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福沢諭吉の性格は?どんな人だったのか人物像が見える逸話とともに解説!

福沢諭吉の性格は?どんな人だったのか人物像が見える逸話とともに解説!

一万円札の肖像画として有名な福沢諭吉は、幕末から明治にかけて活躍した教育者です。
日本国民に独立自尊の精神の尊さを広め、近代日本の精神的指導者として日本の発展に大きく貢献しました。
今回は、福沢諭吉の性格はどうだったのか?どんな人だったのかがわかる逸話とともにご紹介します。

福沢諭吉の性格はどうだった?

福沢諭吉は、明るく肯定的な性格だったようです。

【福沢諭吉の性格】

  • 明るい
  • 肯定的
  • 強い精神力
  • 大胆
  • 慎重

晩年に記された自叙伝『福翁自伝』でも、

「私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか、愉快なことばかりである」

と自分の人生を振り返っています。

福沢諭吉は、その66年間の人生で江戸時代と明治時代をちょうど33年ずつ、二つの時代を生きています。

立場や価値観が著しく転換していく激動の時代を生きた人生を、

「愉快なことばかりであった」

と評価できるしなやかで強い精神の持ち主でもあったことがわかります。

人はみな時代が変わる(変化)を嫌う傾向がありますので、その変化を楽しめる、柔軟性に満ちた人だったようですね。

福沢諭吉の性格は、大胆だが慎重さを兼ね備えていた?

福沢諭吉は自分の理念を信じ、熱意をもって発信し続けられる強い信念の持ち主でした。

福沢諭吉は明治維新前後の封建社会から近代日本の変革期において、

「日本の近代化には『独立自尊』の精神が必要である」

と、日本国民に伝え、人々の精神の変革を訴えかけ続けました。

つまり、福沢諭吉はそれまで日本人が「当たり前」としていた考え方を、刷新しようとしたのです。

そのために「学問のすすめ」などの本も執筆し、慶應義塾大学などの教育機関も整備しました。

近代日本の発展は、福沢諭吉の功績なくては成し得なかったといえるでしょう。

※独立自尊とは…自分と他者の尊厳を大切にし、どんなことも自分の判断と責任のもとに行う覚悟をもって行動すること

しかし一方で、福沢諭吉は、ただ一つの思想だけを愚直に守り抜くといったタイプの思想家ではありませんでした。

福沢諭吉の文章を見てみると、

「あらざれども」「なれども」「けれども」「かくいえばとて」

といった接続の言葉で2つの文章を結び付けていることが多くあります。

逆説的な接続語を使っていますが、福沢諭吉は、完全に前の文章の内容を否定していません。
一部は前の文章の内容を肯定しつつも、一部は否定して新しい内容を提示しているのです。

つまり、福沢諭吉は、自分の中に存在する多様な対立する思想全てを大事にし、 状況に応じて適切なものを選んでいくことができる、バランス感覚の持ち主 あったことが伺えます。

福沢諭吉はしばしば「変節漢(主義主張をコロコロ変える人物)」と批判されることもあったそうです。この批判は、福沢諭吉のこの性質ゆえのものだったのかもしれません。

しかしながら、表面的には主張を変化させたように思えても、一貫して「独立自尊の精神の確立」という信念は揺らいだことはありませんでした。

本当に大事な軸をブレさせない強い信念と、実現のためには大胆にも慎重にもなれる柔軟さを福沢諭吉はもっていたのですね。

福沢諭吉はどんな人だった?

福沢諭吉は、どのような人だったのか?人物像が伝わるエピソードをご紹介していきます。

【福沢諭吉の人物像が伝わるエピソード】

  • 福沢諭吉は、一途で女性を尊敬する性格だった
  • 福沢諭吉は迷信を一切信じていなかった
  • 福沢諭吉は権力にも一切媚びなかった
  • 福沢諭吉は、不平不満を言う人を許せなかった

福沢諭吉は、一途で女性を尊敬する性格だった

福沢諭吉は27歳の時に、中津藩の藩士土岐太郎八の次女お錦(きん)と結婚、2人の間には4男5女と9人もの子供に恵まれました。

当時は妾を持つことが珍しくない時代でしたが、福沢諭吉にはこの妻の他には女性関係のうわさは存在していません。福沢諭吉とお錦は、大変仲がいい夫婦だったそうです。
福澤諭吉は妻の意見を尊重し、よく聞き入れていたといいます。

福澤諭吉は河豚が大好物で、独身時代はよく食べていました。
しかし結婚した後、毒のある食物であることを懸念した妻が、福沢諭吉が河豚を食べる事に反対しました。

「おいしいものは他にいくらでもあるのだから、毒をもつ危険な河豚をあえて食べることはないではありませんか」

妻の意見に納得した福沢諭吉は、それ以降、河豚を食べるのを止めたといわれています。

このエピソードからは、福沢諭吉が妻を尊重する人物だったことと共に、妻のお錦がしっかりとした賢い女性だったことも感じられますよね。

福沢諭吉は迷信を一切信じていなかった

福沢諭吉は幼い頃から迷信を一切信じていなかったとのエピソードがいくつも残されています。
その中から二つをご紹介します。

【エピソード1:ご神体を捨てる】

福沢諭吉は少年期に、近所の稲荷社を拝んでいる姿を不思議に思い、社を開いてみたところ石が一つ置いてあるだけでした。その社は、その石を御神体としていたというわけです。
勝手に社を開いてしまうだけでも、神仏を信じている人から見ると充分罰当たりな行動ですが、幼少期の福沢諭吉の罰当たりな行動は更に続きます。

なんと、社に御神体の石と、近くに落ちていた石とを置き換えてみたというのです。

「社の石は特別な石なのだろうか。拝んでいる大人には特別な石だとわかっているのだろうか。もしも石がなくなったら、神社はどうなるのだろうか。」

御神体の石を見た時に浮かんだ疑問を即座に検証したというわけですね。
このエピソードからは、福沢諭吉が幼少期から合理的で科学的な思想の持ち主だったことが伺えます。

ちなみにその後、近所の大人たちは変わらず拝んでいる姿をみて、
「ご神体が道端の石ころに変わっていることに誰も気が付いていないのだなぁ。」
と、いたずらが成功した時の気持ちになったとの旨を、晩年の福沢諭吉が語っています。

【エピソード2:お札でお尻を拭く】

幼少期福沢諭吉が家の中を歩いていると、藩主の名前を書いた紙を踏んでしまったことがあったそうです。そのことを兄にとがめられます。
「お殿様の名前を足で踏みつけるのは罰当たりなことだからやめなさい。」

幼少期の福沢諭吉は、その場では兄に謝りましたが、納得できない気持ちと疑問が浮かんできたそうです。

「殿様の頭を踏んだなら確かに罰を受けるだろう。しかし、私は名前を書いた紙を踏んだだけだ。本当に罰当たりなのだろうか」

幼少期の福沢諭吉は、疑問を解決するために家族に内緒で検証実験をしてみます。

「殿様の名前を書いてある紙を踏むとまずいなら、常に私たちを見ているという神様の名前が書いてある神社のお札を踏んだらどうなるのだろうか」

幼少期の福沢諭吉は、早速お札を足で踏んでみたといいます。
更には、お札をトイレに持って行ってお尻拭いてみることまでしてみたそうです。

福沢諭吉が卓越した「物事の本質を見極める力」を持っているのは、幼少期のこのような秘密の検証実験の結果なのかもしれませんね。

ちなみに検証結果は、罰は当たらず特に変わったことは何も起こらなかったそうです。

しかしこの秘密の検証実験は、家族の誰かに言えば叱られると思い、誰にも言わなかったとのことです。

福沢諭吉は権力にも一切媚びなかった

福沢諭吉は下級武士の家で、五人兄妹の末っ子として生まれました。
1歳半で父が亡くなったあとの母の苦労を見て育ち、女性の立場の辛さや、身分差別を肯定する儒教や、政治権力に対しては強い反発を抱いていたとされています。

福沢諭吉が自分の著書にいつも「東京平民福沢諭吉」と署名していたことはご存じでしょうか。

これは、福沢諭吉の権力に媚びない気質を物語っているように思えます。

福沢諭吉は、不平不満を言う人を許せなかった

福沢諭吉の名言に、不平不満を言う人についての言葉があります。

【福沢諭吉の名言】

「馬鹿不平多シ 他責の暇があったら学ぶべき。」

現代:
馬鹿は何か事が起こると、何でも他人や周囲のせいにします。他を責める時間があるのだったら、学ぶ時間にするべきです。

背筋が伸びる気持ちにさせてくれる名言ですよね。

福沢諭吉の逸話をご紹介!

福沢諭吉にはいくつもの逸話が残されています。その中からいくつかをご紹介します。

【福沢諭吉の代表的な逸話】

  • 実は、酒豪でヘビースモーカーだった
  • 実は、居合の達人だった
  • カレーライスを広めたのは福沢諭吉
  • 福沢諭吉は、慶應義塾大学で唯一「先生」とよばれる人物だった

福沢諭吉は、幼少期から酒豪だった

福沢諭吉は幼少期からお酒を飲んでいました。
子供が飲酒をしているのは、現代では信じられませんが、福沢諭吉が生まれた江戸時代は飲酒に年齢制限は設けられていなかったのです。

大阪で蘭学を学んでいた適塾時代に酔っぱらい、塾長の奥さんの前で裸をさらしたとのお酒の失敗エピソードが残されています。
そして、この時はさすがに福沢諭吉も断酒を決意したそうです。
しかし、断酒の代わりに友人から煙草を勧められ、結果的にヘビースモーカーになってしまったとのことでした。

しかも禁酒中でも「ビールは酒ではない」といい、毎日ビールは飲んでいたといいます。

最終的に、福沢諭吉は断酒をあきらめ3年をかけてやっと、朝酒と昼酒だけはやめることに成功したとのことです。

福沢諭吉は居合の達人だった

福沢諭吉は5歳から漢学と剣術の稽古を始め、立身新流居合で免許皆伝の腕前だったそうです。
実戦では斬り合いをした事はありませんでしたが、居合の達人だったことは間違いないようです。

真面目な性格の福沢諭吉は、晩年になっても鍛錬を忘れず、一日千本の居合を続けていたといいます。福沢諭吉は二度の脳溢血が原因で亡くなっていますが、居合の鍛錬のし過ぎが原因なのではとの噂が立つほどのストイックな鍛錬を続けていたようです。

福沢諭吉はカレーライスを日本に広めた

福沢諭吉は、「カレーライス」という言葉を日本に広めた人物です。

福沢諭吉は、欧米諸国を訪問し、学んだ様々な事を日本に紹介しました。
その中に、「カレーライス」もあったとされています。

福沢諭吉が日本に紹介したものの中には、現在でも使われている言葉がたくさん存在しています。

他にもspeechを「演説」、societyを「社会」、zooを「動物園」など、現在も私達が日常で使う言葉には福沢諭吉が作った和製漢語が多く使われています。

福沢諭吉は、唯一「先生」と呼ばれるほど尊敬されていた

福沢諭吉がつくった慶應義塾では、「先生」と呼ばれるのは福沢諭吉のみです。
教員も学生も福沢諭吉以外は「君」と表記されています。
唯一「先生」と呼ばれるほど、尊敬される存在だったのですね。

まとめ:福沢諭吉は自他共に厳しいが、意外と人間らしい一面を持った人物だった

福沢諭吉は自分にも他人にも厳しい人物ですが、様々な人間らしいエピソ―ドをもつ人物だったことがわかりました。
今回の内容をまとめると、

  • 福沢諭吉の性格は、大胆だが慎重さを兼ね備えていた
  • 福沢諭吉は、人間らしいエピソードをたくさん残していた
  • 福沢諭吉は、カレーライスをはじめとして、多くの和製漢語をつくっていた

信念は揺るがさず、その他は状況に合わせてしなやかに対応していた福沢諭吉の性質は、現代を生きる私たちも目指す姿なのかもしれません。

幼少の頃から飲酒していたり、ヘビースモーカーだったりと、意外にも人間的な一面が見え、福沢諭吉との私たちの距離が縮まった気がしますね。

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