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平賀源内の発明品一覧!エレキテルだけではない?日本初の発明品も多数ある?

平賀源内(1728(享保13)〜1780(安永8))は、江戸時代中期に活躍した発明家です。
平賀源内は発明家としての一面だけではなく、本草学者、蘭学者、地質学者、医者、殖産事業家、戯作者、俳人、浄瑠璃作者など様々な場で活躍していました。

平賀源内は、生涯で100種にも及ぶ発明品を生み出したと言われています。
どんな発明品があったのでしょうか?
この記事では、平賀源内の発明品について簡単に解説していきます。

平賀源内の発明品はエレキテルが有名?

平賀源内の発明品と言えば、エレキテルを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
しかし、実は平賀源内は、エレキテルの修復に成功しただけなのです。

それでは、なぜそれがここまで有名になったのでしょうか?

ここでは、平賀源内がエレキテルを修復した経緯などについて簡単に解説していきます。

平賀源内が発明したエレキテルとは?

エレキテルとは、摩擦起電器(静電気発生装置)のことです。

元々オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていました。エレキテルという名称は、オランダ語の「elektricteit」がなまったところからきたと言われています。ちなみに、平賀源内はエレキテルのことを「ゐれきせゑりていと」と記していたそうです。

そんなエレキテルは、江戸時代になって日本に持ち込まれます。
1751年に、オランダ人が幕府に献上したという文献が残っています。
また、1756年には、後藤利春の『紅毛談(おらんだばなし)』でもエレキテルが紹介されていました。

平賀源内は、この『紅毛談』を読みエレキテルに興味を持ち、長崎滞在中に、エレキテルを古道具屋で入手したのです。(入手経路にはオランダ通詞の西善三郎からという説もある)

しかし、この平賀源内が入手したエレキテルは壊れていました。

後に判明することなのですが、オランダ製のエレキテルが日本に来て壊れてしまうのは、日本独自の多湿環境が原因だったようです。
このことに気付くには、さすがの平賀源内も当時はまだ電気の知識に乏しく、数年かかってしまいました。

静電気の原理を数年かけて把握した平賀源内は、1771年についにエレキテルの修復に成功します。

そして、当時の奉行所に、

「長崎逗留の折、エレキテルと言う硝子を以て天火を呼び、病を治す器物を入手し、帰府の後7年の工夫にて成就した」

という書類を提出しました。

日本よりも科学技術が進んでいた西洋でも、まだ電気についての研究は手探りの状態だったのですが、そんな中、平賀源内は自分の力でエレキテルを修復したのです。

これは、当時の日本ではものすごく画期的なことでした。

平賀源内はエレキテルを修理したせいで人間不信に?

平賀源内はエレキテルを修理したせいで、なんと人間不信に陥ってしまいます。
当時の日本の人々からしてみれば、電気を起こせるということは、奇跡の技のようなものに見えたに違いありません。

しかし、最初こそ目新しさに興味を持っていた人々も、一瞬パチっと光るだけの装置に段々と飽きていきます。

そして、次第に平賀源内をペテン師扱いし、冷ややかな眼差しを向け始めるのです。

このことに対し、平賀源内は『放屁論』にて、

「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。……いっそエレキテルをヘレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」

と語っています。

このように、平賀源内は周りの評価に疲れてしまっているわけです。

ここにさらに追い打ちをかけるように、使用人の職人にエレキテルの作り方を横取りされてしまいます。

こうして、平賀源内は「誰もわかってくれない」「誰も信用できない」となってしまい、人間不信に陥ってしまったのです。

平賀源内の発明品は100種にも及ぶ?一部を簡単に紹介

平賀源内の発明品はその生涯で100種にも及ぶとも言われています。

中には日本初の発明品も多数存在しているのです。
ここでは、その平賀源内の発明品の一部を簡単に解説していきます。

平賀源内の発明品一覧

  • 「御神酒天神」掛軸
  • 量呈器
  • 寒暖計
  • 磁針器
  • 平線儀
  • 火浣布
  • 国倫織
  • 源内焼
  • 金唐革

平賀源内の発明品:「御神酒天神」掛軸

平賀源内の発明の才能は少年時代から発揮されていました。

その代表的なものが、「御神酒天神」掛軸です。

これは平賀源内が11歳のときに作られたそうです。

この掛軸には特殊な仕掛けがしてあります。

顔の部分を透明にしてあり、背後に赤色と肌色を上下に塗った紙をスライドさせて、天神様が酒を飲んで赤くなったとできるような仕掛けです。

このように、色々なカラクリや工夫をして人々を驚かせていたので、平賀源内は「天狗小僧」と呼ばれていました。

平賀源内の発明品:日本初の量程器(万歩計)

量程器は平賀源内が日本で初めて作った距離を量る器具で、現在の万歩計の元とされています。

しかし、この量程器は歩数を計るのではなく、距離を測るための装置でした。

長径6.2cm、短径5.2cm、厚さ1.3cmの楕円形の器で、表面には距離を表す目盛りがあります。これは、10里まで測れました。

平賀源内の発明品:寒暖計

寒暖計も、平賀源内が日本で初めて作った温度を測る装置です。

「タルモメイトル」とも呼ばれていたそうですが、元はオランダで作られていたものでした。

オランダ製の寒暖計を見た平賀源内は、「原理はすぐに分かったから簡単に作れる」と言って、1768年(明和5年)に作り出しました。

オランダ人でも数十年かけて作ったところを、たった一度見ただけで仕組みを理解したのですから、平賀源内の天才ぶりが伺えますね。

平賀源内の発明品:磁針器

磁針器は、方角を知るための装置で、現在で言うところの羅針盤です。

平賀源内は、これを藩の重臣・木村季明(後の家老)に送ったと言われています。

平賀源内の発明品:平線儀

平線儀は、水平を出す道具です。

これを発明したのは、平賀源内が36歳のときでした。

平賀源内の発明品:燃えない布「火浣布(かかんぷ)」

火浣布は、今で言うアスベスト布です。

「火で浣える布だから、火浣布。開闢以来の大発明だ!」

と平賀源内は得意満面で、オランダ商館長や将軍、幕府のお偉方にサンプルを送りつけました。

しかし、人々は一瞬興味を示しただけで、すぐに忘れ去ってしまいました。

それはなぜかと言うと、平賀源内が発明した火浣布は、10cm四方で折りたたむことができませんでした。そのため、実用向きではなかったのです。

また、40年程経った頃、肺がんや中皮腫などの病気を引き起こす確率が高いとされ、使用が制限されるようになってしまいました。

このように、せっかく発明したものがあまり日の目を見なかったことは多々有りました。

平賀源内の発明品:日本初の国産毛織物「国倫織」

平賀源内は、あるとき
「日本の毛織物はすべて輸入に頼り切っている。そんなことではいけない。国内で自給自足できる体制を作らなければ」
と考えます。

そこで何をしたかと言うと、羊の飼育を始めるのです。

手に入れた四頭の羊を志度の妹夫婦のもとに送って飼育させ、その羊たちから羅紗を取ることに成功します。これに「国倫織」と名付けたのでした。

平賀源内の発明品:オリジナル陶器「源内焼」

平賀源内は、オランダ・中国の商人から高値で日本人が陶器を買っているところを見て、陶器を日本独自に作ったらどうだろうかと考えます。

平賀源内は長崎遊学の際に、オランダの新しい釉薬の技術を学んでいました。

その技術を用いて、ふるさと・志度の産業を振興させるため、新しい三彩軟陶質のやきものを指導します。

また、江戸で親しかった浮世絵師の鈴木春信の工房で木型を作らせ、それを志度に送って焼かせたと言われています。

源内焼は、このように型起こしによって制作されていたので、同笵の作品が多く見られるようです。

平賀源内の発明品:金唐革紙

金唐革は、江戸時代に海外から日本に渡ってきた美しい装飾用革のことです。

革をなめし、凹凸をつけ、合金の箔を押し、模様をプレスしていました。

ヨーロッパでは、宮殿や邸宅の壁を彩っていたようです。

日本でも高級品として幕府へ献上され、その後は一般にも広がり、煙草入れや刀の鞘、馬の鞍などに使われていました。

しかし、この時点では非常に高価なもので、誰にでも手が出せるようなものでは有りませんでした。そこでもっと手軽に、大衆向けにと立ち上がったのが平賀源内です。

平賀源内は紙で作る金唐革、「金唐革紙」を発明します。そして、その金唐革紙は次第に和紙で作られるようになっていき、今度は逆にヨーロッパへと輸出されるほどになったそうです。

まとめ:平賀源内の発明品はどれも画期的で、各方面に大きな影響を残した

平賀源内は、その生涯で100種にも及ぶ発明品を生み出しました。そのどれもが画期的で、各方面に大きな影響を残します。しかし、あまりにも画期的すぎて、なかなか人々に受け入れられなかったというものも多数あったようです。

今回の内容をまとめると、

  • 平賀源内は少年時代からカラクリや工夫をして人々を驚かせていた
  • 少年時代のあだ名は「天狗小僧」だった
  • その生涯で生み出した発明品は100種にも及ぶ
  • あまりにも画期的な発明はなかなか人々に受け入れてもらえなかった
  • 次第に平賀源内は人間不信へと陥っていった

様々な技術や知識が乏しい中、100種にも及ぶ発明品を作り出した平賀源内は、やはり天才なのでしょう。しかし、これだけ発明などに時間を費やしていたら、恋人を作る暇などできるわけもなく、平賀源内が生涯結婚しなかったのも納得できてしまうような気がします。

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