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平賀源内の死因は?お墓はどこにある?辞世の句や最期の姿などを簡単に解説!

平賀源内(1728(享保13)〜1780(安永8))は、江戸時代中期に活躍した発明家です。

平賀源内は発明家としての一面だけではなく、本草学者、蘭学者、地質学者、医者、殖産事業家、戯作者、俳人、浄瑠璃作者など様々な場で活躍していました。
そんな平賀源内はどのようにして亡くなったのでしょうか?

この記事では、平賀源内の死因や最期の姿などを簡単に解説していきます。

平賀源内の死因は?

平賀源内はその生涯を発明や創作に費やしました。

それでは、そんな平賀源内はどのような最後を迎えたのでしょうか?
ここでは、平賀源内の死因について簡単に解説していきます。

平賀源内の死因は破傷風?

平賀源内は、1779年に小伝馬の牢獄に投獄され、その獄中で亡くなりました。

死因は、その衛生状態の悪い獄中で、破傷風になってしまったこととされています。

また、一説には、投獄されたことを恥じた平賀源内が、一切食事を摂らなかったことによる衰弱死とも言われています。

さらに、ここで生き延びて、田沼意次の保護下で天寿を全うしたという説まであります。

こうした異説が出たのは、平賀源内の遺体が葬儀でなかったことに由来します。

いずれにせよ、稀代の天才の最後は、誰にも見送ってもらえない寂しいものだったようですね。

平賀源内の子孫は現在まで続いている?

平賀源内は、その生涯を発明や創作に費やしました。

そのため、恋愛している暇がなかったのか、平賀源内のような天才を理解してくれるパートナーが現れなかったのか、理由は明確にわかっていませんが、結婚をせず、生涯独身でした。

そのため、子供はおらず、平賀源内の子孫は途絶えてしまいました。

しかし、平賀源内の子孫は途絶えてしまいましたが、平賀源内の出身である平賀家の血筋は現在まで続いています。それは、平賀源内の妹・里与の系譜です。

平賀源内から家督を継いだ里与夫妻は、子孫を残し、現在では7代まで続いています。

現当主は平賀一善さんで、平賀源内の出身地である香川県で開催されているイベントに、度々出席されているようです。

\ 平賀源内の子孫については、こちらの記事でも詳しく解説しております /

平賀源内の最期の姿は?

平賀源内は獄中にて亡くなったとお伝えしましたが、そもそも何故投獄されることになってしまったのでしょうか?

ここでは、平賀源内の最期の姿について簡単に解説していきます。

平賀源内は死ぬ直前に投獄された?

平賀源内は獄中で亡くなりました。

安永8年の夏。

この頃、平賀源内は大名屋敷の修理を請け負うようになっていました。

その修理の請け負いを共に行う大工の棟梁2人と酒を交わした夜、平賀源内は懐に入れた修理計画書がなくなっていることに気付きます。

すると、酒に酔っていた平賀源内は、棟梁が計画書を盗んだとして、なんと棟梁2人を斬り殺してしまうのです。

しかし、その書類は後日見つかり、平賀源内は勘違いで人を殺してしまったということになりました。

この事件により、平賀源内は殺人犯となり、投獄されることになってしまったというわけですね。

平賀源内は何故人間不信になってしまったのか?

平賀源内は勘違いで人を斬り殺してしまい投獄されることになってしまいましたが、普通少し人を疑ったくらいで殺しまでやるでしょうか?

これには、平賀源内が人間不信に陥っていたことが関係してきています。

平賀源内といえば、「エレキテル」の復元が有名です。

当時の人々からしてみれば、電気を起こせるということは、奇跡の技のようなものに見えたに違いありません。しかし、最初こそ目新しさに興味を持っていた人々も、一瞬パチっと光るだけの装置に段々と飽きていきます。

そして、次第に平賀源内をペテン師扱いし、冷ややかな眼差しを向け始めるのです。

このことに対し、平賀源内は『放屁論』にて、

「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。……いっそエレキテルをヘレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」

と語っています。

このように、平賀源内は周りの評価に疲れてしまっているわけです。

ここにさらに追い打ちをかけるように、使用人の職人にエレキテルの作り方を横取りされてしまいます。

こうして、平賀源内は「誰もわかってくれない」「誰も信用できない」となってしまい、人間不信に陥ってしまっていたのです。

平賀源内の辞世の句は?

【平賀源内の辞世の句】

「乾坤の 手を縮めたる 氷かな」

現代語訳:天地の氷のような冷たさに手を縮めた

これは、平賀源内が獄中にて辞世の句として詠った句です。

世の人々に絶望し、過ちを犯してしまった自分にも絶望し、破傷風に罹ってしまった最後。

平賀源内の嘆きが聞こえてくるような辞世の句ですね。

平賀源内のお墓はどこにある?

平賀源内は、最後に罪人として亡くなることになってしまいました。

罪人であった平賀源内に、きちんとしたお墓はあるのでしょうか?

ここでは、平賀源内のお墓について簡単に解説していきます。

平賀源内のお墓は2ヶ所存在する?

平賀源内の墓所は2ヶ所存在しています。

1ヶ所目は、浅草橋場にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も、墓所はそのまま橋場の旧地に残されています。

こちらは、国の史跡に指定されています。

平賀源内墓

住所:東京都台東区橋場2-22-2

2ヶ所目は、故郷・さぬき市にある自性院にあります。

この自性院は、平賀家の菩提寺で、平賀家を継いだ妹の婿養子・権太夫が、平賀源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために墓を建てたと言われています。

平賀源内墓(自性院内)

住所:香川県さぬき市志度1105

年中無休

平賀源内のお墓の隣には杉田玄白が残した碑がある?

先程お伝えした浅草橋にある平賀源内のお墓の隣には、友人であった杉田玄白が建てた碑があります。その碑には以下のようなことが書かれています。

「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」

現代語訳:あなたは常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする。どうして死に様まで常識とは違ってしまったのか

ここから、いかに杉田玄白が平賀源内の死を残念がっていたかということが伺えますね。

まとめ:平賀源内は獄中にて破傷風にかかり亡くなった

平賀源内は、勘違いにより殺人を犯してしまい、投獄され、最後は獄中にて破傷風にかかり亡くなりました。結婚もしていなかったので、子孫が残ることも有りませんでした。

今回の内容をまとめると、

  • 平賀源内は発明や創作などで江戸にて活躍していた
  • 晩年は大工仕事などを請け負っていたが、ある勘違いにより殺人を犯してしまい投獄された
  • 平賀源内の最後は、獄中にて破傷風にかかり亡くなった

どれだけ有名で人気があったとしても、たった一回の過ちで投獄され、寂しい最後を迎えることになってしまいました。その過ちさえなければ、もっと立派なお墓が建つなどしていたのかと考えると残念でなりません。

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