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福沢諭吉の死因は何?最後の姿はどうだった?晩年はどう過ごした?

一万円の顔として長く親しまれてきた福沢諭吉。

福沢諭吉はその生涯の中で、学問のすゝめの出版や慶應義塾の設立、北里柴三郎への支援など、数々の功績を残しています。

そんな福沢諭吉の死因は何だったのか?最後の姿はどうだったのか?晩年はどう過ごしていたのか?について解説していきます。

福沢諭吉の死因は脳溢血?

福沢諭吉は実は何度か脳溢血で倒れています。そして福沢諭吉の死因も脳溢血です。

1899年(明治32年)9月26日、福沢諭吉は脳溢血で倒れています。

この時は約1時間、意識不明に陥りましたが回復を遂げました。

しかし、1901年(明治34年)1月25日、再び脳溢血で倒れ、2月3日に三田山上にあった自邸でそのまま帰らぬ人となってしまいました。享年68歳(満66歳)です。

福沢諭吉は2回目の脳溢血で死亡した

1899年(明治32年)9月26日に福沢諭吉は脳溢血で倒れましたが、日常生活に不自由ないほどに回復をとげました。

その翌年の1900年(明治33年)、福沢諭吉の弟子たちが編纂した「修身要領」を、三田で行われた演説会で発表しています。

さらに、この年の年末から翌年の幕明けにかけて慶應義塾生らと19世紀と20世紀の「世紀送迎会」を開催しました。

この「世紀送迎会」は風刺画などで19世紀を振り返り、20世紀の幕開けとともに風刺画に一斉射撃して点火、「二十センチュリー」という花火が夜空に浮かび上がるなど趣向を凝らしたものだったそうです。

病を患ってからも精力的に活動していた福沢諭吉ですが、1901年(明治34年)1月25日、再び脳溢血で倒れ、北里柴三郎ら医師団の懸命の治療を施すも、2月3日、三田山上にあった自邸でそのまま帰らぬ人となってしまいました。

福沢諭吉の死因は居合のしすぎ?

学門のイメージが強い福沢諭吉ですが、体を動かすことも得意でした。

幼いころから居合の稽古をしており、成人のころには立身新流居合の免許皆伝を得ています。

晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていたそうです。

その頻度はずば抜けており、諭吉は一日千本以上抜いて居合日記をつけるほどでした。

そのため、これほどの頻度では逆に健康を害すると分析されており、慶應義塾大学名誉教授で医学者の土屋雅春氏は、福沢諭吉の死因の一つに「居合のやりすぎ」を挙げています。

福沢諭吉の死因は、酒とタバコ?

あまりイメージはないかもしれませんが、実は福沢諭吉は幼いころからお酒が大好きでした。

それは、頭髪を剃りあげることを嫌がった福沢諭吉に対して、母親がお酒を飲むことを条件に剃り上げることを我慢させたほどだったとか。

福沢諭吉自身も
「私の悪いことを申せば、生来酒をたしなむというのが一大欠点」と自ら語っていたほどです。

また、「ビールは酒じゃない」として断酒中もビールは毎日飲んでいたというエピソードもあります。

適塾時代には大好きな酒を辞めようと思い禁酒しています。

それまではタバコ嫌いだった福沢諭吉でしたが、気を紛らわすために友人からすすめられ煙草を吸い始め、晩年まで吸い続けました。

結局お酒も我慢できず、飲み始めてしまっています。意外ですよね?

お酒やタバコも体に負担をかけていたのかもしれません。

福沢諭吉の最後の姿

福沢諭吉は、病に倒れてからもその歩みを止めませんでした。

1899年(明治32年)、福沢諭吉は脳溢血で倒れ、意識不明になったものの奇跡的に回復。

その翌年の1900年(明治33年)、諭吉の弟子たちが編纂した「修身要領」を三田で行われた演説会で発表するなど精力的に活動を続けました。

しかし、1901年(明治34年)1月25日に脳溢血を発症し、意識が戻らないまま2月3日死去しました。

福沢諭吉の葬儀の際は、三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人もの人が参列したそうです。

福沢諭吉が多くの人に慕われていたことがわかるエピソードです。

福沢諭吉は晩年をどう過ごしていた?

数々の功績を残した福沢諭吉は、どのような最期を迎えたのでしょうか。

福沢諭吉の晩年に迫ってみましょう。

福沢諭吉は晩年は健康に気を遣っていた

お酒を飲み、タバコも吸っていた福沢諭吉でしたが、一方で健康にも気を使っていたようです。

幼いころから続けていた居合は、健康のために晩年まで居合型の稽古を続けていました。

諭吉の自叙伝「福翁自伝」の中でも「兎に角身体は人間第一の宝」と述べており、健康を意識していたことがわかります。

ちなみに、明治に入り「健康」という言葉を盛んに使って広めたのは福沢諭吉と言われています。

福沢諭吉は、健康のために酒もタバコも減らしていた?

福沢諭吉は幼いころからお酒が大好きで、適塾時代にはかなり飲んだと言われています。

塾長になり、収入を得てもほとんどを酒の代に使い、さらにお金がないときには酒屋で三合か五合買ってきて塾の中で独りで飲むほどだったようです。

そんな福沢諭吉でしたが、晩年はお酒の量も減らしていました。

しかし、完全に禁酒することはできなかったようで、まず、朝の飲酒をやめ、次に昼の飲酒をやめたそうです。

それでも晩酌は辞めることができず、酒量がおちつくまで3年もかかったと言われています。

福沢諭吉はお酒の量を減らすことには成功していますが、タバコは生涯辞められなかったようです。

まとめ:福沢諭吉の死因は脳溢血。享年68歳

福沢諭吉といえば「学門」「慶應時塾大学」といった、どちらかとえいば堅いイメージを持たれがちです。

福沢諭吉といえば「学問」「慶應義塾大学」と言ったどちらかといえば、お堅いイメージですが、無類のお酒好き、タバコ好きなど親近感がわくエピソードもありました。

今回の記事をまとめると

  • 福沢諭吉は2回脳溢血を経験しており、2回目の脳溢血発症で死亡した。
  • 一説では福沢諭吉の死因は居合のしすぎと言われるほど、晩年になってからも居合を続けていた。
  • 福沢諭吉はお酒が大好きで、禁酒しようとしたものの、気を紛らわすために友人から勧められタバコを吸い始めた。
  • 福沢行きの葬儀には1万5,000人もの人が参列した。
  • 晩年は健康に気を使い、居合の稽古を続けていた。
  • 晩年はお酒の量を減らしていたが、タバコは生涯やめることはなかった。

男性の平均寿命が81歳の現代からすると、享年68歳だった福沢諭吉は若くして亡くなったように思えます。学門に励んでいた福沢諭吉が、「ビールは酒ではない」といって毎日飲んでいたというエピソードを聞くと親近感がわきますね。

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