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足利義満の家系図を簡単に解説!子孫は現在も続いてる?足利義政との関係は?

足利義満の家系図を簡単に解説!子孫は現在も続いてる?足利義政との関係は?

足利義満(1358年(正平13年/延文3年)〜1408年(応永15年))は、室町時代前期の室町幕府第3代将軍です。足利義満は南北朝合一を果たし、室町時代の文化、政治、経済の最盛期を築き上げました。
そんな足利義満の子孫は現在まで続いているのでしょうか?また、足利義政とはどのような関係なのでしょうか?
この記事では、足利義満の家系図を見ながら、足利義満の子孫や足利義政との関係を簡単に解説していきます。

足利義満の家系図をわかりやすく解説!

足利義満の家系図

足利義満の家族構成

足利義満(あしかがよしみつ)
1358年(正平13年/延文3年)〜1408年(応永15年) 享年:51歳
父:足利義詮   母:紀良子
正室:日野業子  継室:日野康子
側室:藤原慶子、春日局、藤原量子、加賀局、他複数名…
子供:尊満、義持、義嗣、義教、法尊、虎山永隆、大覚寺義昭、梶井義承、他複数名…

足利義満は、1358年(正平13年/延文3年)に、室町幕府第2代将軍・足利義詮の息子として生まれました。義詮には正室との間に千寿王という嫡男がいましたが、幼くして亡くなってしまったため、義満が第3代将軍となりました。
このとき義満はわずか10歳という若さでした。

その後、1374年(文中3年/応安7年)には正室として日野業子を迎え、日野業子が亡くなった後には、継室として日野康子を迎えることになります。

しかし、正室、継室との間には男の子が生まれませんでしたが、側室である藤原慶子との間に生まれた足利義持と足利義教が、後に将軍職につくことになりました。

足利義満の子孫は現在も続いている?

室町幕府の栄華を築いた義満でしたが、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、義満の子孫がどうなっていったのかを簡単に解説していきます。

足利義満の祖先は清和天皇?

足利義満の家系でもある足利家の血筋は清和天皇から始まりました。

清和天皇は、平安時代前期の第56代天皇です。つまり、義満の先祖は天皇だったわけですね。

清和天皇は、武門の棟梁となる清和源氏の祖となります。
源頼朝や武田信玄などもこの清和源氏の流れを組んでいます。
足利家は、この清和源氏から河内源氏の流れをくみ、鎌倉時代を経て室町時代には義満の祖父である足利尊氏が将軍となり、天下人となりました。

足利義満の直系の子孫は途絶えてしまった?

足利義満は、子供を多く残しましたが、そのほとんどは早死してしまったり、出家したりと子孫が繋がることはありませんでした。

将軍として繋がっていった足利義持や足利義教は子孫を残していたので、そのまま将軍家の血筋は続いていきます。
最後の将軍である第15代将軍・足利義昭の子、義尋は出家していましたが、2人の子供をもうけていましたが、結局その2人も出家してしまったので、将軍家の血筋は絶えてしまいました。

つまり、足利義満の直系の子孫は途絶えてしまったことになります。

足利義満の血は絶えたが、足利氏の血は続いている

足利義満の直系の子孫は途絶えてしまいましたが、祖父の足利尊氏の子供で、将軍にならなかった子供など、足利家には枝分かれして続いていった子孫がたくさん存在しているのです。

代表的な例では、鎌倉公方になった足利基氏があげられます。
この足利基氏から始まるのが、関東足利家(喜連川家)です。
この関東足利家は現在まで続いています。

このように、義満の直系の子孫は途絶えてしまいましたが、足利義満と同じ血が流れている足利家の血は現在まで続いているというわけなのです。

足利義満と足利義政の関係は?

足利義満との対比としてよく紹介される将軍が、足利義政です。
この足利義政は、足利義満とはどのような関係なのでしょうか?
また、どうして比較されるのでしょうか?
ここでは、足利義満と足利義政の関係について簡単に解説していきます。

足利義満の孫が足利義政?

足利義政は、足利義教の子供です。足利義教は足利義満の子供ですので、足利義政は義満の孫ということになります。

足利義満の次に将軍になったのは、その子供の足利義持でした。
足利義持も自身の子供である足利義量に将軍職を譲ります。
つまり、足利義教は本来将軍になる予定ではなかったのです。
しかし、義量が将軍になってわずか2年、17歳で亡くなってしまいます。
将軍が不在となってしまったため、仕方なく義持が再び将軍代行をしていたのですが、跡継ぎを決めずにそのまま亡くなってしまいます。
その際、遺言として「次期将軍はくじ引きで決めること」と兄弟に言い残していきました。

そこで、くじ引きで選ばれたのが、出家していた足利義教です。
ここで義教が将軍になったことにより、足利義政にも将軍になるチャンスが転がってきたというわけですね。

足利義満は北山文化、足利義政は東山文化

足利義満と足利義政は、それぞれ室町時代を代表する文化を作り上げています。
足利義満は北山文化、足利義政は東山文化です。それぞれの特徴を見ていきましょう。

【北山文化】

  • 人物:足利義満
  • 時期:14世紀後半〜15世紀前半
  • 特徴:公家文化の影響をより強く受けた優美で華やかな文化
  • 建築物:金閣寺(鹿苑寺)
  • 流行ったもの:能(能楽)、狂言

【東山文化】

  • 人物:足利義政
  • 時期:15世紀後半
  • 特徴:北山文化を受け継ぎ、禅宗の影響を強く受けた簡素で洗練された深みのある文化
  • 建築物:銀閣寺(慈照寺)、枯山水
  • 流行ったもの:水墨画、大和絵、茶の湯、生花

比較してみると、派手な北山文化と地味な東山文化という感じで対極にあると思われがちですが、共通点もあります。
共通点としてあげられるのは、
どちらも公家文化と武家文化が融合し、そこに中国から伝わった禅宗の影響が入ってきた
という点です。

この2つの文化によって能や水墨画、茶の湯などが生まれ、現代まで続く日本の伝統文化の土台となったのです。

足利義政は足利義満に憧れていた?

足利義政は足利義満に憧れていたという話もあります。

足利義政が将軍になったのは、15歳のときのこと。
足利義満も10歳という若さで将軍になっていますし、どこかシンパシーのようなものを感じていたのかもしれません。

また、どんどん将軍の権威が落ちていっていた時代に足利義政は将軍になったので、
「将軍として大成功を収めた足利義満のようになりたい」
と考えたのは必然だったと言えるでしょう。

また、憧れていたが故に、足利義満の建てた金閣寺を真似て、銀閣寺を建てました。

しかし、銀閣寺が建てられた当初は、銀閣寺という名前で呼ばれておらず、慈照寺という名前で呼ばれていました。
後世の人々が金閣寺に対して銀閣寺と呼ぶようになったのです。

金閣寺は全体が金箔で覆われています。
それに真似て銀閣寺も銀箔を貼り付けたかったのではないかという話もありますが、足利義政はそのようなことをするつもりはなかったようです。

足利義政が目指していたのは、あくまで「わびさび」の心で、質素の中に風流を見出すことでした。
このような落ち着いた場所で、早々と隠居して足利義満のように裏から政治を動かしたいと考えていたのです。

足利義満の直系の子孫はいないが、足利の血は続いている

室町幕府の最盛期を築き上げた足利義満でしたが、その直系の子孫が残ることはありませんでした。

しかし、足利義満と同じ血が流れている足利家の血は、現在まで続いているということがわかりましたね。

今回の内容をまとめると、

  • 足利義満は、第2代将軍・足利義詮の息子として生まれた
  • 将軍職に就いたのは、わずか10歳のときだった
  • 足利義政は、義満の孫で、義満に憧れていた
  • 足利義満の祖先は清和天皇である
  • 足利義満の直系の子孫は途絶えてしまったが、足利家の血は現在まで続いている

室町幕府の将軍の子どもたちが、時代を追うに連れ次々に出家していったことをみると、いかに室町幕府の将軍の権威が落ちていっていたのかが伺えます。

将軍家がもっと栄えていたら、足利義満の子孫も現在まで残っていたのかもしれませんね。

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