真田幸村(真田信繁)の年表を簡単に解説!どんな人?功績は?性格は?

真田幸村(真田信繁)の年表を簡単に解説!どんな人?功績は?性格は?

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真田幸村(1567または1570~1615)といえば、大河ドラマやゲームなど様々なメディアで取り上げられている、人気と知名度のある戦国武将です。しかし、その前半生は明らかになっていない部分が意外と多いのです。さらに、「幸村」という名前も実は本名ではなく、「信繁」という名前があるのです。

今回は、真田幸村(信繁)がどんな人物だったのかを年表を通して簡単に解説します。また、功績や性格も逸話を交えながらご紹介していきます。

真田幸村(真田信繁)の年表を簡単に解説

真田幸村というのは、どのようなことをしてきたのでしょうか?意外と名前は知っていても、何をしたかまでは知らないという人は多いです。まずは年表を通して、真田幸村の歴史をおさえていきましょう。

真田幸村さなだゆきむら:(本名:真田信繁さなだのぶしげ)
幼名:弁丸
出年:1567年または1570年〜1615年(享年45歳または49歳)
生誕地:信濃国(現在の長野県)
父:真田昌幸さなだまさゆき |母:山手殿やまてどの
正室:竹林院ちくりんいん
側室:隆清院りゅうせいいん、堀田興重の娘、高梨内記の娘

真田幸村の年表

1567年(永禄10年)/1570年(永禄13年):0歳
真田昌幸の次男として、信濃国にて誕生

1575年(天正3年):9歳
父・昌幸が真田家の家督を継ぐ

1582年(天正10年):16歳
滝川一益たきがわかずますの人質となり、その後、さらに木曽義昌きそよしまさの人質となる
父 真田昌幸が徳川家康に従属することを選択する

1583年(天正11年):17歳
徳川家康の命により、のちに真田家の居城となる上田城の築城を開始する

1585年(天正13年):19歳
父 真田昌幸が家康と決別し、上杉家に臣従する
→真田幸村は上杉家に人質として預けられる

1587年(天正15年):21歳
真田昌幸が上洛して、豊臣秀吉に臣従する
→真田幸村は羽柴家の人質として大阪城へと出仕

1590年(天正18年):24歳
父 真田昌幸と兄・信幸とともに小田原征伐に参戦(初陣)
この頃に豊臣秀吉の家臣・大谷吉継おおたによしつぐの娘、竹林院を正室に迎える

1600年(慶長5年):34歳
犬伏にて家族会議の結果、関ヶ原の戦いには、信幸は東軍に昌幸と幸村は西軍につくことを決定する
真田幸村(西軍)は関ケ原の戦いにて敗戦
→昌幸とともに一時死罪を命ぜられるが、信幸と本多忠勝ほんだただかつの助命嘆願により、高野山への蟄居となる

1612年(慶長17年):46歳
出家して、好白(こうはく)と名乗る

1614年(慶長19年):48歳
豊臣秀頼の依頼に応じ、流罪先の九度山を脱出し、嫡男・幸昌とともに大阪城へ入城する
大阪冬の陣では、真田丸を築き、赤備えの軍を率いて奮戦する

1615年(元和元年):49歳
大阪夏の陣にて、銃撃戦の末、伊達政宗だてまさむね軍を一時的に後退させるも、最終的には四天王寺付近にて徳川方の武将に討ち取られる(享年49歳)

*出年:1567年または1570年と諸説あります。
*この年表は1567年出生として年齢を記載しております。

真田幸村の本名は真田信繁。なぜ幸村と呼ばれてる?

真田幸村は、実は本名ではありません。本名は真田信繁といいます。
それではなぜ信繁ではなく、幸村と呼ばれているのでしょうか?

真田信繁自身は生涯自分のことを、真田幸村と名乗ったことはありませんでした。
真田幸村という名前がどこからきたのかというと、それは後世で作られた物語が由来です。
江戸時代の1672年(寛文12年)に出された『難波戦記』という軍記物が初出だとされています。この物語の中で、信繁が「左衛門佐幸村さえもんのすけゆきむら」と名乗りを上げるシーンがあるのです。

大坂の陣での真田幸村の活躍は、徳川側の武将からも称賛の声があがるほどでした。そのため、それを物語として残しておきたかったのでしょう。しかし、あからさまに実名を使うと著者は処分されてしまう可能性がありました。そこで、幸村という名前が使われるようになったのではないかと言われています。
そして、そのまま真田幸村の名前が広まっていった結果、幕府や松代藩の公式文書にまで幸村の名前が採用されてしまうのです。公式文書が真田幸村と書いているのだから、それが本名なのだろうと信じた人たちがその名前を採用し続けていきました。そのため、現在でも真田幸村の名前のほうが有名になってしまっているのです。

真田幸村はどんな人だった?

真田幸村は、幼少期は人質として過ごした時期もあり、また一時は死罪を命ぜられ、高野山に蟄居させられるなど苦労の多い人生でした。ここでは、真田幸村がどんな人だったのかを逸話を交えながら紹介していきます。

真田幸村の性格がわかる逸話

真田幸村は、温和で明るい性格であったと言われています。
真田幸村の兄の真田信幸は『幸村君伝記』にて、「物事に対する態度はものやわらかで忍耐強い。言葉数は少なく、怒ったり腹を立てたりすることはない」と真田幸村のことを評しています。

また、周りから好かれる性格だったようで、真田幸村が上杉家の人質として越後にいた際は、上杉景勝に領地をもらうほど、とても可愛がられていました。
さらに、真田幸村が豊臣秀吉の人質となった際には、上杉景勝が「真田幸村を返してくれ」と、豊臣秀吉に頼んだという話もあるようです。

そして、義理に厚く、正義感に溢れた人物であったという話もあります。
大坂の陣の際、真田幸村は豊臣秀吉への恩を返すために、圧倒的に不利であるにも関わらず豊臣陣営につきました。実はこの時、徳川家康から何度も何度も寝返るように使者が送られてきていたようです。寝返るための条件も破格な扱いのもの。しかし、幸村は断固としてその誘いには乗りませんでした。ただただ、お世話になった豊臣のためにその身を捧げたのです。

以上のように、普段は物静かで温和な性格の真田幸村ですが、こと戦になると鬼神のように敵を倒していきます。
その奮戦ぶりは、敵であった島津忠恒が「天晴真田、日本一の兵ひのもといちのつわものよ」と評するほどでした。

普段の性格と、戦時の性格、そのギャップが真田幸村の魅力の1つと言えるでしょう。

真田幸村の家紋は六文銭

真田幸村が掲げていた家紋は、六文銭ろくもんせんというものです。六文銭は、三途の川を渡る際に必要とされるお金と言われており、当時は六文銭を死者の棺の中に入れていました。

真田幸村がこの家紋を掲げて戦うことによって、真田の兵たちには死をも恐れない覚悟が生まれていたようです。

真田幸村の功績を簡単に解説

真田幸村は名前は有名ですが、実は功績自体は数えるほどしかありません。ここでは、真田幸村の功績を簡単に解説していきます。


真田幸村の功績一覧

真田幸村の功績は主に3つです。

  • 上杉家、豊臣家などへの人質要員
  • 信州上田合戦
  • 大坂の陣で徳川家康を追い詰めた

【上杉家、豊臣家などへの人質要員】
真田幸村の父・昌幸は度々主君を変えていました。織田家が崩壊したら北条家へと帰順したり、北条家から徳川家へと鞍替えしたと思いきや、沼田の領土問題で家康と揉めたことにより上杉家へと臣従するようになったりと、その様は豊臣秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれていたくらいでした。
そんな中、幼い真田幸村は人質として各家に送られます。どこに行っても、真田幸村は主君に気に入られていました。そんな真田幸村がいたからこそ、昌幸の主君替えは成功していたといっても過言ではないかもしれません。

【信州上田合戦】
徳川家と真田家は上田の地で2度戦っています。1度目は、沼田の領土問題で敵対した徳川家が、真田家を潰すために真田領の上田へ侵攻したもの。2度目は、関ケ原の戦いにおいて、中山道を進む別動隊の徳川秀忠軍およそ3万8千人との戦い。真田幸村が活躍したのは、2度目の方になります。
攻めてきた徳川秀忠に対して、真田幸村は上田城に籠もり迎え撃つことにします。3万8千人の秀忠軍に対して、幸村の軍勢は数百人。数は圧倒的に不利だったにもかかわらず、少数精鋭の真田隊は秀忠軍に対して奮戦します。その後、秀忠は家康から上洛を命じられ、攻略を諦めて去っていきました。

【大坂の陣】
九度山で蟄居生活を送っていた真田幸村は、豊臣秀頼の依頼により大坂入城を果たします。冬の陣では、大坂城の弱点となる場所を補完するために、真田丸という出城を作ります。この真田丸が効果てきめんで、徳川側に1万〜1万5千人くらいの損害を出しました。このように、不利な状況ながら、真田幸村は徳川の勢力を確実に減らしていっていたのです。

真田幸村が活躍した大坂夏の陣

もう少しだけ、大坂の陣についてみていきましょう。冬の陣よりもより一層の活躍を見せたのが夏の陣です。
武人としての生涯を終えようとしていた真田幸村は、決死の覚悟で家康の本陣へと突撃するのです。勝機があるとしたら、徳川家康本人を打ち取ることのみと考えたからです。そのすさまじい突撃に、家康は一時切腹せざるをえないとまで考えさせられました。

最終的に討ち取られてしまった真田幸村でしたが、徳川家康を追い詰めたという点では、これ以上ない功績と言えるでしょう。

まとめ:真田幸村の年表からは、その男らしさが垣間見れる

真田幸村の年表から、幸村がどのような人生を送ってきたのかがわかりましたね。実は幸村が本名ではないということも知らなかった人は多いのではないでしょうか?

今回の内容をまとめると、

  • 真田幸村の本名は真田信繁
  • 幼少期は、人質として過ごす期間が長かった
  • 意外と戦の経験は少ない
  • 蟄居生活が約15年続いた
  • 温和で物静かだが、義理に厚く、正義感の強い性格であった
  • 戦場では鬼神のような性格になった
  • 大阪の陣では、徳川家康を切腹せざるおえないと思わせるほど追い込んだ

真田幸村の名前を知っているけれど、何をしたのかまではわからないという人が多いのは、真田幸村があまり戦の機会に恵まれなかったこともあるのでしょう。しかし、一度戦場に出たら、数々の武勇伝を残していることから、その男らしさを垣間見ることができますね。それこそが、真田幸村の人気の秘密なのかもしれません。

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