板垣退助の名言集|有名な台詞の真相は?エピソードとともに解説!
板垣退助(1837(天保8)〜1919(大正8))は、明治時代に活躍した政治家です。自由民権運動に従事し、日本での国会開設を実現させました。
過去には100円札の肖像画として選ばれたこともあり、その特徴的な髭に見覚えのある人も多いのではないでしょうか?
そんな板垣退助は、数々の名言を残しています。
この記事では、板垣退助の名言をエピソードとともに解説していきます。
目次
板垣退助の名言1|自由は土佐の山間より出づ
「自由は土佐の山間より出づ」
1873年、板垣退助は征韓論に敗れて、政治から離れ一般人として出身地である高知に帰ってきます。
しかし、退助の心は政治から離れてしまっていたわけではありませんでした。
退助はこの高知の地から体制を立て直そうとしていたのです。
退助は自分の目標である国民が自由に政治に参加できる形を実現させるために、自由民権運動を推し進めていきました。
1874年には「国民が選んだ議員に政治を任せるべきだ」と主張する民選議院設立建白書を掲げ、政治結社「立志社」を設立します。
この際に、退助は「自由は土佐の山間より出づ」と言ったそうです。
退助はこれを足がかりとして全国規模に自由民権運動を広めていくのですから、ある意味で「ここから広めていくんだ」という決意も込めた言葉だったのかもしれません。
板垣退助の名言2|まず我が立志の民権を一町より一区に及ぼし〜
「まず我が立志の民権を一町より一区に及ぼし、一区より一県に及ぼし、各県全国に及ぼし、衆力一致の上、大政府に向かって為すところあるにしかず」
1877年に西南戦争が始まると、退助の設立した立志社でも武力による蜂起の意見が高まりました。
それに対応するように、政府の取り締まりも強化されていきます。
その結果、武器や弾薬を所持していた疑いで仲間が捕まり、立志社のメンバーは武力行使に出るべきだと主張し始めます。
しかし、これを聞いた退助は
「まず我が立志の民権を一町より一区に及ぼし、一区より一県に及ぼし、各県全国に及ぼし、衆力一致の上、大政府に向かって為すところあるにしかず」
と仲間に説き、武力ではなく言論で戦うべきだと主張したのです。
この名言は、いかなる戦況であろうとも感情に流されず、自分の目標実現のために冷静に動ける退助の様子を表していると言えるでしょう。
板垣退助の名言3|私の行動が国家の害と思ったら〜
「私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺しても構わぬ」
板垣退助は1882年(明治15年)に暗殺未遂にあっています。
参加していた懇親会から帰ろうと建物を出た瞬間に、短刀を持った男に右胸を刺されたのです。騒ぎを聞きつけた関係者のおかげで一命は取りとめました。
この時退助のことを刺したのが、相原尚褧(あいはらなおふみ)という小学校教員でした。
尚褧は、事件後に捕まり本来であれば極刑は免れない状況でしたが、退助自身が助命嘆願書を提出したことにより無期懲役となっていましたが、退助が恩赦嘆願書を提出し、それが受理されたため、尚褧は恩赦対象となり、釈放されるのです。
釈放された尚褧は、河野廣中、八木原繁祉の紹介状を得て、退助の元に謝罪に訪れます。
その際、退助は彼を自分と同じように、日本の未来のためを思って行動した結果だとして許しました。そして、「私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺しても構わぬ」と言ったそうです。
この言葉から、退助の思想への揺るぎない姿勢がよくわかりますし、刺された相手をも許してしまうという器の大きさも伺えますね。
板垣退助の名言4|人は死んだら終わりだと言う〜
「人は死んだら終わりだと言う、しかし私はそう思わない。たとえ私の墓が草に埋もれていても、志ある人が私の墓を前にして、世の矛盾に怒り、それを糾さんと世のために働いてくれるのなら、私の死は終わりではない」
退助は辞世の句などを特には残していませんが、自分の死について語っていたことが有りました。
それが、「人は死んだら終わりだと言う、しかし私はそう思わない。たとえ私の墓が草に埋もれていても、志ある人が私の墓を前にして、世の矛盾に怒り、それを糾さんと世のために働いてくれるのなら、私の死は終わりではない」です。
簡単に言うと、「自分(退助)が死んだ後でも私の精神を受け継いでくれる誰かがいたのであれば、たとえ私の肉体が死んでも、私の精神は永遠に生き続けられるでしょう」ということです。
この言葉通り、退助の目指していた国民が政治に参加する形が今も続いているのですから、退助の精神は今も生き続けているということになりますね。
板垣退助の名言「板垣死すとも自由は死せず」は板垣自身が発した言葉ではなかった?
板垣退助の名言で1番有名と言っても過言ではないのが「板垣死すとも自由は死せず」という名言です。しかし、実はこの名言は退助自身が発した言葉ではなかったとする説も存在するのです。
ここでは、「板垣死すとも自由は死せず」という名言について簡単に解説していきます。
板垣退助の名言ではなく他の人が言った言葉だった?
「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、実は退助以外の人が言ったという説があります。
なぜなら、退助自身が暗殺未遂事件を振り返った時に、「声も出なかった」と書き残しているからです。それでは、一体誰がこの言葉を言ったのでしょうか?
一説では、襲われた退助を助けた内藤魯一という自由党役員が言ったとされています。
この魯一がマスコミに対して、「自分の言った言葉であるが、板垣が言った言葉にしてくれ」と言ったそうです。
この言葉がマスコミによって退助の言葉として広がり、世間では板垣人気が高まり、退助は自由民権の神となりました。
板垣退助が言ったという説も?
「板垣死すとも自由は死せず」は、退助ではない人物が言ったということが一般的な説とされてきましたが、逆に退助が言ったという説も存在しています。
その証拠となるのが、退助の暗殺未遂事件発生4日後に提出された御嵩警察署長宛の「探偵上申書」です。
当時、自由民権運動を広めようとしていた自由党の活動は、お上にとって目障りなものでした。
そのため、演説会の会場付近には、必ず警察官が配備され監視しており、この時退助のことを見張っていた警察官が、報告書に
「板垣は東面して(犯人側を向いて)立ち、左面より出血するとき「吾(われ)死するとも自由は死せん」と吐露した」
と書いていたのです。
この警察官からしてみれば、退助は監視対象であり、美化する必要はどこにもありません。
そのため、見たままの状況をそのまま報告したと考えるのが妥当でしょう。
このように、退助自身が言ったという説も存在しているのです。
なぜ板垣退助は、自由民権運動に尽力したのか?
それでは、なぜ退助は刺されてもやめないくらい、自由民権運動に尽力したのでしょうか?
そもそも自由民権運動の目的は「民意を政治に反映させる」というところにあります。
つまり、逆を言えば当時の明治政府には政治に民意が反映されていなかったということになります。
退助は、この現状を見た時に、このままでは日本は良くない方向に進んでしまうと危惧し、明治政府に対する反乱が頻発するのは、政府に民衆の意見を反映させる仕組みがないからであるとして、議院(議会または国会とも)を創設して、民意を反映できる仕組みを作ろうと考えました。
そうすれば、民衆の不満は消え、暴動なども起こらなくなると考えたんですね。
このように、板垣退助は日本の未来を良くするために、ひたすら民意をすくい上げようと尽力していたということになります。
まとめ:板垣退助の名言からは自由民権運動に命を懸けていたことがよく表れている
板垣退助は、たとえ命を狙われて刺されたとしても、自由民権運動をやめようとはしませんでした。
そのくらいの覚悟で自由民権運動を行っていたということが、様々な名言から読み取れました。
今回の内容をまとめると、
- 板垣退助の名言には、自由民権運動に対する熱い気持ちがよく表されている
- 刺してきた相手を許す器の大きさや、感情に流されない冷静さなどを持ち合わせていたことが、板垣退助の名言からうかがえる
- 1番有名な名言だとも言える「板垣死すとも自由は死せず」は、板垣退助本人が言ったという説と、本人以外の人物が言ったという説と分かれている
1つの目標のために、ここまで命を懸けられるというのは本当に強い信念があったということなのでしょう。ここまでしてくれた人物がいたからこそ、日本の今の形が出来上がったのだということを改めて認識する必要があると思いました。