新田義貞の伝説、稲村ヶ崎で起こったのは本当?鎌倉攻略の流れも併せて解説!

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新田義貞は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。

軍記物語「太平記」の中で、新田義貞は鎌倉幕府をわずか15日で滅ぼしたヒーローとして書かれています。新田義貞の祈りで稲村ケ崎の海の水が引いたことで、難攻不落の鎌倉に攻め入ることができたというのです。

この稲村ケ崎の伝説は本当に起こったことなのでしょうか?
今回は、新田義貞の稲村ヶ崎の伝説は本当なのか?どうやって鎌倉攻略をしたのか、流れについても解説していきます。

新田義貞の稲村ヶ崎での伝説とは?

新田義貞の稲村ケ崎での伝説とはどんなものなのか?簡単に解説していきます。

【新田義貞の稲村ケ崎での伝説】

1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の命により、新田義貞は鎌倉幕府討幕に向けて進軍を開始します。

そして、わずか10日後には鎌倉を取り囲み、仮粧坂・極楽寺坂・巨福呂坂という鎌倉の三つの切通に総攻撃をかけることに成功しました。

しかし、三方を山、一方を海に囲まれ、守りやすく攻められにくい地形にある鎌倉は、簡単には落とすことができませんでした。

そんな時、新田義貞が稲村ヶ崎で黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願をしました。

すると、潮が大きく引き、幕府の水軍が沖へと流され、新田義貞の軍は徒歩で岸壁沿いに鎌倉に攻め入ることが出来たのです。
これが決定打となり約150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのでした。

この稲村ヶ崎での伝説は、新田義貞の徒渉伝説としょうでんせつともいわれ、明治大正時代の尋常小学唱歌「鎌倉」の中にも、「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎名将の 剣投ぜし古戦場」と歌われています。

また、現代の稲村ヶ崎公園にもこの伝説を詠んだ明治天皇の歌碑
「なげ入れし つるぎの光あらはれて 千尋の海も陸となりぬる」
が建てられています。

【稲村ヶ崎はどんなところ?】

稲村ヶ崎は、鎌倉の海岸の由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける岬です。

名前の由来は、稲穂のような形をしているからと言われています。

由比ヶ浜は、三方を山に一方を海に囲まれている天然の要塞「鎌倉」の海の玄関口です。
ですから、鎌倉幕府を海側から攻め入るためには、必ず稲村ヶ崎を突破する必要があったのです。

稲村ヶ崎は、現在「かながわの景勝50選」のひとつに指定されており、天気がよければ南沖に伊豆大島が望見でき、西には七里ヶ浜・腰越・江ノ島が見渡すことができる絶景スポットです。

※アクセス

「鎌倉海浜公園 稲村ケ崎地区」
住所:〒248-0024 鎌倉市稲村ヶ崎1
最寄駅:江ノ電「稲村ヶ崎駅」または江ノ電バス「稲村ヶ崎」

太平記に記された「新田義貞の稲村ヶ崎伝説」

太平記に記された「新田義貞の稲村ヶ崎伝説」をご紹介します。

【太平記の「稲村ヶ崎伝説」部分の抜粋】

【太平記の「稲村ヶ崎伝説」部分の抜粋】

南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。
と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。
「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」

と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。

真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。

横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。

不思議と云も無類。

現代語で意訳すると、

南は稲村ヶ崎で、砂の上の路は狭く、波打ち際まで柵が設けられ、海上には大船が並べられ、側面から射ようと待ち構えています。これでは新田義貞の軍が敵陣突破できずに退却したのも無理もありません。

新田義貞は、馬から下り、兜を脱いで、稲村ヶ崎の砂浜の上に伏して竜神に向けて一心に祈り始めました。

『神話の最高神「天照大御神あまてらすおおみかみ」よ。子孫である後醍醐天皇のピンチにお力をお貸しください。

私は今、後醍醐天皇の臣として、世の中の平和のために大敵「北条氏」の討伐に向かおうとしています。

内海と外海を統べる龍神八部衆にお願いいたします。目の前に満ちる潮(うしお)をかなたへと遠ざけ、我が軍全軍が通れる道をどうぞ開いてください。』

祈り終わると、新田義貞は腰の黄金作りの太刀を抜き、海の中に投げ入れました。

龍神が受け入れてくれたのでしょうか。突然、稲村ヶ崎の潮が引いて干上がり、砂浜が広がっていったのです。

側面から射ようと待ち構えていた鎌倉幕府軍の船は、遥か沖へと潮に流されてしまっています。

ひどく不思議なことでありました。

新田義貞の稲村ヶ崎伝説を検証してみよう

「新田義貞の稲村ヶ崎伝説」は本当に神の力でおきた不思議な出来事だったのでしょうか?
新田義貞の稲村ヶ崎伝説を検証していこうと思います。

【新田義貞の稲村ヶ崎伝説の検証】

  • 新田義貞の稲村ヶ崎伝説は、潮の満ち引きを計算したものなのではないか?
  • 新田義貞の稲村ヶ崎伝説は実は起きておらず、ただ稲村ケ崎の崖を登っただけなのではないか?

新田義貞の稲村ヶ崎伝説は干潟を計算していただけ?

新田義貞の稲村ヶ崎伝説の正体は、潮の満ち引きによるものだったとの説が存在しています。

新田義貞は地元の漁師などから大干潮の時期をあらかじめ知っており、自軍の士気を高めるためにタイミングを合わせて海に祈ったというものです。

では、本当に大干潮の時は稲村ヶ崎の海上を、由比ヶ浜に徒歩で渡ることが出来るのでしょうか。

実証を試みた歴史家「大森金五郎」の記録が残されています。

大森金五郎は1902年(明治35年)8月4日午前9時40分の大干潮時に徒歩で渡るのに挑戦をしました。

大干潮時でも、太平記にかかれていたような砂浜はみることはできず、水の中を進むことになりました。
つまり、大森金五郎は稲村ヶ崎の崖から約40m離れた海中を、竿で水深を測る漁師を案内人に、歩いて渡ってみたとされています。

結果は、無事に徒歩で渡りきることができ、新田義貞の稲村ヶ崎伝説は大干潮によるものであるとの説を裏付けるものとなりました。
水深も、ほとんどの場所で膝下くらいしかなく、深い場所でも股下までだったとされています。

さらに、鎌倉時代の地球は小氷期だったとされていますので、海岸線は今より後退していたと考えられています。

つまり、新田義貞の時は、本当に砂浜が出現していた可能性があるのです。

新田義貞は稲村ヶ崎の崖を登っただけ?

新田義貞の稲村ヶ崎伝説は実は起きておらず、ただ稲村ケ崎の崖を登っただけなのではないかとの説が存在しています。

そもそも稲村ケ崎の干潮時に海側を廻って鎌倉突入したこと自体が創作であり、実際は現在の国道134号線沿いを陸路鎌倉入りしたのではないかという説です。

しかしながらこの説は、当時の状況を考えると無理があるのではと感じられます。

なぜならば、国道134号線が整備されるまでは、陸路で行くルートは非常に困難であったためです。

もしも陸路で新田義貞が鎌倉入りを果たすならば、寺川の作る谷戸に沿って奥へ進み、その次に狭くゆとりのない幅しかない極楽寺切通を抜けるルートしかありませんでした。このルートで新田義貞率いる大軍が進むのは厳しいものがあるでしょう。

地形図からみても、沿岸にも拘らず稲村ケ崎の崖上の標高は平均的に50m以上に達しています。
更にその下の沿岸には崖記号が連なっていますから、ここを海沿いに行くのは無理だったといえるのではないでしょうか。

新田義貞の鎌倉攻め

新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼすまでの流れに注目していきましょう。

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新田義貞は、鎌倉をどう攻略したのか?時系列で簡単に解説

新田義貞は、どのようにして鎌倉幕府を倒したのでしょうか。時系列で簡単にご紹介していきます。

【新田義貞の鎌倉攻略】

  • 1333年(元弘3年)5月8日「挙兵」
    後醍醐天皇から「打倒北条氏」の命を受け、新田荘生品神社(現在の群馬県)で挙兵します。
    挙兵時は150騎程でしたが、次第にその数を増していきます。
  • 5月11日「小手指原の戦いこてさしがはらのたたかい
    武蔵国入間郡小手指原(現在の埼玉県)で幕府軍と新田義貞軍が対峙します。
    この合戦の結果は引き分けに終わります。
    疲弊した両軍はどちらも一旦撤退をして、軍勢を立て直しました。
  • 1333年(元弘3年)5月12日「久米川の戦いくめがわのたたかい
    小手指原の戦いで一旦退却をした翌日の朝、新田義貞の軍勢は武蔵国久米川(現代の埼玉県)に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けました。これが、久米川の戦いです。
    奇襲自体は成功しませんでしたが、幕府軍を多摩川の分倍河原(現在の東京都)まで退却させることに成功します。
  • 1333年(元弘3年)5月15日~5月16日「分倍河原の戦いぶんばいがわらのたたかい
    新田義貞軍と鎌倉幕府軍が分倍河原(現在の東京都)で対峙します。
    小手指原・久米川の敗報を知った鎌倉幕府は、10万の軍勢を派遣し、分倍河原まで撤退していた幕府軍と合流します。
    新田義貞は増軍した敵に苦心したものの、幕府軍を打ち破ることに成功します。
    分倍河原の戦いで新田義貞が勝利したことで、関東各地から次々に援軍が加わり、60万もの大軍勢となって鎌倉に攻め入ることになりました。
  • 1333年(元弘3年)5月21日「稲村ヶ崎の伝説いなむらがさきのでんせつ
    新田義貞は大干潮に乗じて稲村ヶ崎を突破することで、天然の要塞「鎌倉」に攻め入ることに成功します。
    東勝寺の北条高時を攻め、鎌倉幕府を滅亡させる。
  • 1333年(元弘3年)5月22日「東勝寺合戦とうしょうじがっせん
    攻め込まれた幕府軍870名は、鎌倉にある菩提寺「東勝寺」に追い込まれます。
    最後は炎上する館の中で次々と自決し、鎌倉幕府は完全に消滅したのです。

新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させた?

鎌倉幕府を滅亡させたのは、新田義貞といってよいのでしょうか?

誰が鎌倉幕府を滅亡させたのかは、どこの部分に注目するかで異なってきます。

例えば、討幕の命をしたのは「後醍醐天皇」ですから、滅亡させたのは後醍醐天皇であるともいえます。

鎌倉幕府を支える「御恩と奉公」の制度が機能できなくした「元寇」といってもよいかもしれませんし、不満をかかえて新田義貞軍に加勢した御家人たちといってもよいかもしれません。

しかしながら、決め手となったのは、新田義貞の稲村ヶ崎伝説といってもよいでしょう。

まとめ:新田義貞の稲村ヶ崎伝説は、実は干潮を利用したものだった可能性が高い

新田義貞の稲村ヶ崎伝説は、干潮を利用したものだった可能性が高いことがわかりました。

今回の内容をまとめると、

  • 新田義貞は稲村ヶ崎で黄金の太刀を投げ入れて、砂浜を出現させる伝説を行った
  • 新田義貞の稲村ヶ崎伝説は、実は干潮を利用したものだった可能性が高い

自然の力を上手く利用して、士気を高めて攻め入ることができた新田義貞は名将だったのだなと感じました。

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