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徳川秀忠の家系図を簡単に解説!子孫は現在まで続いてる?妻や側室は何人いた?

徳川秀忠(1579(天正7)〜1632(寛永9))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した、江戸幕府の第2代将軍です。

徳川秀忠の父親は、江戸幕府を開いた徳川家康です。

偉大な父の跡を継いだ徳川秀忠は、その才能を活かし江戸幕府の土台をしっかりと固めました。

そんな徳川秀忠の子孫は現在まで続いているのでしょうか?

また、妻や側室は何人いたのでしょうか?

この記事では、徳川秀忠の子孫について家系図を見ながら、簡単に解説していきます。

徳川秀忠の家系図をわかりやすく解説!

徳川秀忠の家系図

見出し1-1 徳川秀忠の家族構成は?

【徳川秀忠のプロフィール】

徳川秀忠(とくがわひでただ) 1579年(天正7年)〜1632年(寛永9年)/享年:54歳

出身地:遠江国浜松(現在の静岡県)

父:徳川家康/母:西郷局

正室:江

子:千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和姫、保科正之

徳川秀忠は、1579年(天正7年)に遠江国浜松にて、徳川家康と西郷局の間に三男として誕生しました。

10歳のとき、豊臣秀吉の養女・小姫と祝言を挙げますが、織田信雄と秀吉が仲違いをしたことや、小姫が7歳で病死してしまったことなどを受けて、離縁となってしまいました。

そして、15歳のときには、またしても豊臣秀吉の養女である江と再婚することになります。
徳川秀忠は、江を正室として迎え、他に正式な側室を持ちませんでした。江との間には7人(男子2人、女子5人)の子を授かりました。

徳川秀忠の正妻・江は浅井三姉妹の一人。恐妻家だった?

徳川秀忠は10歳のときに小姫と婚約していますが、結婚する前に離縁することになってしまったので、実際に結婚生活を送ったのは、後に結婚した江のみとなっています。

この江は、豊臣秀吉の養女でしたが、元々は浅井長政とお市の子供でした。

姉2人とともに、浅井三姉妹と呼ばれることが多いです。

父である浅井長政は、江が生まれてまもなく亡くなってしまったため、母・お市は兄の織田信長を頼って身を寄せていました。

その後、本能寺の変で信長が討たれると、今度はお市は柴田勝家と再婚し、江も母についていきます。

しかし、柴田勝家が秀吉と対立したことにより、柴田勝家とお市は自害してしまうのです。そうして、残された江は、姉2人とともに秀吉に保護されることとなったのでした。

このように、波乱万丈な人生を送ってきた江は、徳川秀忠よりも6歳年上でした。

そのため、徳川秀忠はかなりの恐妻家であったと言われています。

織田信長の姪であり、豊臣秀吉の養女という立場から逆らいづらかったのもあったのでしょう。

徳川秀忠は、その生涯、正式に側室を持つことはなかったと言われています。

子供を多く作り、血を残すことが大事とされていた時代で、妻を一人しか持たなかったのは、かなり稀な例です。

のちに、江は秀忠より先に亡くなるのですが、江が亡くなった後でも秀忠は継室を迎えることはありませんでした。

このことから、ただ江が怖くて側室を作らなかっただけではなく、本当に江を愛していたのではないかと伺えますね。

徳川秀忠の子孫は現在も続いている?

徳川秀忠は、江との間に7人の子供を授かりました。

正式な側室はいませんでしたが、江以外の女性との間にも子供がいたと伝えられています。そんな徳川秀忠の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、秀忠の子孫について簡単に解説していきます。

【徳川秀忠の子孫で、現在も存在が確認できる人物】

・前田利祐(旧加賀前田藩前田家の第18代当主)

・今上天皇

徳川秀忠の子供たちは、どのような人生を歩んだ?

徳川秀忠には江との間に7人の子供がいました。その子どもたちはどのような人生を歩んだのでしょうか?また、子孫は続いていったのでしょうか?それぞれ簡単に解説していきます。

・千姫
徳川秀忠の長女「千姫」は、豊臣秀頼にわずか7歳で嫁ぎました。
しかし、豊臣秀頼は大坂の陣にて自害してしまいます。
その後、徳川四天王の一人・本多忠勝の孫で、播磨姫路新田藩主の本多忠刻と再婚しています。
忠刻との間には、一男一女を授かりますが、長男の幸千代はわずか3歳で病死してしまうのです。
長女の勝姫は、岡山藩の池田光政の正室となり、これ以降、岡山藩池田家の系譜は勝姫の子孫となりました。しかし、池田家は6代でその血筋が途絶えてしまい、養子を迎えたため、秀忠の血は途切れてしまいました。

・珠姫

徳川秀忠の二女「珠姫」は、徳川家と加賀藩前田家の政略結婚により、わずか3歳で前田利家の四男で、前田家2代藩主である前田利常に嫁ぎ、24歳で病没するまでに三男五女を育てました。
長男・光高は加賀前田藩3代藩主となり、以降加賀前田家では珠姫の血が代々受け継がれていくことになり、現在まで受け継がれています。
現代の旧加賀前田藩前田家の第18代当主は前田利祐さんです。

・勝姫

徳川秀忠の三女「勝姫」は、家康の次男で結城秀康の子である松平忠直の正室になりました。
しかし、この忠直が問題を起こします。
忠直は、大阪夏の陣で真田幸村を打ち取り戦功をあげますが、それに対する褒美が十分ではないと不満を覚え、家臣や領民を殺してしまうなど乱行が目立つようになります。そして、心の病を発症した忠直は、こともあろうに妻である勝姫を斬りつける事件を起こしたのです。
これを受けて、忠直は豊後へ配流。
勝姫は、その後、江戸で子どもたちを養育し、長男・仙千代には越後高田26万石が与えられ、越後高田藩初代藩主となります。
徳川秀忠の三女「勝姫」の血筋も現在まで続いていることが確認できています。

・初姫

徳川秀忠の四女「初姫」は、生まれてすぐに母である江の姉・「初」の養女として京極家に入ります。
そして、京極高次と側室の間に生まれた子・京極忠高と結婚しますが、夫婦仲は悪く、子供はできませんでした。そして、わずか29歳という若さで初姫は亡くなってしまいます。
しかし、初姫が亡くなった時、忠高は相撲見物をしていて気づかなかったそうです。
そのため、その振る舞いに激怒した秀忠は、初姫の葬儀一切を徳川家で行い、京極家の参列を許さなかったと言われています。

・家光

徳川秀忠の長男「家光」は、父の跡を継ぎ徳川幕府3代将軍となりました。
しかし、徳川将軍家の秀忠の血は、7代将軍徳川家継で途絶えてしまっています。

・忠長
徳川秀忠の次男「忠長」は、成人して駿河を領有したことから、駿河大納言と呼ばれるようになります。しかし、兄・家光との関係が悪化し、罪を着せられ自害してしまいました。

・和姫

徳川秀忠の五女「和姫」は、12歳のときに後水尾天皇に入内、後に興子内親王を生みます。この興子内親王は即位し、第109代天皇・明正天皇となります。つまり、和姫は天皇の母親となったのです。
ちなみに、明正天皇は859年ぶりの女帝となりました。

徳川秀忠は正室ではない女との間にも2人子供がいた?

徳川秀忠は江との間に7人の子供を授かり、側室はいなかったと言われていますが、実は江以外の女性との間にも隠し子が2人いたのです。

1人目は、名前も定かではない「家女」と記録された女性との子供・長丸です。

しかし、この長丸は1歳にもいかぬ間に亡くなってしまいます。

一説には、嫉妬に狂った江が水子にしたのではないかと言われています。

2人目は、大奥の下級女中である「お静」という女性との間に生まれた、幸松です。

秀忠は、長丸の件で江のことを警戒したのでしょう。

幸松を息子とは認めず、ひっそりと保科家で養育させることにします。

その後、成長した幸松は、保科正之と名乗り、兄の家光から取り立てられ、会津藩にて松平家を起こしました。

さらに、正之は内政に尽力し、甥である4代将軍・徳川家綱を補佐し、大老を務めます。

このように、正之は父親譲りの内政力と生真面目さで、優秀な補佐として名を挙げていったのでした。

徳川秀忠の血筋は天皇家にも?

徳川秀忠の五女・和姫は、後水尾天皇に入内したので、天皇家に秀忠の血が入ることとなりました。
しかし、それだけではないのです。

三女・勝姫の子である鶴姫は、九条道房に嫁ぎました。そして、その子孫はなんと現在の今上天皇へと繋がっているのです。

このように、秀忠の血筋は天皇家にも流れています。

徳川秀忠は三男なのになぜ家督を相続できた?

徳川秀忠は、徳川家康の三男として誕生しました。

通常、家督というのは長男が継ぐものですが、徳川家康の跡を継いだのは秀忠でした。

徳川秀忠はなぜ三男なのに家督を相続することができたのでしょうか?

ここでは、徳川秀忠が家督を相続できた理由を簡単に解説していきます。

徳川秀忠の兄2人が相続できない状況になった?

徳川秀忠には2人の兄がいました。

長男の信康は非常に優秀な人物だったと言われていましたが、秀忠が生まれて間もない5ヶ月の頃に事件が起こります。

それは、徳川家康の正室・築山殿と息子の信康が、織田家の敵である武田勝頼と内通しているとして、織田信長から殺すように命令が下ったのです。

徳川家康は織田信長への忠誠の証として、妻を殺してしまいます。
そして、息子の信康も切腹することになってしまうのです。

長男がいなくなったことにより、次は次男である秀康が跡を継ぐことになるはずでした。

しかし、それも難しい状況になってしまいます。

織田信長の死後、徳川家康は小牧・長久手の戦いの戦いにて豊臣秀吉と戦います。

両者が痛手を負ったこの戦いは、秀吉からの講和によって終焉を迎えました。

そして、形式的とはいえ、家康は秀吉の家臣として忠誠を誓うことになってしまいました。この際、忠誠を誓う証という名の人質として、秀康を秀吉の養子に出すのです。

こうして、2人の兄がいなくなってしまった結果、三男である秀忠が家康の跡を継ぐことになったのでした。

徳川家康は一度、徳川秀忠を跡継ぎにするのを躊躇った?

2人の兄がいなくなった結果、自然と後継ぎとして考えられるようになった徳川秀忠でしたが、実は家康は一度、秀忠を跡継ぎにするのを躊躇ったことがあります。

その理由は関ヶ原の戦いのことでした。

秀忠の舞台は、徳川軍の別働隊を率いて中山道を経由して西に向かっていましたが、その途中、秀忠の部隊は、真田昌幸・信繁父子に進路を阻まれ、関ヶ原の戦場に間に合わなくなってしまったのです。

元々、徳川家康は秀忠の部隊を主力として関ヶ原の戦いを勝ち抜こうと考えていましたが、秀忠の大失態によりまさかの遅刻。

これにより、豊臣家大名衆に頼らずを得ず、なんとか辛勝したという結果になりました。

豊臣家大名衆に頼った結果、関ヶ原の戦いの後、彼らに褒美として領地を大量に与えなくてはならず、徳川の領地が予定より小さくなってしまったのです。

家康からしてみれば、秀忠の失態のせいで色々と計算が狂わされたわけですね。

そのため、家康は秀忠を跡継ぎにするのを躊躇ったと言われています。

しかし、家康は躊躇ったものの、結局は秀忠を後継者として据え置きます。

後継者を変えるということは、様々な波乱を家中に起こす危険があるということを家康は理解していたからです。

また、秀忠は失態を犯したものの、決して凡庸な人物ではなかったので、周りにいい家臣がいれば問題ないという判断もあったのかもしれません。

こうして、秀忠は無事に家康の跡を継ぐこととなったのでした。

まとめ:徳川秀忠の血筋は現在まで続いており、今上天皇にもその血が流れている

徳川秀忠は、豊臣秀吉の養女・江と結婚し、その間に7人の子どもを授かりました。その子供の子孫が、現在まで続いており、今上天皇にもその血が流れています。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川秀忠は徳川家康の三男として誕生したが、家督を継いだ
  • 徳川秀忠は、豊臣秀吉の養女・江と結婚した
  • 徳川秀忠と江との間には7人の子供がいた
  • 徳川秀忠の子孫は現在まで続いており、今上天皇にもその血が流れている

父・家康は、信長と秀吉に良くも悪くも振り回されました。しかし、その子どもである秀忠が、その2人と親戚関係を結んだということは、面白い因果を感じずにはいられません。

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