伊達政宗の家紋|竹に雀や三つ引き両紋、九曜紋などの意味や由来を解説!
伊達政宗は、独眼竜政宗の異名で有名な伊達氏の17代当主で仙台藩の初代藩主です。
近年では、パズドラやモンストなどのゲームのキャラクターにも使用されるなど、非常に人気の高い戦国武将です。
今回は、伊達政宗が使用していた家紋について、普段はどんな家紋を使っていたのか?何種類の家紋を使い分けていたのか?またその家紋の由来や意味などを解説していきます。
目次
伊達政宗は家紋を使い分けていた
伊達政宗は、多くの家紋を使い分けていたと言われています。先祖から受け継ぎ使っているものもあれば、江戸時代に入ってから貰ったものまで様々です。
その数はメインで使う「定紋」6つのほか、「替紋」を合わせると9種類以上もあったようです。
伊達政宗が主に使用していた家紋(定紋)はこの2種類。
- 竹に雀(仙台笹)
- 丸に竪三つ引き両紋
伊達政宗が替紋として主に使われていたのは以下の4つ
- 九曜紋
- 雪薄紋
- 五七桐紋
- 十六葉菊紋
伊達政宗はが、どんな経緯でこれらの家紋を使用するようになったのか?詳しく見ていきましょう。
伊達政宗の家紋|竹に雀(仙台笹)
伊達政宗の家紋といえばこの竹に雀(仙台笹)が有名です。伊達家の定紋で、シンボル的存在の家紋です。
この竹に雀(仙台笹)の家紋は、伊達政宗の大叔父にあたる伊達実元が、越後の上杉定実の婿養子に入ると決まったとき、婿への引き出物として、上杉家から贈られたものです。
伊達実元の養子の話は立ち消えとなりましたが、伊達家はこの家紋をとても気に入り、定紋として使用するようになったと言われています。
“竹に雀”は元は藤原氏勧修寺家の定紋で、室町期に関東管領であった上杉家に下賜されたものなので、”竹に雀”を使うことで、藤原氏流上杉氏との繋がりを強化していきました。
その形は、竹が輪のように組まれ、その周りを笹で囲んでおり、中心には2羽の雀の姿が描かれています。
常緑の竹に群れを成す雀。子孫繁栄や一族の栄華を願う意味があるようです。
伊達政宗の家紋|丸に竪三つ引き両紋
こちらは伊達家でもっとも長く使われている家紋で、伊達政宗も使用していました。
三つ引き両紋は3本の線で構成されており、丸で囲われています。
「龍の姿を表したもの」や「霊を表したもの」など諸説あり、太い線は力強さを現していると言われています。直線は横に配置したものが一般的ですが、中には縦に配置したものもあり”丸に竪三引き”と呼ばれています。
伊達家は縦3本なので、丸に竪三引きになります。
この三つ引き両紋は、伊達家の先祖である伊達朝宗が、藤原氏討伐のご褒美として鎌倉幕府の初代征夷大将軍の源頼朝から拝領した家紋です。
源頼朝が征夷大将軍に就任する3年前(1189年)のこと、頼朝は藤原氏を倒すため東北にいました。
当時、東北地方で絶大な権力を誇っていた藤原氏と対立(奥州合戦)、この戦いの勝利し鎌倉幕府が確立しました。
この戦いで、源頼朝の前衛となり勝利に導いた強者が常陸入道念西、のちの伊達朝宗です。
念西は、藤原氏討伐の功績により、頼朝の家臣だった佐藤氏の地盤を与えられ、念西は帰俗し伊達朝宗を名乗るようになりました。これが伊達家が誕生の瞬間です。
この三つ引両紋は、第56代清和天皇の皇子の清和源氏が使用していたので、清和源氏との繋がりを強化する目的で使用されていたようです。
伊達政宗の家紋|九曜紋
九曜紋は、もともと桓武平氏が使用していた家紋です。
桓武平氏は50代桓武天皇の子である、葛原親王・万多親王・仲野親王及び賀陽親王の子孫です。
九曜紋は星を家紋にしたものです。星は占いの対象として使われていました。星は決まった軌道で移動するので、狩猟や航海の際には位置確認として、農業では季節を確認するための手段として、使用目的が生活に密着していました。
当時の星模様は現代と異なり「●」で表されていました。九曜紋の真ん中の大きい星が太陽、回りの八つの星は太陽系を巡る惑星です。太陽や月も星と同様、古代から信仰の対象とされていました。
九曜紋は、織田信長から細川忠興が賜り、使っていたお気に入りの家紋だったようです。
織田信長の小刀の柄に、九曜が描かれているのを見た細川忠興がその紋をたいそう気に入り、細川忠興とガラシャの結婚が決まった際に、織田信長から細川忠興に九曜紋の家紋を使うよう御達しされたといわれています。
その九曜紋を伊達政宗が気に入り、細川忠興に頼み込んで使わせてもらったようです。
しかし後に、伊達政宗はこの家紋を重臣の片倉小十郎にあげてしまいます。
ですので、この九曜紋は片倉家の家紋でもあるのです。
細川忠興に頼み込んでまで手に入れた九曜紋を、あっさりあげてしまった理由は分かりませんが、伊達政宗は相当な変わり者だともいわれているので、そのことも関係しているのかもしれません。
また、当時は家紋を下賜することもあったので、単純に下賜されただけかもしれません。
伊達政宗は、九曜紋を使うことで桓武平氏との繋がりをアピールしていたのでしょう。
伊達政宗の家紋|雪薄紋
伊達家の姫君が使う替紋として知られている雪薄紋は、姫様達の紋として女性らしいイメージで、現代でも女性の着物にもよく使用されています。
伊達氏独自の紋で伊達輝宗、伊達政宗も初陣の小旗に使用していました。
かつて雪は豊作の前兆とされ、人々に喜ばれる縁起が良いもので、雪の結晶を描いた文様が、家紋として多く使われるようになったそうです。婚礼祝いの漆器類にもこの紋が入っているものが残されており、姫様に限らず、伊達家では功績のあった女性には、この紋を使わせています。
雪を輪紋として描いた雪輪の中には、様々なデザインの図柄があり、特に植物との組み合わせが多かったようです。
伊達家の雪薄紋は、雪の輪紋の中にススキを描いたデザインです。
伊達政宗の家紋|五七桐
五七桐紋は、現在の日本政府の紋章でもあります。
桐は鳳凰が止まる木として神聖視され、高級木材されており、天皇家や功績をあげた者の家紋として、天皇から下賜されたといいます。
桐紋は桐の葉と花を図案化したものです。3枚の葉の上に3本の花が描かれています。
桐紋は、花の数によって五三桐、五七桐に分けられます。
- 五七桐・・・天皇家の家紋。桐紋の中で最上位の家紋。花の数が5-7-5。
- 五三桐・・・功績を残した者に、天皇から下賜される家紋。花の数が5-3-5。
伊達家は最上位の”五七桐”を家紋にしています。
天皇家の家紋は「五七桐」で、桐紋の中でも最上位と言われる格式が高いものでした。
一方、下賜する時はそれより下の”五三桐”が多く、織田信長や足利尊氏が天皇から下賜され、家紋として使用しています。
この五七桐を家紋としていたことで知られているのは豊臣秀吉です。
豊臣秀吉は、信長の家臣時代は”五三桐”を活用していましたが、姓を豊臣と改めた時に五七桐を後陽成天皇から下賜されて使用していました。
秀吉は、五三桐や五七桐を配下の武将に次々と与えました。桐紋を与えることで、家臣との関係を強化するのが目的だったようですが、次々と与えすぎたため、桐紋の価値がどんどん下がっていきました。
伊達政宗も、秀吉から五七桐を受け継ぎ使用することで、豊臣家との繋がりをアピールしていたようです。
伊達政宗の家紋|十六葉菊
菊紋は、天皇家の紋章です。八重菊を図案化し、花びらの数が16枚なので十六葉菊と呼ばれています。
この菊紋の起源は、鎌倉時代初期に、後鳥羽上皇が好んで使用していたことと言われています。
豊臣秀吉も後陽成天皇から菊紋を下賜され、のちに五七桐と同様に伊達政宗に譲っています。
由緒ある天皇家の家紋を秀吉から譲り受けることで、天皇家のルーツに結びつくように使用していたようです。
十六葉菊が皇室の紋として認知されるようになったのは1869年。太政官布告によって明治時代に天皇の紋章として定められ、その他の者の使用が禁じられるようになり、現在は天皇家しか使用できません。
まとめ:伊達政宗は先祖から受け継いだり、賜った家紋を6つ使い分けていた
伊達政宗は、先祖から受け継いだり、豊臣秀吉から賜ったりした家紋を6つ使い分けていました。
今回の内容をまとめると、
- 伊達政宗が使用していたと言われる家紋は6つ「竹に雀(仙台笹)」「三つ引き両紋」「九曜紋」「雪薄紋」「五七桐紋」「十六葉菊紋」
- 伊達政宗は、細川忠興に頼み九曜紋を使わせてもらったが、家臣にその家紋を譲っている
- 伊達家のオリジナルである雪薄紋は、功績をあげた女性にも使用させていた
- 伊達政宗は、豊臣秀吉から「五七桐紋」と「十六葉菊紋」を賜り使用していた
家紋は家の紋章ともいえる、いわば家柄を現すマークです。戦国時代は戦の際の旗印に使われるなど、自軍の存在を現す役目も果たしていました。
先祖からの想い、賜っ人との関係をアピールするものとして、伊達政宗も家紋を使い分けていたんですね。