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平賀源内の子孫は現在まで続いてる?家系図で簡単に解説!実は男色家だった?

平賀源内(1728(享保13)〜1780(安永8))は、江戸時代中期に活躍した発明家です。

平賀源内は発明家としての一面だけではなく、本草学者、蘭学者、地質学者、医者、殖産事業家、戯作者、俳人、浄瑠璃作者など様々な場で活躍していました。

そんな平賀源内の子孫は現在まで続いているのでしょうか?

この記事では、平賀源内の子孫について、家系図を見ながら簡単に解説していきます。

平賀源内の家系図をわかりやすく解説!

平賀源内の家系図

平賀源内の家族構成は?

【平賀源内のプロフィール】

平賀源内(ひらがげんない)1728年(享保13年)〜1780年(安永8年):享年52歳

出身地:讃岐国寒川郡(現在の香川県さぬき市)

父:白石茂左衛門/母:山下氏の娘

平賀源内は、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)にて、白石茂左衛門と山下氏の娘の間に生まれました。

9人兄弟の三男として生まれましたが、他の兄弟についてはあまり詳しい記録は残っていません。

平賀源内の生まれた白石家は、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)でしたが、1536年(天文5年)に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、一度滅ぼされてしまいます。

そこで生き残った平賀氏が、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めさらに、伊予宇和島藩に従い四国に下り、讃岐にて帰農したのです。

兄が夭折していたため、平賀源内は父の死と共に、家督を継ぐことになります。

その際に、姓を白石から平賀に復姓しました。

また、平賀源内は、生涯結婚することはなく、独身で子供もできませんでした。

平賀源内は妹の婿に家督を譲った?

平賀源内は父の死と共に、家督を相続しましたが、すぐに妹の婿に家督を譲ってしまっています。

平賀源内は、父が亡くなると、その後役として藩の蔵番となり、その働きぶりが認められ、長崎への遊学が認められました。

長崎での遊学中、平賀源内はオランダ語や医学など様々なことを学びましたが、その最中に気になることがありました。
それは、長崎の人々が外国製品を不当な価格で購入していたことです。

高価な外国製品を購入する光景を見た平賀源内は、次第に日本でも同じような製品が作れるのではないかと考え始めます。

考えたのはいいものの、それを実践するためには圧倒的に知識が足りません。

そこで、平賀源内は知識をつけるために江戸へと向かうのです。

その際に、家のことはできないとし、妹の婿で従兄弟の権太夫に家督を譲りました。

平賀源内の子孫は現在まで続いている?

平賀源内はその生涯を発明や創作などに費やしました。

そんな平賀源内に恋愛をしている暇などあったのでしょうか?
また、子孫を残していたのでしょうか?
ここでは、平賀源内の子孫について簡単に解説していきます。

平賀源内の子孫は途絶えてしまった?

平賀源内は、その生涯を発明や創作などに費やしました。

自身のやりたいことに身を捧げていたわけですね。

そんな中、恋愛をしているような暇はあまりなかったのでしょう。

平賀源内は、生涯結婚することはなく、独身でした。

そのため、子供もおらず、平賀源内の子孫は途絶えてしまったということになります。

平賀源内は男色だった?

平賀源内が結婚しなかったのは、自身のやりたいことがたくさんあって忙しかったというのが一番の大きな理由でしょう。

しかし、その他の理由もあります。

それは、平賀源内が男色だったということです。

平賀源内の友人であった杉田玄白らは、しきりに妻を娶って所帯を持つことを勧めました。

しかし、平賀源内は

「四海皆女房なりと悟れば寝覚めも淋しからず」

などとうそぶいて、煙に巻きました。

何故そんなことをしたかというと、大の美少年、美青年好きだったからです。

平賀源内の男色は有名で、自身で『男色細見』という詳細な陰間茶屋(男娼がいるお店)ガイドブックを著している程です。

そこには、名前入りで葭町67人、湯島天神42人、京宮川85人、大坂道頓堀49人…というふうに調べ上げており、相当入れあげていたことが伺えます。

また、歌舞伎役者を特に贔屓していたとされ、中でも大人気の女形の役者である二代目瀬川菊之丞とは親しい仲であったと言われています。

そのため、平賀源内は女性に興味がなかったのかもしれません。

平賀家の血筋は現在まで続いている?

平賀源内の子孫は途絶えてしまいましたが、平賀源内の出身である平賀家の血筋は現在まで続いています。

それは、平賀源内の妹・里与の系譜です。

平賀源内から家督を継いだ里与夫妻は、子孫を残し、現在では7代まで続いています。

現当主は平賀一善さんで、平賀源内の出身地である香川県で開催されているイベントに、度々出席されているようです。

平賀源内の最後の姿は死因は何だった?

平賀源内は子孫を残すことなく亡くなってしまいました。

ここでは、平賀源内の最後の姿や死因について簡単に解説していきます。

平賀源内の死因は?

平賀源内は、1779年に小伝馬の牢獄に投獄され、その獄中で亡くなりました。

死因は、その衛生状態の悪い獄中で破傷風になってしまったこととされています。

一説には、投獄されたことを恥じた平賀源内が、一切食事を摂らなかったことによる衰弱死とも言われています。

さらに、ここで生き延びて、田沼意次の保護下で天寿を全うしたという説まであります。

こうした異説が出たのは、平賀源内の遺体が葬儀でなかったことに由来します。

いずれにせよ、稀代の天才の最後は、誰にも見送ってもらえない寂しいものだったようですね。

平賀源内は獄中で亡くなった?

平賀源内は獄中で亡くなりました。それでは、そもそも何故投獄されることになったのでしょうか?

それは、安永8年の夏のことです。

この頃になると、平賀源内は大名屋敷の修理を請け負うようになりました。

その修理の請け負いを共に行う大工の棟梁2人と酒を交わした夜、平賀源内は懐に入れた修理計画書がなくなっていることに気付きます。

すると、酒に酔っていた平賀源内は、棟梁が計画書を盗んだとして、なんと棟梁2人を斬り殺してしまうのです。

しかし、その書類は後日見つかり、平賀源内は勘違いで人を殺してしまったということになりました。

この事件により、平賀源内は殺人犯となり、投獄されることになってしまったというわけですね。

平賀源内の墓所はどこにある?生祠も?

平賀源内の墓所は2ヶ所存在しています。

1ヶ所目は、浅草橋場にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も、墓所はそのまま橋場の旧地に残されています。

ここには平賀源内の友人であった杉田玄白が建てた碑が墓の隣にあります。

その碑には以下のようなことが書かれています。

「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」

現代語訳:あなたは常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする。どうして死に様まで常識とは違ってしまったのか

ここから、杉田玄白が本当に平賀源内の死を残念がっていたということが伺えますね。

こちらは、国の史跡に指定されています。

2ヶ所目は、故郷・さぬき市にある自性院にあります。

この自性院は、平賀家の菩提寺で、平賀家を継いだ妹の婿養子・権太夫が、平賀源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために墓を建てたと言われています。

また、平賀源内には、生祠もあります。

生祠とは、生存中の人の徳を慕って、神として祀った祠のことです。

それは、広島県にあります。平賀源内は諸国を遍歴している際、広島の鞆の津に寄りました。そこの溝川家所有地で陶土を発見し、鞆の津に陶器造りを伝授したのです。

この源内焼の製法を伝えた際に、

平賀源内は

「土の神、かまどの神、平賀源内大明神を三宝荒神として祀るように」

と言い残して去っていったと言われています。

そのため、溝川家が、生祠を建てたのでした。

【平賀源内のお墓】

・平賀源内墓

住所:東京都台東区橋場2-22-2

平賀源内墓(自性院内)

住所:香川県さぬき市志度1105

年中無休

平賀源内生祠

住所:広島県福山市鞆町1458

まとめ:平賀源内の子孫は途絶えてしまったが、平賀家の血筋は現在まで続いている

平賀源内はその生涯を発明や創作に費やしていたため、恋愛しているような暇はなく、さらに男色であったため、結婚することはありませんでした。

そのため、子供はおらず、子孫はいません。しかし、平賀家の血筋は妹のおかげで現在まで続いています。

今回の内容をまとめると、

  • 平賀源内は父の死後家督を継ぐものの、自分のやりたいことを叶えるために妹の婿養子に家督を譲った
  • 自身は結婚することはなく、子孫は途絶えてしまった
  • 平賀家の血筋は、妹の系譜が現在でも残っている

平賀源内は各方面でその才能を開花させ活躍していました。

しかし、いつの時代でも天才すぎる人というのは、一般人の理解を得られ難いものです。

そのため、平賀源内が結婚しなかったのは、彼のことを理解して側で支えようとする人があまりいなかったというのも原因の1つなのかもしれませんね。

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