安倍晴明の死因は何?長寿だった?墓所はどこ?最期の姿など簡単に解説!
安倍晴明(921(延喜21)〜1005(寛弘2))は、平安時代に活躍していた陰陽師です。1990〜2000年くらいの間に陰陽師ブームが到来し、様々なメディアで「陰陽師」が取り上げられました。
また、最近では、フィギュアスケート選手の羽生結弦さんが、陰陽師モチーフの曲で演技されていたことでも注目されていました。
このように、陰陽師という言葉を通して、安倍晴明のことを知っているという人も多いです。
そんな安倍晴明はどのようにして亡くなったのでしょうか?
この記事では、安倍晴明の死因や最期の姿、墓所について簡単に解説していきます。
目次
安倍晴明の死因は何?命日はいつ?
安倍晴明は陰陽師として活躍し、天皇や貴族からの信頼も厚い人物でした。
そんな安倍晴明はいつ、どのようにして亡くなったのでしょうか?
ここでは、安倍晴明の死因について簡単に解説していきます。
安倍晴明の死因は不明?
安倍晴明の死因について詳細に書かれている資料は残っていないため、その死因は不明となっています。
しかし、1つわかっていることがあり、それは安倍晴明はかなり長寿だったということです。
当時の人々の平均寿命は40〜50歳あたりだったのですが、安倍晴明はなんと85歳まで生きたと言われています。
亡くなる前年に新しい役職に就いたという話もあり、これだけ長生きしていながら生涯現役だったようです。
また、これだけ高齢だったことから、死因は老衰なのではないかとする説もあります。
安倍晴明が長寿だったのは母親のおかげ?
安倍晴明は非常に長寿でした。
それは、当時の平均寿命の倍近く、なぜこんなにも長く生きることができたのでしょうか?
それは一説によると、母親のおかげではないかとされています。
安倍晴明の母親は、「葛の葉」という妖狐だという説話があるのです。
ある時、人間に追われていた葛の葉は、安倍晴明の父親に保護されることとなります。そして、そのまま2人は結婚することとなり、その後生まれた子供が安倍晴明だと言うのです。
そのため、安倍晴明には半分妖狐の血が流れており、その影響で長生きできたのではないかと言われています。
安倍晴明の子孫は現在まで続いている?
安倍晴明は2人の子供(吉昌、吉平)を残していました。そしてその2人の子供のうち、吉平の子孫がその後も続いていきます。
子孫は代々、安倍晴明と同じように、陰陽師を継承していきました。
脈々と分家を増やしながら続いていくのですが、室町時代辺りになると、安倍家は宗家を巡って争い始めます。
その争いを治めたのが、14代目の安倍有世という人物です。
この安倍有世は非常に優秀な人物で、陰陽師としてかつてないほどの最高位に上り詰め、そその評価を持ってして、他の家の者たちを黙らせたのです。
ここを起点として、安倍家は非常に格の高い家となり、安倍有世のひ孫である有宣の代から土御門姓を名乗るようになります。
その後、土御門家は明治維新後も華族として血統が続いていきました。
しかし、その途中で実は安倍晴明の男系の血筋は途絶えてしまっています。
途絶えたのは、戦国時代辺りで、土御門泰栄の代です。
宗家はこのように安倍晴明の男系の血筋が途絶えてしまったので、養子相続を繰り返して女系を経た遠縁となってしまっています。
それでも、安倍晴明の子孫はとても多くの分家を出したりしていましたので、その血筋は現在まで様々な場所でしっかりと残っているのです。
また、宗家ではありませんが、安倍晴明の血を引く27代目だという安倍成道という方が現在も陰陽師としてご活躍されているそうです。
\ 安倍晴明の子孫に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/
安倍晴明の最期の姿は?
安倍晴明が陰陽師として活躍しだしたのは、50歳を超えた辺りからのことでした。
つまり、かなり出世が遅かったというわけですね。
そんな安倍晴明は晩年どのように過ごしていたのでしょうか?
ここでは、安倍晴明の最期の姿について簡単に解説していきます。
安倍晴明は生涯現役だった?
安倍晴明は、40歳の頃にまだ学生をしていたというくらい、出世が遅い人物でした。
安倍晴明がその実力を認められ、しっかりとした役職に付いたのは、なんと51歳のときです。
この際に、安倍晴明は「天文博士」に任命されました。
この天文博士とは、陰陽寮に設置された天文道を担当する部署のトップです。
これ以降、安倍晴明は数々の業績を治めていきます。
- 天体異変発見による天皇への天文密奏
- 円融天皇の怪異の吉凶を占う
- 師貞親王(後の花山天皇)の命を受けて、那智山の天狗を封印する儀式を行う
- 太政官庁舎に立て続けに蛇と鳩が現れたことに対して、怪異占を実施する etc…
これらの実績により、安倍晴明は天皇や、当時の実質的最高権力者であった藤原道長からの信頼を得ています。
当時の陰陽師としては、かなりの高位階であった安倍晴明でしたが、74歳のときに陰陽寮を退職し、天文博士を退任してしまいました。
しかし、その後も安倍晴明は当時の権力者たちから重用され続け、退職後にも関わらずさらに出世していくのです。
当時としては驚異的な高齢である80歳を超えてからも、安倍晴明は陰陽師として第一線で活躍していたようです。
84歳のときには、深刻な干魃を解消するために雨乞いを行い、見事雨を降らせたことから、一条天皇から褒賞を受けたことなどが記録に残っています。
安倍晴明が亡くなったとされているのは85歳ですから、少なくともその前年までバリバリ第一線で活躍していたということになりますね。
生涯現役だった安倍晴明、これを聞いたらいかに安倍晴明が特別な存在であったのかが伺えますね。
安倍晴明はライバルに殺されたが生き返った?
安倍晴明の死について、不思議な伝説が残っています。
それは、仮名草子『安倍晴明物語』に書かれています。
ある時、安倍晴明は、ライバルである蘆屋道満(あしやどうまん)と命を賭けた賭け事をしました。すると、蘆屋道満のインチキにより負けてしまい、斬り殺されてしまったのです。
しかし、その後、事情を聞きつけた安倍晴明の師匠が、なんと安倍晴明を蘇生します。蘇生してもらった安倍晴明は、見事蘆屋道満に復讐を果たしました。
この話は仮名草子なので、本当のことかどうかはわかりませんが、安倍晴明の死について書かれている面白いお話です。
安倍晴明の墓所はどこにある?
安倍晴明は、死因がはっきりと判明していませんでした。
しかし、その墓所は様々な場所にあるのです。
それはなぜなのでしょうか?
ここでは、安倍晴明の墓所について簡単に解説していきます。
安倍晴明を祀っている場所は全国各地にある?
安倍晴明の墓所や祀っている場所は、なんと全国各地に存在します。
なぜこのようなことになっているのでしょうか?
一説には、当時安倍晴明の力はとても強大で、その力を利用されてしまうのを防ぐために、本当の墓所がどこかわからないようにしたとのことです。
安倍晴明を祀っている場所の一覧
- 安倍晴明墓所(京都府嵯峨嵐山)
- 清墓士(長野県木曽)
- 安倍晴明神社(大阪)
- 晴明神社(愛知県名古屋)
- 安倍文殊院(奈良)
- (福島)
- (広島)
- (岡山) etc….
安倍晴明の公式の墓所は京都?
安倍晴明を祀っている場所は全国各地に存在しています。
しかし、現在ではその力を悪用されることもないだろうとのことで、「公式の墓所」が定められています。
それは、京都の嵐山にある長慶天皇陵の脇に存在しています。
元々、この土地は天竜寺の所領だったので、ここにある安倍晴明の墓所も天竜寺の塔頭の1つにあったものだと考えられています。
しかし、年月が経ち荒廃が進んだために、最終的にこの土地を晴明神社が譲り受けて、「公式の墓所」と定めたのでした。
現在は、晴明神社の飛地境内として管理されてます。
安倍晴明墓所
住所:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町12
まとめ:安倍晴明は非常に長寿で、死因ははっきりと判明していない
安倍晴明の死因は記録が残っておらず、はっきりと判明していませんでした。しかし、安倍晴明は享年85歳という、当時としては異例なまでの長寿だったことがわかっています。
今回の内容をまとめると、
- 安倍晴明の死因は判明していない
- 安倍晴明は、当時としては異例なまでの長寿だった
- 安倍晴明は、亡くなる前年まで一線で活躍し、生涯現役だった
- 安倍晴明を祀っている場所は全国各地に存在する
「墓所がわかってしまうと力を利用されてしまう」と考えられていたということは、安倍晴明は死んでもなお力があると考えられていたということでしょうか。
それほどまでに当時の人々にとって、安倍晴明の影響力は大きかったと伺うことができますね。