久坂玄瑞の死因は何?最後の姿は?なぜ禁門の変に挑んだ?墓所はどこにある?
久坂玄瑞(1840(天保11)〜1864(元治元年))は、幕末に活躍した長州藩士です。
長州藩における尊王攘夷派の中心となった人物で、高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれていたくらい吉田松陰の愛弟子としても有名です。
そんな久坂玄瑞は、最後どのような亡くなり方をしたのでしょうか?
この記事では、久坂玄瑞の死因や最後の姿について簡単に解説していきます。
目次
久坂玄瑞の死因は何?
久坂玄瑞は、なんと25歳という若さで亡くなっています。
なぜそんな若さで亡くなることとなったのでしょうか?
ここでは、久坂玄瑞の死因について簡単に解説していきます。
久坂玄瑞の死因は自害?
久坂玄瑞の死因は自害です。
八月十八日の政変によって朝廷を追放された長州藩は、地位回復のため「禁門の変」を起こします。
しかし、長州藩は会津藩・薩摩藩が中心となっていた幕府軍に敗北してしまうのです。
この際、久坂玄瑞は寺島忠三郎とともに鷹司邸に侵入しましたが、会津藩の兵に包囲され、自害しました。
\禁門の変に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/
久坂玄瑞の最後の姿は?
禁門の変は、長州藩の敗北で終わりました。
しかし、長州藩の指揮官であった久坂玄瑞は、最後まで朝廷との話し合いの希望を捨てずに、親身にしていた公卿・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)の元へ向かいます。
命からがらたどり着き、長州藩の地位回復を懇願しますが、鷹司輔煕はこれを拒否するのです。
この時点で鷹司邸は炎上し始めており、最後の希望を失った久坂玄瑞は、流れ弾を受け負傷もしていたことから、逃げることもせずそのまま鷹司邸で自害することにします。
この際、共に自害しようとしていた入江九一を説得し、
「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君(毛利定広)に京都に近づかないように御注意してほしい」
と託しました。
最後まで長州藩のことを考えていた久坂玄瑞らしいです。
そして、残った久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に、鷹司邸内で互いに刺し違えて自害しました。享年25歳という若さでした。
ちなみに、後を託された入江九一でしたが、屋敷を脱出する際に越前兵に見つかり、槍で顔面を刺されて死亡しています。
久坂玄瑞の最後の望みも叶えられることはありませんでした。
久坂玄瑞の最後の言葉は?辞世の句は?
【久坂玄瑞の最後の言葉】
「僕はこれまでだ、諸君は大いに勉めてくれよ」
この言葉は、久坂玄瑞が自害する直前に言ったとされる言葉です。
この言葉から、当時の長州藩には優秀な人材がたくさんいたと推測することができます。
最後の最後まで、長州藩のために動いた久坂玄瑞らしい最後の言葉です。
【久坂玄瑞の辞世の句】
「時鳥 血に鳴く声は 有明の 月より他に 知る人ぞなき」
(意訳)私の志は、夜明けに輝く月の他に誰も知らない
この辞世の句は、実際に久坂玄瑞が詠んだのは22歳のとき、禁門の変で自害する3年前のことです。
幕末の動乱でいつ死んでもおかしくないと考えていたことがわかります。
この辞世の句に出てくる時鳥は、昔話「ほととぎすの兄弟」からきていると考えられています。血を吐きながら鳴き続ける時鳥に自分を重ねていたのです。
久坂玄瑞がいかに自分の人生に後悔していたのかということが伺えます。
さらに、そんな久坂玄瑞の気持ちを知っているのは、有明の月のみというところから、久坂玄瑞の孤独も読み取ることができます。
自らの非力を嘆き、孤独の中で死んでいく、そんな思いが込められた辞世の句です。
久坂玄瑞はなぜ禁門の変に参戦した?
久坂玄瑞は、禁門の変の最中、自害してその生涯を閉じました。
そもそも、なぜ久坂玄瑞は、禁門の変に参戦することとなったのでしょうか?
ここでは、久坂玄瑞が禁門の変に参戦した経緯などを簡単に解説していきます。
禁門の変とは?
禁門の変は、1864年(元治元年)に起こった、京都の御所付近で長州藩と幕府軍(主に会津藩と薩摩藩)が武力衝突した事件のことです。
御所のことを禁裏といい、御所の門のことを禁門と言います。
つまり、御所の門付近で戦闘が行われたため、禁門の変と呼ばれているわけです。
この戦いで、長州藩は幕府に主に次のようなことを訴えかけました。
- 八月十八日の政変で藩主に罪がないこと
- 政変によって追放された尊王攘夷派の公家を復帰させること
つまり、長州藩や尊王攘夷派の立場の回復を狙って起こした事件だったというわけです。
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久坂玄瑞は禁門の変では慎重派だった?
禁門の変は結果的に長州藩の敗北で終わるのですが、実は久坂玄瑞は御所を攻める前の会議では、攻めるのに待ったをかけていました。
禁門の変が起こる少し前、長州藩は京都付近まで兵を進め、久坂玄瑞と真木和泉は山崎の天王山に、来島又兵衛は嵯峨付近にそれぞれ布陣します。
その後、軍議を石清水八幡宮にて行ったのですが、そこで来島又兵衛ら強硬派は御所を攻撃せよと言います。
しかし、そこで久坂玄瑞ら慎重派は、朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出すのです。
久坂玄瑞は、京都の情勢を熟知しており、援軍が来ていない今攻めても、必勝できる状態ではないと考えていました。そのため、慎重に行こうと提案したのです。
しかし、来島又兵衛は久坂玄瑞に対して「卑怯者!」と怒鳴り、そのまま軍議から去ってしまいます。
来島又兵衛らは池田屋事件のこともあり、後に引けない状態であったのです。
そして、その後、真木和泉も来島又兵衛らの意見に同意したことにより、天皇の御所を攻撃することが決まってしまいました。
このとき、久坂玄瑞は敗北に向かうと悟ったという記録が残っています。
久坂玄瑞の墓所はどこにある?
久坂玄瑞は、禁門の変にて自害し、その遺体は長州藩が回収することは難しい状態でした。
そんな久坂玄瑞の墓所はどこにあるのでしょうか?
ここでは、久坂玄瑞の墓所について簡単に解説していきます。
久坂玄瑞の遺体は福井藩が埋葬した?
長州藩は、禁門の変にて非常に多くの犠牲者を出しました。
しかしながら、朝敵の烙印を押されたばかりに、その遺体たちを回収していくことは難しかったのです。
そのまま放置された遺体は次第に腐敗していってしまいます。
このままではいけないと、福井藩士が松平春嶽に許可を得て、福井藩の菩提寺だった上善寺に手厚く葬りました。
その後しばらくは忘れられていたのですが、旧福井藩士が毛利家に連絡したため、明治30年代に「長州人首塚」という墓碑が建てられました。
久坂玄瑞の遺体は確認されていないとする話もありますが、この塚に一緒に葬られていたという話もあります。
上善寺
住所:京都府京都市北区鞍馬口通寺町東入ル上善寺門前町338
営業時間:9:00〜16:00
無休
境内自由参拝
久坂玄瑞の墓所は他にも3ヶ所存在する?
久坂玄瑞は禁門の変のあと、上善寺というお寺に葬られたとされています。
しかし、その他にも久坂玄瑞の墓所は3ヶ所存在しているのです。
ここでは、その3ヶ所の墓所をご紹介していきます。
京都霊山護国神社
住所:京都府京都市東山区清閑寺霊山町1
営業時間:9:00〜17:00
年中無休
霊山墳墓拝観料:大人300円 小・中学生 200円
駐車場:無
ここには、禁門の変などで亡くなった長州藩士たちの墓所が存在しています。墓所と言っても、いわゆる「招魂墓」と呼ばれるものです。
久坂玄瑞の他には、有吉熊次郎、入江九一、寺島忠三郎、来島又兵衛、高杉晋作が祀られています。
萩市の護国山団子岩
住所:山口県萩市椿東
営業時間:見学自由
無休
駐車場:有
ここは、元々吉田松陰の墓所がある場所です。その場所に、吉田松陰ゆかりの人たちも一緒に葬られています。
久坂玄瑞は、吉田松陰の妹・文と結婚したため、吉田松陰とは義兄弟でした。そのため、ここにも祀られているのです。
・桜山神社
住所:山口県下関市上新地町二丁目6-22
駐車場:有
ここは、高杉晋作の発議によって創建された招魂場で、招魂社としては日本最初の場所だと言われています。
創建当初は下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士を弔うものでしたが、後に小倉戦争や北越戦争で戦死した者、さらには長州の尊王倒幕運動で活躍した者の霊も加え、全部で三百九十六柱の志士がここに祀られているそうです。
ここでの久坂玄瑞の墓碑は、吉田松陰のすぐ左側に存在しています。
まとめ:久坂玄瑞は禁門の変にて、25歳という若さで自害した
久坂玄瑞は、禁門の変において、慎重派な姿勢を見せていましたが、周りの勢いに負けそのまま参戦することになってしまいます。そして、そのまま長州藩が勝つことはなく、久坂玄瑞も最後は希望を無くし、自害することとなってしまいました。
今回の内容をまとめると、
- 久坂玄瑞の死因は自害
- 久坂玄瑞は、禁門の変にて最後まで諦めずに長州藩の地位回復を嘆願しに鷹司邸まで行ったが、拒否され、絶望し自害した
- 久坂玄瑞の墓所は3箇所存在する
西郷隆盛は、明治維新の後、
「もし久坂さんが生きていたら、私は参議などと大きな顔をしていられない」
と言っています。
それほどまでに久坂玄瑞は優秀な人物で、それほどの人材を失ってしまったというのは、長州藩にとってものすごい痛手だったのでしょう。