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江戸幕府の将軍一覧!徳川15代将軍のエピソードや覚え方などを簡単に解説!

江戸幕府は、1603年(慶長8年)〜1867年(慶応3年)の間にあった武家政権です。
徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠地として創立されました。
そして、徳川家が代々将軍職を世襲していったことにより、徳川幕府とも呼ばれています。

その15人いた徳川将軍は、それぞれどのようなことをしたのでしょうか?
この記事では、徳川15代将軍のしたことをエピソードを交えながら簡単に解説していきます。

江戸幕府の将軍を一覧で解説!

江戸幕府の将軍は全員で15人います。
それには誰がいるのでしょうか?
また、共通点はあるのでしょうか?
ここでは、江戸幕府の将軍について簡単に解説していきます。

江戸幕府の徳川将軍は15人

江戸幕府の将軍は、全員で15人いました。それぞれの名前と在任期間と享年は以下のとおりです。

  • 初代将軍:徳川家康:1603年(慶長8年)〜1605年(慶長10年)/享年75歳
  • 2代将軍: 徳川秀忠:1605年(慶長10年)〜1623年(元和9年)/享年54歳
  • 3代将軍: 徳川家光:1623年(元和9年)〜1651年(慶安4年)/享年48歳
  • 4代将軍: 徳川家綱:1651年(慶安4年)〜1680年(延宝8年)/享年40歳
  • 5代将軍: 徳川綱吉:1680年(延宝8年)〜1709年(宝永6年)/享年64歳
  • 6代将軍: 徳川家宣:1709年(宝永6年)〜1712年(正徳2年)/享年51歳
  • 7代将軍: 徳川家継:1713年(正徳3年)〜1716年(享保元年) /享年8歳
  • 8代将軍: 徳川吉宗:1716年(享保元年)〜1745年(延享2年)/享年68歳
  • 9代将軍: 徳川家重:1745年(延享2年)〜1760年(宝暦10年)/享年51歳
  • 10代将軍:徳川家治:1760年(宝暦10年)〜1786年(天明6年)/享年50歳
  • 11代将軍:徳川家斉:1787年(天明7年)〜1837年(天保8年)/享年69歳
  • 12代将軍:徳川家慶:1837年(天保8年)〜1853年(嘉永6年)/享年61歳
  • 13代将軍:徳川家定:1853年(嘉永6年)〜1858年(安政5年)/享年35歳
  • 14代将軍:徳川家茂:1858年(安政5年)〜1866年(慶応2年)/享年21歳
  • 15代将軍:徳川慶喜:1867年(慶応2年)〜1868年(慶応3年)/享年77歳

江戸幕府の将軍のほとんどの名前には「家」の文字が入っている?

先程の徳川15代将軍の一覧を見てもらうとおわかりいただけると思いますが、ほとんどの将軍の名前には「家」という文字が入っています。

これは、江戸幕府を開いた家康という偉大な先祖にあやかっているところが大きいです。

また、この「家」という文字をいれることによって、自分が徳川将軍家の継承者であることを世に示していました。

では、なぜ「家」の文字が入っていない将軍もいるのでしょうか?

それは、文字が入っていない将軍が元服した際に、江戸幕府の将軍になる予定がなかったからです。

江戸幕府は長男が跡を継ぐのが一般的でした。

そのため次男以降はなにかない限り、跡を継ぐことはないのです。

しかし、時には思いがけない事態も起こります。

そうなった時に、将軍になる予定のなかった人が将軍になるということも起きました。

そして、その場合は、そのままの名前で就任したので名前に「家」の文字が入っていないのです。

江戸幕府の将軍のエピソードは?

先程もお伝えしたように、江戸幕府の徳川将軍は全員で15人います。

それでは、その将軍はそれぞれどのようなことをしたのでしょうか?

ここでは、江戸幕府の将軍の、それぞれのエピソードを簡単に解説していきます。

初代将軍・徳川家康

在任期間:1603年(慶長8年)〜1605年(慶長10年)

出身家:安城松平家

墓所:久能山東照宮

主な出来事:関ヶ原の戦いに勝利、江戸幕府を開く、外交を積極的に行う

家康は、1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いに勝利し実権を握ると、征夷大将軍に補任し江戸幕府を開きます。外交力に優れていたので、諸外国との交易も積極的に行っていました。

性格は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉に象徴されるように、慎重で辛抱強いものでした。また、「狸親父」のあだ名にもあるように、腹の中は誰にもわからず、相手を出し抜くといったことも得意だったようです。

また、ケチで健康オタクでも有名で、自ら調合した薬を使用していたり、質素な食事を常に心がけていたりしていました。

死後は、神様として日光東照宮に祀られました。

第2代将軍・徳川秀忠

在任期間:1605年(慶長10年)〜1623年(元和9年)

出身家:徳川氏

墓所:増上寺

主な出来事:武家諸法度や禁中並公家諸法度などを制定、鎖国政策開始、大阪の陣

家康の三男である秀忠は、江戸幕府の支配体制を更に強化しました。武家諸法度や禁中並公家諸法度を定めたことにより、様々な勢力の支配を強めたのです。徳川家による支配体制を確固たるものにしたのは、秀忠であったと言っても過言ではないでしょう。

また、恐妻家としても知られており、正室の江には頭が上がらなかったようです。

戦いは不得意だったとされており、関ヶ原の戦いに遅刻したり、逆に大阪冬の陣では早く行軍しすぎたりというエピソードが残っています。

第3代将軍・徳川家光

在任期間:1623年(元和9年)〜1651年(慶安4年)

出身家:徳川将軍家

墓所:輪王寺

主な出来事:参勤交代の制度化、島原の乱、鎖国体制の完成

家光は、秀忠の嫡男でしたが、生まれながら身体が弱く、吃音でもありました。そのため、家光の両親を始め、周りの家臣たちからは、弟の忠長の方こそ将軍にふさわしいのではないかと考えられていました。

しかし、家光の乳母・春日局が家康に直訴したことにより、家康は次期将軍を家光にすると宣言したのです。このことから、家光は家康のことを崇敬するようになり、家康が祀られている日光東照宮を莫大な資金をかけて大造替しました。

将軍になった家光は、参勤交代を制度化し、さらに諸大名への支配体制を強化。

また、それまで曖昧だった幕府内の職務や役職などをきちんと決めたのも家光です。

さらに、島原の乱をきっかけとして、キリスト教の弾圧や、鎖国体制の完成させました。

第4代将軍・徳川家綱

在任期間:1651年(慶安4年)〜1680年(延宝8年)

出身家:徳川将軍家

墓所:寛永寺

主な出来事:慶安の変、文治政治へ移行

家綱は、家光の早すぎる病死により、わずか10歳で将軍職に就くことになります。しかし、父の異母弟であり叔父の保科正之など良き側近に支えられました。

前代の家光までの支配体制は武断政治でしたが、それにより反乱が数多く起きることを危惧し、家綱の代からは文治政治(法律や教育、制度などで支配する)に移行していきます。

家光には「3大美事」と呼ばれる善政がありました。

  • 末期養子禁止の緩和
  • 殉死の禁止
  • 大名証人制の廃止

これらの決まりにより、浪人が出ることを防いだり、優秀な人物を無駄死にさせることがなくなりました。

第5代将軍・徳川綱吉

在任期間:1680年(延宝8年)〜1709年(宝永6年)

出身家:舘林徳川家

墓所:寛永寺

主な出来事:生類憐れみの令制定、元禄文化

綱吉は家綱の弟ですが、家綱に実子がいなかったため将軍に就任しました。

綱吉は儒教に基づいた平和な政治を行っていましたが、1つだけ不評な決まりがありました。それは、「生類憐れみの令」です。

これは、孤児や病人、高齢者、そして生き物全般を保護するように定めた福祉法でした。

ここだけ聞くといい法律のように聞こえますが、実際は、牛馬に重荷を運ばせるのを禁じたり、うなぎ料理を提供した店を罰したりと当時の人々を困らせるようなものでした。

特に犬のことを大事にしており、人間よりも犬を大事にした殿様として「犬公方」と呼ばれるようになってしまいました。

また、この頃に、赤穂事件や富士山大噴火が起きています。

第6代将軍・徳川家宣

在任期間:1709年(宝永6年)〜1712年(正徳2年)

出身家:甲府徳川家

墓所:増上寺

主な出来事:生類憐れみの令を廃止、新井白石を登用

家宣は、家光の三男・綱重の長男です。

綱吉の嫡男が早世してしまったため、将軍の話が回ってきました。

それまでは甲府藩の藩主を務めていた家宣ですが、将軍になったのは実に48歳のときのことです。この就任した際の歳は、歴代15代将軍の中で最高齢でした。

家宣の治世はわずか3年という短い期間でしたが、生類憐れみの令や酒税を廃止したことにより人々に歓迎されました。

また、役人の賄賂なども禁じ、高潔な将軍であったとされています。

第7代将軍・徳川家継

在任期間:1713年(正徳3年)〜1716年(享保元年)

出身家:徳川将軍家

墓所:増上寺

主な出来事:新井白石と間部詮房による政治

家継は、家宣の四男でしたが、上の兄たちが早世したため将軍に就くことになりました。

しかし、父の死によりわずか5歳という若さで将軍になったのです。

父は最高齢で将軍になりましたが、家継は歴代最年少で将軍になったことになります。

これだけ若いと当然政治をすることなんてできません。

そのため、新井白石や間部詮房らが家継のことを支えました。

家継は幼いながらも自身の立場を理解していた様子があり、その立ち振る舞いから将来を期待されていましたが、将軍就任の4年後、8歳で亡くなってしまいます。

第8代将軍・徳川吉宗

在任期間:1716年(享保元年)〜1745年(延享2年)

出身家:紀州徳川家

墓所:寛永寺

主な出来事:新田開発(米将軍)、公事方御定書、目安箱、享保の改革

吉宗は、時代劇『暴れん坊将軍』のモデルとなった人物です。

紀州徳川家の徳川光貞の四男で、到底将軍になるような立場の人物ではありませんでした。しかし、兄たちが死去したことにより、紀州藩主を相続。

そして、家継の後継者がいないということから、紀州藩で手腕を振るっていた吉宗が大抜擢され、徳川御三家出身の初めての将軍になりました。

吉宗は、「享保の改革」といって、質素倹約を常とし、大奥を縮小したり、新田開発を進めたりと幕府の財政再建に取り組みました。

さらに、目安箱を設置し、人々の意見を政治に反映させたりしました。

第9代将軍・徳川家重

在任期間:1745年(延享2年)〜1760年(宝暦10年)

出身家:紀州徳川家

墓所:増上寺

主な出来事:大岡忠光と田沼意次に支えられて政治を行う

家重は吉宗の嫡男でしたが、病弱で言語障害があり、学問や武芸より酒色を好むというような、将軍にはあまり向かない人物でしたが、吉宗は長幼の序を重んじて、家重を後継者とします。

それでも家重は政治にあまり関心がなかったため、老中・田沼意次や大岡忠光が主に幕政を執ることとなりました。

ちなみに、家重は病的な頻尿に悩んでいたと言われています。

第10代将軍・徳川家治

在任期間:1760年(宝暦10年)〜1786年(天明6年)

出身家:徳川将軍家

墓所:寛永寺

主な出来事:田沼意次による政治、印旛沼・手賀沼干拓

家治は家重の嫡男で、幼い頃から聡明であったので周囲から良き将軍になると期待されていました。しかし、家治は父の遺言通り、父のブレーンだった田沼意次を重用し、幕政を任せることにします。

幕政から離れた家治は、将棋や鷹狩に没頭するようになりました。

家治の将棋は、今ではそれほど強くなかったと分析されていますが、七段まで昇進するくらいの力はあったようです。

また、愛妻家として知られており、側室を持ちたがりませんでしたが、正室との間に男子が産まれず、渋々側室をとりました。

ちなみに、この頃に、浅間山噴火や天明の大飢饉が起きています。

第11代将軍・徳川家斉

在任期間:1787年(天明7年)〜1837年(天保8年)

出身家:一橋徳川家

墓所:寛永寺

主な出来事:寛政の改革、大塩平八郎の乱、化政文化

家斉は徳川将軍家ではなく、徳川御三卿のうちの1つ、一橋徳川家の出身です。

一橋徳川家の徳川治済の四男だったのですが、家治の嫡男が急逝したため、後継者として選ばれました。

この頃、飢饉や天災が相次ぎ、困窮した人々による一揆や打ちこわしが多発していました。そこで、家斉は幕府の信頼を取り戻し、財政を立て直すために、松平定信を登用します。

松平定信が取り組んだ寛政の改革は、一定の効果をあげましたが、厳しい緊縮政策は幕臣や朝廷、人々の反感を買ってしまいました。

そのため、家斉は松平定信を解任することにします。

その後、家斉は贅沢な暮らしを送るようになり、多くの側室を抱え、なんと約55人もの子供を儲けました。

第12代将軍・徳川家慶

在任期間:1837年(天保8年)〜1853年(嘉永6年)

出身家:徳川将軍家

墓所:増上寺

主な出来事:天保の改革、黒船来航

家慶は家斉の次男です。

父・家斉が50年も将軍の座に就いており、家慶の治世となっても家斉の大御所政治は続行されていました。しかし、家斉の贅沢三昧で傾いた幕府の財政を再建するべく、家慶は水野忠邦を起用し、天保の改革を行います。

しかし、贅沢や娯楽の制限をしたり、借金の無金利化、言論弾圧などを行いましたが、根本的な解決には至らず、水野忠邦は失脚してしまいます。

そこで今度は、阿部正弘を登用します。

しかし、この頃黒船に乗ってペリーがやってきたように、諸外国から開国を迫られていた状況。そのため、阿部正弘は、外交や国防に腐心することとなりました。

また、家慶は自身の後継者として我が子ではなく、後に15代将軍となる徳川慶喜を推薦しています。

世襲制よりも、優秀な人物が継ぐべきだと考えていたのですね。

しかし、結局次期将軍は家慶の実子である家定に決まってしまいました。

水野忠邦、阿部正弘、徳川慶喜と、家慶は次々に見込んだ人材を取り立てたことから、、家慶は人事能力に優れた将軍だったと言われています。

第13代将軍・徳川家定

在任期間:1853年(嘉永6年)〜1858年(安政5年)

出身家:徳川将軍家

墓所:寛永寺

主な出来事:日米和親条約

家定は、家慶の四男です。

脳性麻痺だったという記録があり、また、幼少期に罹った疱瘡のために顔に痣があったせいか、あまり人前に出たがりませんでした。そのため、政務は父の代に引き続き、阿部正弘が行い、その死後は堀田正睦が行いました。

病弱な家定に、薩摩藩から健康で聡明な篤姫が輿入れし、周囲は世継ぎを期待しましたが、家定は子供を授かることはできなかったのです。

そこで、後継者問題が起こります。紀州藩主・徳川家茂と徳川慶喜、それぞれを擁立する勢力が現れ、対立するのです。

これに決着をつけたのは家定自身で、家茂を後継者にすると宣言した翌月に亡くなってしまいました。

ちなみに、政治は全くでしたが、料理の腕は確かだったと言われています。

第14代将軍・徳川家茂

在任期間:1858年(安政5年)〜1866年(慶応2年)

出身家:紀州徳川家

墓所:増上寺

主な出来事:桜田門外の変、公武合体

家茂は、紀州藩主・徳川斉順の次男でした。そのまま紀州藩主を継ぎますが、家定に実子がいなかったため、井伊直弼に推され将軍に就きました。

この当時、日本は諸外国から開国を迫られており、幕府は開国をしようとしていましたが、朝廷は鎖国を貫こうとしており、対立してしまいます。

この対立を緩和するために、家茂と孝明天皇の妹・和宮の縁談が決まります。(公武合体)

とても真面目な人柄で、頭脳明晰な上に優しい性格であったため、周りからの人望も厚い人物でした。しかし、遠征先の大阪城で、21歳という若さで病没してしまいます。

第15代将軍・徳川慶喜

在任期間:1867年(慶応2年)〜1868年(慶応3年)

出身家:一橋徳川家

墓所:谷中霊園

主な出来事:江戸城開城、大政奉還

江戸幕府最後の将軍である慶喜は、元々水戸徳川家の生まれでしたが、一橋徳川家の養子となりました。

13代将軍・家定の後継者争いを家茂と行い、敗れた慶喜は安政の大獄で謹慎の身になってしまうのです。

桜田門外の変の後は、家茂の後見職となっており、家茂の死後、将軍に就任しました。

就任の翌年には、大政奉還を行い、政権を天皇に返上しています。この素早い判断で、内乱を防ぎ、それに乗じて侵攻してこようとする諸外国の危機から逃れることに成功しました。

さらにその翌年には、江戸城は明け渡しとなっています。

また、慶喜は風流人で多趣味であったと言われています。特に、手裏剣やカメラ、サイクリングなどを好んでいたようです。

江戸幕府の将軍の覚え方は?

江戸幕府の将軍は15人もいるので、全員の名前を覚えきれない人や順番が覚えきれないという人が多いのではないでしょうか?それを覚えるための語呂合わせがあるので、ご紹介します。それぞれの名前の一部をとってきて、

「徳川は、家康秘密、角、強し、花よ、さも良し、15代」

(徳川は、家康ひみつ、つの、つよし、はなよ、さもよし、15代)

以上のような語呂合わせで覚えることができます。これを細かく分解していくと、

家康=家康(初代)

ひ=ひでただ=秀忠(2代)

み=みつ=家光(3代)

つ=つな=家綱(4代)

つ=つな=綱吉(5代)

の=のぶ=家宣(6代)

つ=つぐ=家継(7代)

よ=よし=吉宗(8代)

し=しげ=家重(9代)

は=はる=家治(10代)

な=なり=家斉(11代)

よ=よし=家慶(12代)

さ=さだ=家定(13代)

も=もち=家茂(14代)

よし=よしのぶ=慶喜(15代)

以上のようになります。この語呂合わせで覚えてみると良いでしょう。

まとめ:江戸幕府の将軍は15人いて、覚え方は「徳川は、家康秘密、角、強し、花よ、さも良し、15代」

江戸幕府は約260年間も続いており、その間に将軍は15人となりました。その将軍は、代々徳川家から輩出されており、それぞれが治世のために励みました。

今回の内容をまとめると、

  • 江戸幕府の将軍は全員で15人いた
  • 江戸幕府歴代将軍のほとんどは「家」という字が名前に入っている
  • 徳川15代将軍の覚え方は「徳川は、家康秘密、角、強し、花よ、さも良し、15代」

将軍が15人もいると、たくさんいすぎて覚えきれないという人が、やはり多いと思います。しかし、それぞれのエピソードを覚えておくことで、自然と名前が頭に残る可能性も高いです。
そのため、名前とエピソードはセットで覚えておくといいでしょう。

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