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紫式部日記とは?内容は?いつ書いた?清少納言についても書かれている?

紫式部日記とは、『源氏物語』などの著者・紫式部(生没年不詳)が、平安時代の1008年(寛弘5年)から1010年(寛弘7年)までの約1年半の間を書き残した日記のことです。

日記文学の傑作とも言われている紫式部日記ですが、その内容はどのようなことが書かれていたのでしょうか?
この記事では、紫式部日記について簡単に解説していきます。

紫式部日記とは?

紫式部日記とは、『源氏物語』などの著者・紫式部が書き残した日記のことでした。その内容はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、紫式部日記について簡単に解説していきます。

紫式部日記の内容は?

紫式部日記の内容は多岐にわたるのですが、基本的な内容は、
「彰子(しょうし)という女性の出産記録と、その後のお祝いごと」
について書かれています。

彰子は、紫式部が仕えていた女性で、一条天皇の中宮です。
また、藤原道長の娘でもあります。

このような関係上、紫式部日記は、藤原道長に要請されて、紫式部が書いたのではないかとする説も存在するのです。

なぜならば、彰子が天皇の子を産み、その子が天皇になれば、藤原道長は天皇の祖父ということになり、権力が手に入ります。そのため、藤原道長からしてみたら娘・彰子の出産は一大事であり、記録に残しておきたかったということなのでしょう。

このような狙いがあったため、紫式部日記は彰子の出産記録に紙幅が多く割かれていますが、途中から路線変更がされています。

途中からは、紫式部周辺の様々な案件に対する個人的な評論のような内容になっていくのです。

この評論部分は「消息文」と呼ばれ、一般的に紫式部日記では、出産記録よりもこちらの方が有名となっています。

消息文は、紫式部の個人的な感情も含まれており、あまり公にできない内容となっています。そのため、この紫式部日記は、公的な日記なのか私的な日記なのか評価が分かれているのが現状です。

しかし、いずれにせよ、当時の宮中の様子を知る資料としては、非常に役立つものと言えるでしょう。

紫式部日記はいつ執筆された?

紫式部日記は、平安時代の1008年(寛弘5年)から1010年(寛弘7年)までの約1年半の間を書き残した日記とされていますが、その執筆期間は正確にはわかっていません。

一般的には、源氏物語を書き終わってから紫式部日記をまとめたと見られており、おおよそ1010年(寛弘7年)の夏から秋にかけて1ヶ月弱でまとめ上げたと考えられています。

また、1ヶ月弱でまとめ上げたと考えられているわけですが、短期間ですべてを書いたのではなく、以前から書き溜めたものがあったのではないかともされています。

紫式部日記で最も有名なのは「才女批判」?

紫式部日記の内容の中で、特に有名な部分は「才女批判」と呼ばれている部分です。ここでは、多くの同僚女房の雰囲気や容姿について言及しているのですが、ある3名の才女については特に詳しく書かれています。

その3名は、以下の通りです。

  • 清少納言
  • 和泉式部
  • 赤染衛門

ここでは、この3名に対する評価について簡単に解説していきます。

紫式部による清少納言についての評価

清少納言は、紫式部のライバルとされていた人物です。その清少納言について、紫式部は紫式部日記で以下のように述べています。

「清少納言は偉そうに定子に仕えていた人。頭がいい風を装って漢字を書きまくっているけれども、よく見たら幼稚な間違いもしている。男性の前ではちょっと頭が悪い感じに見せた方がいいのに、清少納言が私ならわかると得意げにしているのを見ると腹が立ってしょうがない。自分は特別だと思っているのかもしれないけれど、そういう人に限って偽の教養しかもちあわせていないもの。いつも気取っていて、あんな薄っぺらい態度をとるような人がいい人生を送れるだろうか、いや送れるはずがない」

以上のように、紫式部は清少納言について酷評しています。

『枕草子』を書いた清少納言とは、何かと比べられることも多かったでしょうから、相当鬱憤が溜まっていたのかもしれません。

紫式部による和泉式部についての評価

和泉式部は、紫式部の後輩にあたる人物です。その和泉式部については、紫式部日記で以下のように評価しています。

「和泉式部と私は親しい仲だ。和泉式部はおしゃれな手紙を書くし、歌もさりげない言葉の美しさが目に止まる。ただ、男癖が悪い。おしゃれな歌を詠むけれど、知識や理論はあまりわかっていなさそうなので、本物の歌人とはいえない。とにかく口任せに歌を詠んでいるようで、言葉自体が美しいので素晴らしく聞こえるけれど、立派な歌人ではない」

和泉式部は、清少納言と違い、仲が良かったため前半はだいぶ褒めていますが、後半はとことん悪口を言っています。

紫式部による赤染衛門についての評価

赤染衛門は、紫式部の先輩にあたる人物です。赤染衛門については、紫式部日記で以下のように評価しています。

「夫の大江匡衡と仲のよいおしどり夫婦で、中宮様や道長様からは「匡衡衛門」なんてあだ名をつけられている。格調高い歌風で、歌を詠み散らかしたりすることはない。私が知っている限りでは、ちょっとした時に詠んだ歌こそ、素晴らしい詠みっぷりだ」

清少納言、和泉式部と比べると、だいぶ褒めていることがわかります。さすがの紫式部も、周囲の人々全員を酷評していたわけではなく、お世話になった先輩に対しては高い評価をしていたようです。

紫式部日記は後の時代に絵巻にもなった?

日記文学の傑作とされている紫式部日記ですが、実は後の時代に絵巻にもなっています。

絵巻は、約250年後の鎌倉時代前期に作られました。元は全10巻程度の巻物であったと推定されています。

現在は、そのうちの4巻分が伝わっており、五島美術館や藤田美術館、東京国立博物館などに所蔵されています。

また、詞書の筆者は能書・後京極良経、絵の筆者は絵師・藤原信実と推測されていますが、詳細ははっきりとはわかっていません。

まとめ:紫式部日記は当時の宮中の様子や、紫式部の素顔を知ることができる

紫式部日記は、紫式部が彰子の出産記録などをまとめて書いた日記でした。

後半は、消息文という紫式部の個人的な周囲のものへの評論が書かれており、紫式部の素顔を覗くこともできました。

今回の内容をまとめると、

  • 紫式部日記は、平安時代の1008年(寛弘5年)から1010年(寛弘7年)までの約1年半の間を書き残した日記
  • 紫式部日記の主な内容は、紫式部が仕えていた「彰子」の出産記録
  • 紫式部日記は、後半の「消息文」部分が有名で、「才女批判」をしている
  • 紫式部日記は、鎌倉時代には、絵巻にされている

紫式部日記が藤原道長に要請されて書いたものであるならば、公的な文書になりますよね。

そこに他人の悪口などを書いてしまうなんて、紫式部は相当周りに対して鬱憤が溜まっていたのでしょう。宮中の人間関係は複雑だったのかもしれませんね。

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