徳川家康は何した人?年表で簡単に解説!功績は?性格はどうだった?
徳川家康(1543(天文11)〜1616(元和2))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。織田信長、豊臣秀吉と並んで戦国三英傑と呼ばれており、天下を統一して江戸幕府を開きました。
また、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤さんが徳川家康役を演じるということで注目が集まっています。
そんな徳川家康は何した人なのでしょうか?この記事では、徳川家康の年表を見ながら、その性格や功績について簡単に解説していきます。
目次
徳川家康は何した人?
家康は戦国三英傑の一人として数えられるくらい、この時期の武将として頭角を表していました。
ここでは、徳川家康の年表を見ながら、何したのかを簡単に解説していきます。
徳川家康の年表
【徳川家康(とくがわいえやす)のプロフィール】
1543年(天文11年)〜1616年(元和2年)/享年:73歳
出身地:三河国(現在の愛知県)
父:松平広忠/母:伝通院
正室:築山殿/継室:朝日姫
側室:
西郡局、於古茶、於愛、於竹、於都摩、於茶阿、於亀、於久、於万、於梶、於富、於夏、於六、於仙、於梅、阿茶局、於牟須、於松、三条氏、松平重吉娘
徳川家康の子供:
松平信康、亀姫、督姫、結城秀康、秀忠、松平忠吉、振姫、武田信吉、松平忠輝、松平松千代、平岩仙千代、義直、松姫、頼宣、頼房、市姫
【徳川家康の年表】
- 1543年(天文11年):0歳
三河国・岡崎城で松平広忠の嫡男として生まれる - 1547年(天文16年):3歳
今川家に人質として送られるはずが、今川家家臣の裏切りによって織田家の人質となる - 1549年(天文18年):5歳
父・松平広忠が死没
今川家に捕らえられていた織田信広との人質交換により今川家の人質となる - 1555年(天文24年):11歳
元服
今川義元の姪・築山殿と結婚する - 1560年(永禄3年):16歳
桶狭間の戦いに今川軍として参戦
今川義元が織田信長に討たれたことで自由の身となり、岡崎城に帰還する - 1562年(永禄5年):18歳
信長と清州同盟を結ぶ
今川家との関係を断絶する - 1564年(永禄7年):20歳
一向宗の寺院との権利争いにより、三河一向一揆が勃発する - 1568年(永禄11年):24歳
武田信玄と同盟を結び、今川領への侵攻を開始する - 1569年(永禄12年):25歳
今川氏真を破り、遠江を支配下にする
武田家との同盟を破棄し、敵対関係になる - 1570年(元亀元年):26歳
岡崎城から遠江へと本拠地を移し、浜松城を建てる
金ヶ崎の戦い、姉川の戦いにて織田信長を助ける - 1572年(元亀3年):28歳
一言坂の戦い、二俣城の戦い、三方ヶ原の戦いに惨敗し、1000人以上の家臣を失う - 1575年(天正3年):31歳
長篠の戦いにて武田氏を破り、奪われた拠点を取り戻す - 1579年(天正7年):35歳
正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と通じていたことで信長の怒りを買い、築山殿の殺害、信康の切腹を命じる - 1582年(天正10年):38歳
織田信長と協力し、武田家を滅亡に追い込む
織田信長が本能寺の変で没後、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領有する - 1584年(天正12年):40歳
長久手の戦いが勃発する - 1586年(天正14年):42歳
豊臣秀吉の妹・朝日姫と結婚する
大阪城にて諸大名の前で秀吉への忠誠を誓う - 1590年(天正18年):46歳
秀吉と協力して、北条家を討伐する
旧北条領を含む関東八州を与えられ、江戸城に本拠地を移す - 1598年(慶長3年):54歳
五大老筆頭に任命される
石田三成らと対立する - 1600年(慶長5年):56歳
関ヶ原の戦いにて西軍を破り、天下統一を果たす - 1603年(慶長8年):59歳
朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く - 1605年(慶長10年):61歳
嫡男・秀忠に将軍の座を譲り隠居する
駿府に移り、大御所として幕府の制度作りに尽力する - 1614年(慶長19年)〜1615年(慶長20年):70、71歳
大坂冬の陣・夏の陣にて豊臣家を滅亡させる - 1615年(慶長20年):71歳
武家諸法度や一国一城令などを制定し、日本全国の支配を実現する - 1616年(元和2年):73歳
駿府城にて病没する
徳川家康がしたことは?功績を簡単に解説!
江戸幕府を開いたことで有名な徳川家康ですが、どんな功績があるのでしょうか?
ここでは、徳川家康の功績について簡単に解説していきます。
関ヶ原の戦いに勝利して国内を統制した?
徳川家康の功績としてまず挙げられるのは、関ヶ原の戦いに勝利して国内を統制したということでしょう。
豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下統一を目指して石田三成と対立していきます。
石田三成は、豊臣家がトップの世の中を維持しようとしていたのです。
こうして、この2人の対立から起こったのが、関ヶ原の戦いです。
徳川家康は東軍、石田三成は西軍として戦いました。
結果としては、徳川家康の根回しが功を奏し、東軍の勝利で終わります。
こうして、徳川家康に反抗する勢力がいなくなり、天下統一を果たすのです。
その後、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開くことになります。
そして、争いの少ない平和な世の中を築いていくのです。
\ 関ヶ原の戦いについては、こちらの記事でも詳しく解説しております /
江戸幕府の基盤を築いた?
江戸幕府は約260年間続いていくことになります。この間、内乱・内戦というものが基本的にありませんでした。こんなにも長い間、戦がないというのは世界史的にも稀有なことなのです。そして、その基盤を築いたのが徳川家康です。
徳川家康が行った代表的なものを見ていきましょう。
【徳川家康が整えた江戸幕府の基盤】
- ・武家諸法度
大名統制のために制定された基本法です。
これにより幕府と大名の関係性を明確化しました。 - 禁中並公家諸法度
天皇と公家の行動を規制する目的で作られた法です。
これにより、幕府と天皇・公家の関係性を確立しました。 - 一国一城令
諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じました。
これにより、幕府以外の大名の軍事力を削減しました。 - 貨幣制度統一
日本で初めて貨幣制度を統一しました。
全国で使用できる金・銀貨を作り、流通させました。 - 世襲制度
徳川家康はわずか2年で将軍の座を息子の秀忠に譲りました。
こうすることにより、将軍職は徳川家が世襲していくということを天下に示したのです。
上記からも分かるように、徹底した権力統制、財政政策などを行った結果、盤石な江戸幕府の体制が完成したのです。
徳川家康はどんな性格だった?
徳川家康の性格を表す言葉として有名なものに、
「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥(ホトトギス)」
という言葉があります。この言葉から、徳川家康は辛抱強いのかと伺えますが、実際はどのような性格だったのでしょうか?
ここでは、徳川家康の性格をエピソードを交えながら、簡単に解説していきます。
徳川家康の性格がわかるエピソード
・質素倹約で、健康志向だった
徳川家康は、非常に質素倹約を常に意識していました。
自分がどれだけ裕福になろうとも、主食は麦飯とし、焼き魚や野菜の煮物、納豆をよく食べており、それ以上は食べすぎないように気をつけていました。
ある夏、徳川家康に家臣が米飯を出したところ、
「戦ばかりで百姓に苦労をかけているのに、最も食料が不足する夏に自分だけ贅沢はできない」
と、たしなめるというエピソードもあるくらいです。
徳川家康は自分が倹約するだけではなく、家臣たちにも質素倹約を教え、贅沢な屋敷を建てないように命令します。
もちろん、徳川家康自身も質素な屋敷に住んでいたと言われています。
しかし、徳川家康は決してケチだったというわけではありませんでした。
使うときにはしっかりと使うという一面も持ち合わせていたのです。
その証拠として、織田信長を接待したときには、趣向を凝らして豪勢にもてなしていたそうです。
・好奇心旺盛な勉強家
徳川家康は大変熱心な勉強家だったと言われています。
独学で薬草を研究して薬を作ってみたり、『論語』や『吾妻鏡』などの書物を読んだり、三浦按針から数学や幾何学を学んだりと、その興味は多岐にわたっていました。
また、新しいものも好きで、洋時計をはじめ、日時計や砂時計などの時計を特に好んで集めていました。
日本にもたらされたばかりの眼鏡を愛用していたり、日本で初めて鉛筆を使用したりと、こちらも様々なものに興味を持っていたようです。
・忍耐強い
徳川家康が、関ヶ原の戦いに勝って天下を取ったのが59歳のときです。
大阪夏の陣に勝って、最大の敵対勢力であった豊臣家を滅ぼし、安定政権を確立したのが74歳のときでした。
この歳になるまで、徳川家康はひたすら耐えて耐えて着実に足場を固めていったのです。
「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」という狂句は、江戸時代末期には家康の狂句として広く人々に定着していたとされており、江戸時代の人々も徳川家康が忍耐強かったと認識していたことが伺えます。
・失敗を成功の糧とできる
若い頃の徳川家康はとても短気で、とりわけ戦場ではいつもイライラしていたようです。
その証拠に愛用の軍配は噛んだ歯形でいっぱいだったとも伝えられています。
その短気が災いして失敗してしまった戦、それは三方ヶ原の戦いです。
この戦いで、徳川家康は信玄の罠にハマってしまい、手痛い敗北を喫しています。
家臣の意見に耳を傾けず、無謀な突撃をしてしまったことを深く反省し、このときのことを忘れないようにと、敗北した自分の姿を肖像画に残しました。
そして、冷静さを取り戻した徳川家康は、「空城の計」を用いて、武田軍にそれ以上の追撃を断念させたのです。
このように、失敗をしっかりと反省することができ、次に繋げることができる、そんな人物だったのです。
徳川家康はどんな人だった?
家康の功績や性格について見てきましたが、その他にも徳川家康をよく表しているエピソードがあります。ここでは、家康がどんな人だったかよくわかるエピソードをご紹介していきます。
徳川家康は幼少期人質だった?
徳川家康は幼少期を人質として過ごしています。
これには、徳川家康が生まれた場所に原因がありました。
松平家が領有していた三河の地は、駿河・遠江を領有する今川家と、尾張の実力者である織田家の間で板挟みにあっており、松平家は非常に弱い立場でした。
そのため、徳川家康の父・広忠は両者の抗争に巻き込まれないように、今川家に援護を頼んでいました。この頃までは、徳川家康には何も被害はありませんでした。
しかし、徳川家康が3歳くらいのときのことです。
母・於大の実家である水野家が織田家と同盟を結びます。
この同盟が、今川家ににらまれる原因になるのではないかと危惧した広忠は、於大を離縁するのです。
3歳というまだまだ母親に甘えたい年なのに、母親がいなくなってしまうわけですね。
これだけでも相当かわいそうですが、さらに徳川家康に苦難が襲いかかります。
今川家が松平家を守る代償として、徳川家康を人質にしろと要求してきたのです。
こうして、徳川家康は今川家に人質に行く予定が、今川家の家臣の裏切りによって織田家の人質にされてしまうのです。
そして、織田家の人質となっていた徳川家康ですが、後に今川家が織田信広を捕虜としたことにより、人質交換が行われ、今川家に戻されることとなります。
人質になることは、ただでさえ不安でたまらないでしょうに、こんなたらい回しにされてはたまったものではないですよね。
しかし、この経験が、徳川家康の忍耐強さを作り上げていったのでしょう。
徳川家康は死後日光に神様として祀らせた?
徳川家康は自分が亡き後の自分の扱いについて、以下のような遺言を残しています。
徳川家康の遺言:
「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ」現代語訳:
自分の遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂をたてて、勧請せよ
こうして、この遺言通りに全て執り行われることになります。
その結果、徳川家康は神様として日光東照宮に祀られることになったのです。
日光東照宮は、現在でも非常に多くの人が参拝する神社として知られています。
まとめ:徳川家康は天下を統一し江戸幕府を開いて、平和な世を築いた
徳川家康は幼少期から人質に取られたり、自分の妻に裏切られ切腹を命じなければいけなかったりなどと波乱万丈な人生を送ってきました。しかし、その分辛抱強い性格が培われ、大器晩成し、天下統一して江戸幕府を開くまでに至りました。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家康は幼少期は人質として過ごした
- 人質解放後は、織田信長と手を組みながら活躍していった
- 関ヶ原の戦いで西軍を破り天下を統一した
- 江戸幕府を開いて、その基礎を築き上げた
江戸幕府は約260年もの間続くことになります。こんなにも長い間幕府が続いたのは、ひとえに徳川家康の築き上げた基盤があったからではないでしょうか。徳川家康の頭の良さがよくわかりますね。