徳川家治の家系図を簡単に解説!子孫は現在まで続いてる?大奥との関係は?
徳川家治(1737(元文2)〜1786(天明6))は、江戸幕府の第10代将軍です。
幼い頃より聡明で、祖父・徳川吉宗の寵愛を受けながら育ち、名君になることを期待されました。
しかし、実際は老中・田沼意次に政治を任せ、自らは趣味に没頭するなどしており、非常に評価の分かれる人物です。
2024年のテレビドラマ『大奥』で、亀梨和也さんが演じられることでも話題となっています。
そんな徳川家治の家系図はどのようになっているのでしょうか?
この記事では、徳川家治の家系図を見ながら、子孫が現在も続いているのか?
などを簡単に解説していきます。
目次
徳川家治の家系図をわかりやすく解説!
徳川家治のプロフィール
徳川家治(とくがわいえはる)1737年(元文2年)〜1786年(天明6年) 享年:50歳
出身地:江戸
父:徳川家重/母:幸子
正室:五十宮倫子
側室:蓮光院、養蓮院
子:千代姫、万寿姫、家基、貞次郎
徳川家治は、1737年に9代将軍・徳川家重の長男として江戸城にて生まれます。
幼少期から非常に聡明で、祖父・徳川吉宗の期待を一心に受け、寵愛されて育ちました。
その後、政略結婚により五十宮倫子を正室として迎えますが、2人の仲は非常に良く、徳川家治は倫子を愛するあまり、側室を持ちたがらなかったとも言われています。
子供は、正室との間には男児ができなかったため、側室との間に男児をもうけました。
徳川家治のエピソード3選
徳川家治には、様々なエピソードがあります。
・徳川家治は、祖父の徳川吉宗に溺愛されていた
・徳川家治は、愛妻家で大奥を利用しようとしなかった
・徳川家治の子孫は続かなかった
以下、詳しく解説していきます。
\ 徳川家治のエピソードに関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
徳川家治は祖父・徳川吉宗に溺愛されていた
徳川家治の父・徳川家重は生まれつき言語が不明瞭であったため、祖父の徳川吉宗は十分な教育を施すことができませんでした。
そこで、孫の徳川家治に期待することにします。
そんな徳川家治は、幼少期からとても聡明で、徳川吉宗が教えることを次々と理解して吸収していきました。
徳川家治が徳川吉宗から学んだものは、
- 勉学
- 帝王学
- 将棋
- 絵画
- 鷹狩
- 芸事
以上のように、多岐に渡りました。
徳川吉宗は自分が死ぬまで徳川家治のことを寵愛し、徳川家治も徳川吉宗のことを生涯慕い続けました。
徳川家治は愛妻家で大奥を利用しようとしなかった
愛妻家であった徳川家治は、側室を決して持とうとしませんでした。
そのため、なかなか大奥を利用しようとしなかったのです。
しかし、将軍である以上世継ぎを生んでもらわなくては困ってしまいます。
正室・倫子との間には子供ができましたが女の子のみで、男の子はなかなかできませんでした。
このことを危惧したのが、徳川家治の乳母の松島です。
松島は、老中・田沼意次と相談し、徳川家治に側室を持つことを提案します。
最初は、なかなか了承しなかった徳川家治でしたが、田沼意次も側室を持つということを条件に渋々側室を持つこととなりました。
徳川家治の子孫は続かなかった
徳川家治は渋々側室を持ち、無事に徳川家基という跡継ぎが生まれました。
これで将軍家は安泰かと思われましたが、なんと家基は18歳という若さで急死してしまいます。
この家基の死によって、徳川家治の子供で存命の者がいなくなってしまい、このことに徳川家治はひどく落ち込み、食事も喉を通らなくなってしまったほどだったそうです。
その後、徳川家治は死去するまで子を儲けることはなかったので、徳川家治の血筋は途絶えることとなってしまいました。
徳川家治は何をした?簡単に解説
徳川家治は、将軍として実際に自身で行ったことは多くはありませんでした。
なぜなら、老中に田沼意次を任命した後は、政治を田沼意次に一任していたからです。
そのため、徳川家治が実際に行ったことは、
- 田沼意次の政策(印旛沼・手賀沼の干拓事業や蝦夷地の開発、ロシアとの貿易計画など)に許可を出す
- 大奥の経費削減
以上のことが挙げられます。
これだけ見ると、何もしていない無能な将軍と思ってしまうかもしれません。
しかし、徳川家治はその聡明さ故に、田沼意次の非凡な才能を見抜き、自身が政治を取り仕切るよりも、田沼意次に高い地位を与え、自由に政策を行えるようにしてあげたほうがいいと考えたのです。
何より、田沼意次の政策に許可を出していたのは徳川家治ですから、その政策が本当に世のためになるのかまでを考える力などは備わっていたことが伺えます。
優秀な人材を見抜き、そして、その人材を使いこなす、それこそが徳川家治の才能だったのでしょう。
歴代徳川将軍一覧
- 初代将軍:徳川家康 1603年(慶長8年)〜1605年(慶長10年)
- 2代将軍:徳川秀忠 1605年(慶長10年)〜1623年(元和9年)
- 3代将軍:徳川家光 1623年(元和9年)〜1651年(慶安4年)
- 4代将軍:徳川家綱 1651年(慶安4年)〜1680年(延宝8年)
- 5代将軍:徳川綱吉 1680年(延宝8年)〜1709年(宝永6年)
- 6代将軍:徳川家宣 1709年(宝永6年)〜1712年(正徳2年)
- 7代将軍:徳川家継 1713年(正徳3年)〜1716年(享保元年)
- 8代将軍:徳川吉宗 1716年(享保元年)〜1745年(延享2年)
- 9代将軍:徳川家重 1745年(延享2年)〜1760年(宝暦10年)
- 10代将軍:徳川家治 1760年(宝暦10年)〜1786年(天明6年)
- 11代将軍:徳川家斉 1787年(天明7年)〜1837年(天保8年)
- 12代将軍:徳川家慶 1837年(天保8年)〜1853年(嘉永6年)
- 13代将軍:徳川家定 1853年(嘉永6年)〜1858年(安政5年)
- 14代将軍:徳川家茂 1858年(安政5年)〜1866年(慶応2年)
- 15代将軍:徳川慶喜 1866年(慶応2年)〜1867年(慶応3年)
\ 徳川将軍に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
徳川家治に関するQ&A
徳川家治に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 徳川家治の死因は?
- 徳川家治と田沼意次の関係性は?
- 徳川家治の正室・側室は誰?
徳川家治の死因は?
徳川家治の死因は、脚気だと言われています。
徳川家治は亡くなる1ヶ月前くらいに、脚気の特徴の1つである水腫の症状が出て、そこから急速に体調を悪化させていきました。
いわゆる腹水や胸水として症状が出ており、心嚢水腫の可能性も高かったでしょう。
発症してほぼ1ヶ月後に危篤状態に陥り、そのまま亡くなってしまいました。
徳川家治と田沼意次の関係性は?
徳川家治は、将軍に就任した際に、父の遺言どおりに田沼意次を重用しました。
徳川家治は田沼意次の才能を信じており、政治のほとんどを一任していました。
田沼意次もその期待に応えるようにして、数々の革新的な政策を打ち出していったのです。
そんな信頼関係にあった2人でしたが、徳川家治が亡くなる際に悪い噂が立ちます。
それは、田沼意次に徳川家治が暗殺されたのではないかというものです。
徳川家治が亡くなる10日前に、田沼意次が推挙した町医者・日向陶庵と元町医者・若林敬順が登城し、徳川家治に投薬します。
すると、その直後に徳川家治は重体となってしまうのです。
そのため、田沼意次が毒殺を企んでいたのではないかと流布されるようになってしまったのです。
しかし、徳川家治が亡くなってしまうと、田沼意次は後ろ盾を無くしてしまうようなものですから、そのようなことをするはずがありません。
真偽は明らかになっていませんが、徳川家治が亡くなった直後、田沼意次は病気を理由に老中の職を解任されています。
徳川家治の正室・側室は誰?
・正室:五十宮倫子
子供:千代姫、万寿姫
・側室:蓮光院
子供:徳川家基
・側室:養蓮院
子供:貞次郎
まとめ:徳川家治の家系図から子孫が続かなかったことが分かる
徳川家治は、愛妻家であまり大奥を利用しませんでした。そのため、側室が非常に少なく、子どもの数も多くはありませんでした。その子供たちも皆若くして亡くなってしまい、その結果、徳川家治の子孫は続きませんでした。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家治は愛妻家で側室をなかなか持ちたがらなかった
- 徳川家治は、子どもの数も少なく、全部で4人(男児2人、女児2人)
- 徳川家治の子供は、全員若くして亡くなったため、子孫は続かなかった
側室との間に跡継ぎが生まれた徳川家治は、その子を実母ではなく正室と共に育てました。たとえ側室との子であったとしても、子育ては愛する人としたかったということなのでしょう。正室との間に跡継ぎができていたら、本当に側室を持たなかったのかもしれませんね。