壇ノ浦の戦いをわかりやすく解説!いつ、どこで行われた?三種の神器の行方は?
壇ノ浦の戦い(1185(寿永4))は、源平合戦(治承・寿永の乱)の最後の戦いとして有名な戦いです。
栄華を誇った平家が滅亡に至ったこの戦いですが、いつ、どこで行われたのでしょうか?
また、この戦いでは源頼朝が三種の神器を取り戻すことが目標だったのですが、その三種の神器の行方はどうなったのでしょうか?
この記事では、壇ノ浦の戦いについてわかりやすく解説していきます。
目次
壇ノ浦の戦いを簡単に解説!
壇ノ浦の戦いはいつどこで、どんな戦いだったのでしょうか?
ここでは、壇ノ浦の戦いは、何が発端で、どんな流れで争っていったのか?ついて簡単に解説していきます。
壇ノ浦の戦いは源平合戦の最終決戦場?
壇ノ浦の戦いとは、平家が滅亡することになった源平合戦の最終決戦でした。
壇ノ浦の戦いに至るまでには、大きな戦が2つありました。
・一ノ谷の戦い
壇ノ浦の戦いに至るまでに、平氏と源氏は何度も何度も衝突しています。
その中でも、平氏の都落ち後に源氏が大きな勝利をおさめたとされるのが一ノ谷の戦いです。
一ノ谷は、現在の兵庫県にあたる場所にあり、崖と海に挟まれた場所でした。
そのため、攻撃するのが難しく苦戦を強いられると思われましたが、源頼朝と源義経の挟み撃ちにより平氏は敗走することになります。
この際に、源義経が行ったとされるのが、鵯越(ひよどりごえ)の奇襲です。
そして、この敗走を受けて、平氏は屋島へと逃げ込みます。
・屋島の戦い
先程お伝えした一ノ谷の戦いで屋島へと逃げ込んだ平氏。
そして、平氏が屋島で陣地を張ったため繰り広げられた戦いが屋島の戦いとなります。
ちなみに、屋島は現在の香川県にあたる場所にあります。
この戦いは、有名な那須与一が扇を射たエピソードの舞台でもあります。
結果としては、またしても義経の奇襲により、平氏は再び敗走することになってしまいました。屋島は瀬戸内海を抑える上で重要な拠点でしたが、平氏はそれも失ってしまうことになります。
このように都から西へ西へと敗走していった平氏ですが、背後の九州はすでに源範頼によって抑えられており、これ以上の逃げ場所がなくなってしまいました。その背水の陣で源氏を迎え撃つことになった戦いというのが、壇ノ浦の戦いになるわけです。
壇ノ浦の戦いはいつ、どこで行われた?
壇ノ浦の戦いは、先程もお伝えしたとおり、源平合戦最後の戦いの場所です。
一ノ谷の戦い、屋島の戦いを経て、1185年(寿永4年)に開戦されます。
壇ノ浦の戦いが行われた場所は、現在の山口県下関市にある「みもすそ川」です。
現在この場所は、壇ノ浦古戦場として公園になっており、公園内には、源義経像や平清盛の四男・平知盛像などが設置されています。
公園前の海は、潮の流れが早く、関門海峡の最も狭まったところであり、「早鞆ノ瀬戸(はやとものせと)」と言われていました。潮の流れを読むことが難しく、激しい流れの難所でしたが、この場所を平氏は決戦の地としました。このことから、平氏がいかに水上戦に自信があったのかが伺えます。
壇ノ浦の戦いの両軍の構成は?
壇ノ浦の戦いの両軍の戦力や構成は、以下のような状態だったと言われています。
【平家方】
- 総大将:平宗盛
- 船数:500艘(吾妻鏡説)/1000艘(平家物語説)
- 参加武将:平知盛、平経盛、平教経、平教盛、平有盛、平行盛、平時忠、平清宗、藤原景清
【源氏方】
- 総大将:陸・源範頼、海・源義経
- 船数:800艘(吾妻鏡説)/3000艘(平家物語説)
- 参加武将:梶原景時、熊野別当湛増、河野通信
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」と、「平家物語」に書かれているものでは、両軍の戦力に差があり、今となってはどちらが正しいのか、証明することはできませんが、、
両軍ともかなりの兵士を費やした戦いだったと伺えますね。
壇ノ浦の戦いは海上戦
壇ノ浦の戦いは海上戦でした。
これは、平氏が海上戦を得意としていたからだといわれています。
平氏は、平清盛の頃から瀬戸内海の航路を整備するなど海に馴染みのある一族で、源氏に勝つためには海上戦しかないと考えたのでしょう。
前半戦は平氏の予想通り、平家軍の優勢で戦いが進んでいきます。
彦島を本拠地として、流れの早い関門海峡の潮の流れに乗って、強力な水軍によって有利に進めていったのです。ところがここでまたしても平氏の勝利への道を阻んだのは源義経の存在でした。
源義経は、当時禁忌とされていた船の漕手を狙い撃つという戦法をとったのです。
戦なのだからそれくらい普通のことではないのかと考える人もいるでしょう。
しかし、当時の戦には、武士たるもの絶対に守らなくてはならないマナーがありました。
水上戦においては、非戦闘員である船の漕手は攻撃してはならないという誰もが守って当然の決まりがあったのでした。
しかし、源義経はその決まりを無視して漕手を狙ったのです。
これにより、平家軍は大打撃を受けます。
さらに、このとき潮の流れも変わってしまい、自然の力すらも源家軍に味方し始めます。
その後、平家軍の分が悪くなってきたと悟ると、平家軍に協力していた水軍たちが次々と裏切り始め他のです。
このように、いくつもの要因が重なった結果、平家軍の負けは決定的になっていきます。
そして、平家軍は、安徳天皇などの皇族たちとともに、次々と海の中へと身を投げ自決していくのです。こうして、壇ノ浦の戦いは源氏軍の勝利で終わったのでした。
壇ノ浦の戦いは三種の神器奪還が目的だった?
壇ノ浦の戦いは、平家が滅亡したことが取り上げられがちですが、実は源頼朝の本来の目的は、三種の神器奪還でした。
そもそも、三種の神器はどうして京からなくなってしまったのでしょうか?
そして、壇ノ浦の戦いの後、どこに行ってしまったのでしょうか?
ここでは、壇ノ浦の戦いにおける三種の神器について簡単に解説していきます。
平氏は安徳天皇とともに三種の神器を持ち出した?
壇ノ浦の戦いにおいて、源氏が一番必死に探していたものは「三種の神器」と呼ばれるものでした。
三種の神器とは、
- 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)/別名:草薙剣
- 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
- 八咫鏡(やたのかがみ)
の3つから構成される、天皇家に代々伝わる宝のことを言います。
この三種の神器はただの天皇家の宝というだけではなく、これを所持していなければ正式な天皇として認められないという大きな意味を持つ宝でした。
しかし、そんな大事な三種の神器は、平氏が都から逃れ、西日本へと行き勢力を立て直そうとしていた際に、安徳天皇と一緒に持ち去っていってしまったのです。
三種の神器を持っているものが正当な天皇であるのに、持ち出されてしまったとあっては、次の天皇をたてることもできません。
そこで、源頼朝はこの三種の神器を奪還するという名目で源平合戦を開戦するのです。
三種の神器は平氏が一緒に海に沈めてしまった?
先程もお伝えしたように、三種の神器は安徳天皇が所持していました。
しかし、平氏が「もはやこれまで…」という状況になってくると、安徳天皇たちは舟から海に飛び込み自決してしまいます。そして、このとき三種の神器も一緒に海の中へと沈んでいってしまうのです。
源頼朝はこれを必死に探し、なんとか八尺瓊勾玉と八咫鏡を見つけることに成功します。
しかし、天叢雲剣だけはとうとう回収することが叶いませんでした。
三種の神器の行方は?
頼朝がついに見つけることのできなかった天叢雲剣。
三種の神器が3つ揃わなかったら、正式な天皇として認められないため、安徳天皇以降の今にまで続く天皇は正式な天皇として認められていないの?と思った方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、今三種の神器は3つ揃っているのです。
これには2つの説が存在しています。
一つは、壇ノ浦の戦いの後に、伊勢神宮から新たに献上されたという説。
もう一つは、壇ノ浦の戦いで海に沈んだものは実は儀式で使用するためのレプリカだったという説。
つまり、そもそも本物は海に沈んでいなかったから存在しているということですね。
このどちらの説が正しいのかということはまだ解明されていませんが、いずれにせよ、安徳天皇以降の天皇も正式な天皇として三種の神器を継承していったということになります。
壇ノ浦の戦いのその後は?
壇ノ浦の戦いによって、栄華を誇っていた平家が滅亡することになります。
壇ノ浦の戦いで敗れた平家が滅亡したことによって、何が起こったのでしょうか?
ここでは、壇ノ浦の戦いのその後について簡単に解説していきます。
平家が滅亡し、源頼朝は源義経と対立?
壇ノ浦の戦いによって、平家は滅亡することになってしまいました。
これで鎌倉にいた源頼朝の敵はいなくなったと思われました。
しかし、この壇ノ浦の戦いで弟である源義経が活躍しすぎたことにより、頼朝はその軍事的才能に気づき、いつか反旗を翻されるのではないかと危険視し始めます。
また義経は、頼朝と対立している後白河法皇に懐柔されていました。
そのことが頼朝に、義経の存在は危ないと思わせていたのかもしれません。
そして、義経が、頼朝に相談なしに後白河法皇から官位を授かったり、平時忠の娘を妻としてもらっていたりしていたことは頼朝を一層怒らせることとなりました。
頼朝は武家による新政権を立ち上げようとしていましたから、義経のその行動はその流れをぶった切るものであったからです。
怒った頼朝は義経を討伐することにします。
義経は頼朝から逃げて、東北地方の奥州藤原氏に助けを求めます。
奥州藤原氏は、頼朝にとっては鎌倉を背後から脅かす危険な存在でした。
そのため、義経をかくまったことを理由に、義経共々奥州藤原氏も滅ぼしたのです。
こうして、頼朝を脅かす存在がいなくなり、頼朝の目指す武家政権の樹立にまた一歩近づいたのでした。
鎌倉幕府が開かれる?
頼朝は、壇ノ浦の戦いの後、戦時中ということで特例として認められていた「寿永二年十月宣旨」によって得た東国の支配権や、西国での兵糧米徴収権などを、平時でも認めさせるように、後白河法皇に交渉していきました。
そして、この交渉が成立したことにより、全国に守護・地頭を設置することに成功します。
これは、実質全国を頼朝の支配下に置いたことと同義でした。
さらに、義経や奥州藤原氏といった、新政権樹立に危険な存在を排除します。こうして、敵のいなくなった頼朝は無事武士による政権を樹立し、鎌倉幕府を開くこととなるのです。
壇ノ浦の戦いは『平家物語』などで語り継がれることに?
壇ノ浦の戦いは、『源平盛衰記』や『平家物語』といった講談や軍記物にて、今でも語り継がれています。
さらに歌舞伎や文楽の『義経千本桜』でも、渡海屋・大物浦の段(とかいや・だいもつのうらのだん)で壇ノ浦の戦いについて描かれています。
また、平家物語から派生した『耳なし芳一』も壇ノ浦の戦いが舞台であったりします。
こうして、様々なもので壇ノ浦の戦いは取り上げられ、広く知られることとなったのです。
まとめ:壇ノ浦の戦いは源平合戦の終結の場であり、源頼朝が台頭していくきっかけだった
壇ノ浦の戦いの敗戦によって、栄華を誇っていた平家は滅亡することになってしまいました。
そして、それを受けて、源頼朝は頭角を現すようになっていき、最終的に鎌倉幕府を開くことになりました。
今回の内容をまとめると、
- 壇ノ浦の戦いは、源平合戦の終結の場であった
- 最初は海上戦を得意とする平家側が優勢であった
- 源義経の奇策により、最終的に源家側が勝利した
- 負けを悟った安徳天皇たちは入水自殺した
- その際に三種の神器も一緒に海の中へ沈んでいった
- 今でもその際に沈んだ天叢雲剣は見つかっていない
- 壇ノ浦の戦いによる平家滅亡は、源頼朝が台頭していくきっかけとなった
当時掟破りとされていた義経の奇策ですが、その柔軟な考え方ができるあたり、本当に頭の切れる人物だったのではないかと伺えます。
頼朝に追い込まれることがなければ、天下をとっていたのは義経だったのではないか?と思わざるにはいられません。