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板垣退助は何した人?年表や功績、暗殺事件について簡単に解説!

板垣退助(1837(天保8)〜1919(大正8))は、明治維新の元勲で、自由民権運動の指導者として活躍しました。東アジアで初となる帝国議会を樹立し、「国会を創った男」としても知られています。

そんな板垣退助は、具体的には何をした人なのでしょうか?

この記事では、板垣退助の年表を見ながら、その功績や暗殺事件についてなど簡単に解説していきます。

板垣退助は何した人?年表で簡単に解説!

お札になったほど有名な板垣退助ですが、何をした人なのでしょうか?
ここでは、年表を通して、板垣退助がどのような人であったのかを簡単に解説していきます。

板垣退助の年表

【板垣退助の家族構成】

板垣退助(いたがきたいすけ)1837年(天保8年)〜1919年(大正8年)/享年:83歳

出身地:高知城下中島町(現在の高知県高知市)
父:乾正成/母:幸
正妻:林益之丞政護妹
継妻:中山弥平治秀雅次女
継妻:鈴
継妻:絹子
権妻:清女
子:鉾太郎、乾正士、孫三郎、正実、乾六一、片岡浜子、宮地軍子、小川婉子、浅野千代子、小山良子

【板垣退助の年表】

  • 1837年(天保8年):0歳
    高知城下中島町(現在の高知県高知市)に乾正成の嫡男として生まれる
  • 1867年(慶応3年):30歳
    薩土密約を結ぶ
  • 1871年(明治4年):34歳
    新政府の参議となる
  • 1873年(明治6年):36歳
    明治六年の政変により下野する
  • 1874年(明治7年):37歳
    愛国公党を結成する
    民撰議院設立建白書を提出する
    立志社を結成する
  • 1875年(明治8年):38歳
    愛国社を結成する
  • 1881年(明治14年):44歳
    自由党を結成する
  • 1882年(明治15年):45歳
    岐阜事件(暗殺事件)が起きる
    ヨーロッパを外遊する
  • 1884年(明治17年):47歳
    自由党を解党する
  • 1896年(明治29年):59歳
    第二次伊藤内閣の内相に就任する
  • 1898年(明治31年):61歳
    憲政党を結党する
    第一次大隈内閣(隈板内閣)が成立し、内相に就任する
    内閣総辞職
  • 1900年(明治33歳):63歳
    政界を引退する
  • 1919年(大正8年):82歳
    肺炎により死去

板垣退助は幕末から活躍していた?

板垣退助は幕末期に倒幕派と連携し、戊辰戦争で活躍します。
明治維新後は、高知藩の大参事となり、藩政改革を行いました。

その後、新政府の参議となり、岩倉使節団派遣後の留守政府を預かることもありましたが、征韓論をめぐって揉めて、下野することになります。

その翌年、一緒に下野した後藤象二郎らとともに、民撰議院設立建白書を政府に提出。

さらに愛国公党や立志社を設立し、自由民権運動の指導者として活躍していきます。

1881年には自由党の総理に就任し、その後、第二次伊藤内閣や第一次大隈内閣の内相を務めるなど、重要な役職につきました。

このように、板垣退助は幕末から明治という激動の時代の中心で活躍し、現代の政治の土台を築き上げた人物だと言っても過言ではありません。

板垣退助はどんな性格だった?

板垣退助は、幼少期はわんぱくな性格であり、毎日喧嘩をしているような子どもでした。

学問が苦手でしたが、軍書には興味を持ち、友人に読んでもらっていたそうです。

この頃のことが、後の軍事的才能に影響を与えているのかもしれません。

また、板垣退助は幼少期からずっと広い懐の持ち主でした。
それをよく表しているエピソードをいくつかご紹介します。

  • 物乞いの女の子がやってくると、おにぎりを与えて、着物を着せてあげた
  • 母親が買ってきた高級品のお菓子を、自分は一口も食べずに友達に全部あげた
  • 自分を暗殺しようとした中岡慎太郎を説き伏せ、意気投合する
  • 戊辰戦争で敗者となった会津軍の名誉回復に努める
  • 岐阜事件で自分を刺した相手の助命嘆願をする

このように、寛大な心を持っていたからこそ、板垣退助は国民からも絶大な人気があり、政治家の中にも多くの支持者がいたそうです。

板垣退助は何をした人?功績を簡単に解説!

板垣退助は明治維新をやり遂げたり、自由民権運動の指導者として尽力したりして活躍しました。
それはどのような活動だったのでしょうか?
ここでは、板垣退助の功績について簡単に解説していきます。

板垣退助は戊辰戦争で活躍した

板垣退助は戊辰戦争に、迅衝隊の総督として参戦します。

板垣退助は、この迅衝隊に今までにないシステムを取り入れていました。

給料制の導入であったり、病欠が認められていたり、戦いでは従軍医師団が同行したりと、退助の知略が詰め込まれた隊でした。

このシステムのおかげか、迅衝隊は大いに活躍し、近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊との戦闘もわずか2時間で勝利するなど、圧倒的な実力を見せつけました。

また、日光を攻めた際には、敵将らを説得し、無血開城させることで、「日光東照宮」を始めとする文化財を戦火から守りました。

さらに、板垣退助は会津藩と戦った時に、領民が藩を見捨てて我先に逃げ出す光景を目の当たりにします。

そこで、政府と民衆が心を一つにしないと国は弱くなってしまうと実感し、
「身分の差なく心を一つに国民が参加できる政治」
という民主的な政治について考え始めるようになりました。

板垣退助は自由民権運動に尽力し国会を開設した

明治六年の政変後、板垣退助は一度政府を去りますが、今度は一緒に下野した後藤象二郎らとともに、民撰議院設立建白書を政府に提出します。

これは、藩閥政治ではなく、国民が選んだ人選によって政治を行うべきという民主主義的な政治を執り行うべきであるというものでした。

この提出以降、国民にも、国民ももっと政治に参加できるべきであるという考えが広まっていきました。

これが自由民権運動です。

板垣退助はこの自由民権運動の指導者として先頭に立ち、日本の民主主義に大きく貢献することになります。

そして、この自由民権運動の結果、国会が開設されることとなります。現代の政治の土台を築き上げたと言っても過言ではないでしょう。

板垣退助は日本初の政党内閣を務めた?

明治維新後、帝国議会は主に薩長出身の役人によって政治が執り行われてきました(藩閥政治)。
明治六年の政変以降は、退助らが下野したことにより、その状況は更に悪化。

内閣だけでなく、軍部、警察、財界にまでその影響が出ていったのです。

しかし、板垣退助による自由民権運動が成功し、国会が開かれるようになりその状況が一変します。

1898年、板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる進歩党が合流した憲政党による、初めての政党内閣が誕生したのです。

この内閣では、大隈重信が総理を務め、板垣退助は内務大臣を務めました(2人の頭文字を取って隈板内閣とも言う)。
ここから、日本の政党内閣が始まるのです。

ちなみに、板垣退助はその生涯で一度も総理大臣にはならなかったのですが、全くそのような話がでなかったわけではないのです。

実は何度か伊藤博文から、「総理大臣にならないか?」と打診を受けていました。

しかし、板垣退助は「自分は総理の器ではない」として、これを断ったそうです。

板垣退助は暗殺されそうになった?

色々な功績を残した板垣退助でしたが、実は暗殺されそうになったことがあるのです。
それはいつどこで、どのように起きた事件だったのでしょうか?

ここでは、板垣退助の暗殺事件について簡単に解説していきます。

板垣退助は講演会の後に襲われた?

1882年(明治15年)4月6日、自由党の総理であった板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し、2時間にわたる演説を行いました。

その後、午後6時頃会場から宿舎に向かおうとしたところ、入り口を出た瞬間に短刀を持った刺客に襲われました。

これが、板垣退助の暗殺事件です。板垣退助が45歳のときの出来事でした。

何箇所も刺され、手や胸を負傷しましたが奇跡的に一命をとりとめ、板垣退助はその後37年も生きました。

この時の犯人は、相原尚褧(あいはらなおぶみ/なおふみ/しょうけい)という、小学校教員です。

民権派に強い嫌悪感を抱いていたが故に、そのトップだった板垣退助を殺害しようとしたのです。
暗殺しようとしたわけですから、当然尚褧は極刑の予定でした。

しかし、板垣退助は尚褧を後に助命しています。

「私心などではなく、国のためを思って行動した」と、尚褧を板垣退助は尊重したのです。

板垣退助がいかに国のことを思っていたのか、さらにはどれだけ広い心を持っていたのかが伺えるエピソードですね。

\ 板垣退助の暗殺未遂事件に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /

板垣退助は襲われた際に名言を残した?

板垣退助はこの暗殺事件で刺された際、
「板垣死すとも自由は死せず」
という名言を残したと言われています。

有名なフレーズであるが故に、聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか?

しかし実際には、板垣退助は後に、

刺された時は「アッと思うばかりで声も出なかった」

と回想していますし、

「痛い痛い、医者を呼んでくれ」と言ったとする話もあるのです。

そのため、とてもではないけれど、そのような名言を残すような余裕はなかったのではないかと考えられます。

中には、実はこの名言は板垣退助以外の人物が言ったとする説まであるのです。

近年では、資料の見直しなどから、やはり板垣退助が言ったとする説が有力になってきているものの、真相は判明していません。

\ 板垣退助の名言に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /

まとめ:板垣退助は自由民権運動に注力し、国民が政治に参加できるようにした

板垣退助は、明治六年の政変以降、国と民衆が一つにならないと国は弱体化していってしまうと考え、そこから自由民権運動を開始しました。そして、現代の日本の政治の基盤を創り上げていったのです。

今回の内容をまとめると、

  • 板垣退助は戊辰戦争で新たなシステムを取り入れるなどして勝利に導いた
  • 板垣退助は、自由民権運動に注力し、国会開設をした
  • 板垣退助は、日本で初めての政党内閣を誕生させた
  • 板垣退助は、自分を暗殺しようとした相手を助命嘆願するなど広い心を持った人物だった

板垣退助は自分の生涯をかけて、国民が政治に参加できるように自由民権運動に注力しました。
今の選挙などの仕組みがあるのは、板垣退助の努力があったからこそなのです。
近年では、選挙に行かないという人も増えていますが、板垣退助が努力して築き上げたものなのだということを今一度考えてみるのもいいかもしれません。

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