三法師を当主とすることになってしまいました。

清州会議で柴田勝家は、羽柴秀吉の成り上がりと野心を、脅威に感じた事でしょう。

しかしながら清州会議では、体外的には、まだ羽柴秀吉も柴田勝家との対立の意思を示していなかったとも言われています。

清州会議では、織田信長の妹であるお市の方と柴田勝家の結婚も決まっています。

柴田勝家は長浜城を自分のものにしていますし、自分が次期当主として推薦していた織田信孝を、三法師の後見役にし、三法師は織田信孝の本拠地の岐阜城に連れていくことも決まっています。

三法師と羽柴秀吉を離れさせることで、羽柴秀吉が勝手な振舞いをできないようにしていたというわけですね。

柴田勝家の最後の戦い「賤ヶ岳の戦い」

清州会議からわずか5か月後に羽柴秀吉が動きます。

三法師のいる織田信孝の本拠地の岐阜城に攻撃をしかけ、三法師を奪還したのです。
その道中にあった長浜城も羽柴秀吉に奪われてしまいます。

もちろん、長浜城に柴田勝家がいたら、そのような羽柴秀吉の暴挙を許すはずもありません。
しかし、柴田勝家はその時、長浜城にはいませんでした。

清州会議の後、柴田勝家は長浜城には養子の柴田勝豊を城将としておき、自分は本拠地の北ノ庄城に戻っていたのです。
北陸にある北ノ庄城は冬になると雪が降り積もり、動けなくなります。
柴田勝家が雪に阻まれ、援軍を出せないタイミングで、羽柴秀吉は戦いを仕掛けたというわけです。

柴田勝家は、春を迎えると3万の軍勢を率いて出陣します。
羽柴秀吉軍は5万の兵がいましたが、北に柴田勝家が構え、南と東も柴田勝家側の滝川一益や織田信孝が挙兵しており、勝てない戦いではありませんでした。

羽柴秀吉側の砦「大岩山砦」を、自分の部下の中でも最も勇猛な佐久間盛政に攻撃させ陥落することに成功します。

ところがこの後、形勢は逆転します。
羽柴秀吉が驚くべき速さで駆け付けたからです。
秀吉は52kmの山道をわずか5時間で踏破したといいます。

戦いは拮抗し、激戦状態にもつれ込んだその時、柴田勝家勢として布陣していた前田利家が戦線を離脱してしまいます。
これにより、拮抗していた戦いのバランスは崩壊し、柴田軍は壊滅してしまいます。

柴田勝家も本拠地である北ノ庄城に撤退を余儀なくされます。

こうして賤ヶ岳の戦いは羽柴秀吉の勝利で幕を閉じたのでした。

柴田勝家が賤ヶ岳の戦いに負けた敗因は?

「鬼柴田」の異名をもつほどの勇猛果敢な柴田勝家が、なぜ、賤ヶ岳の戦いで敗れたのか?

柴田勝家の敗因は、「相手が羽柴秀吉だったから」といえるでしょう。

清州会議で決まった内容をこんなにすぐに反故にされることも、ありえない速さで移動することも、味方を懐柔されていることも、今までの柴田勝家の常識から大きく外れていたことでしょう。

想定を超えた発想と野心と行動力を持つ羽柴秀吉を前に、柴田勝家は自らが描いたシナリオ通りにことが運ばず、誤算の連続だったと思われます。

羽柴秀吉が相手で無ければ、柴田勝家は負けていなかったかもしれません。

賤ヶ岳の七本槍のメンバーは?

賤ヶ岳の戦いでは、羽柴秀吉軍の中で、秀吉の子飼いの武将たちが大活躍をしました。これら武将たちは「賤ヶ岳の七本槍」と総称されています。

<賤ケ岳七本槍>

  • 加藤清正 (かとうきよまさ):虎退治の逸話ももつ、勇猛果敢な戦国武士
  • 福島正則 (ふくしままさのり):武勇に優れた武闘派武将
  • 加藤嘉明 (かとうよしあきら):主に水軍を指揮して活躍した武将。
  • 片桐且元 (かたぎりかつもと):元・浅井長政に仕えていた武将。
  • 脇坂安治 (わきざかやすはる):浅井長政→明智光秀→豊臣秀吉→徳川家康と主を変えて江戸時代まで生き抜いた武将。
  • 平野長泰 (ひらのながやす):賤ケ岳七本槍の中で唯一、大名になれなかった武将
  • 糟屋武則 (かすやたけのり):黒田官兵衛に推挙されて、豊臣秀吉の家臣となった。

まとめ:柴田勝家の最後は妻と自害。信長の死後に秀吉と対立するようになった

柴田勝家の最後は、自分の本拠地で妻のお市の方と共に、まさにお柴田の名にふさわしい姿で、自害したことがわかりました。

今回の内容をまとめると、

  • 柴田勝家の最後は、妻のお市と共に居城の天守で自害した。
  • 柴田勝家と秀吉の仲が悪化したターニングポイントは清洲会議だった。
  • 柴田勝家は「賤ヶ岳の戦い」で、羽柴秀吉の素早い行動や前田利家の戦線離脱により敗北した。
  • 賤ヶ岳の戦いでは、羽柴秀吉軍の中で、秀吉の子飼いの武将たち「賤ヶ岳の七本槍」が大活躍した。

柴田勝家と秀吉は、共に織田信長に仕えた武将でありながら、信長の死後に決裂し争った。
誰が敵になるのか?わからない戦国時代ならではの命をかけた生き様を感じますね。

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