卑弥呼の時代は弥生時代?邪馬台国ではどんな生活していた?簡単に解説!
卑弥呼(出年不明〜247年)は、弥生時代に活躍していた日本の女王です。
『魏志倭人伝』などの古代中国の史書では、「倭国の女王」と称されていました。
卑弥呼は「鬼道」と呼ばれるまじないを使って、クニを治めていたと言われています。
そんな卑弥呼が活躍していたのは何時代だったのでしょうか?
また、その時代では、どのような生活をしていたのでしょうか?
この記事では、卑弥呼の時代について簡単に解説していきます。
目次
卑弥呼の時代はいつ?
卑弥呼が活躍していたのは、邪馬台国という場所だったと言われています。
この邪馬台国があり、卑弥呼が活躍していたというのは、いつの時代なのでしょうか?
ここでは、卑弥呼の時代について簡単に解説していきます。
卑弥呼の時代は弥生時代後半?
卑弥呼が活躍していた時代は、弥生時代の後半だと言われています。
弥生時代とは、縄文時代に続く、紀元前3世紀頃から紀元後3世紀頃までの約600年間を指します。
この時代に稲作などが始まったことにより、人々の定住化が進みました。
その結果、各地に原始的な小国家が誕生していくのです。
その中の1つが邪馬台国であり、卑弥呼が活躍していた場所でもあるのです。
卑弥呼の時代は『魏志倭人伝』に書かれている?
日本の弥生時代では、実は国内の歴史書が存在していません。
なぜなら、当時の日本には文字というものがなかったと言われているからです。
日本で漢字などの文字が本格的に使用されるようになったのは、6世紀の頃であり、まだまだ先のことなのです。
それでは、なぜ卑弥呼の存在が確認できたのでしょうか?
それは、中国の歴史書に出てきたのです。
中国の歴史書『三国志』の『魏志』にある東夷伝の倭人の条、通称『魏志倭人伝』に、当時の日本に関する記録が記載されていました。
その日本に関する記述は、たったの2000字程度の漢文なのですが、当時を知る史料として非常に重要なものです。
弥生時代の生活はどうだった?
卑弥呼の時代は、弥生時代後半だといわれています。
弥生時代では、どのような生活をしていたのでしょうか?
ここでは、弥生時代の生活について簡単に解説していきます。
弥生時代の建物は?
弥生時代の建物は、主に2つに分かれます。
1つは、住居として使用されていた「竪穴式住居」。
もう1つは、倉庫として使用されていた「掘立柱建物」です。
このうち掘立柱建物は、床を作る「高床建物」と、床は作らず土間とする「平地式建物」に細かく分かれます。
また、この一般的に使用されていた建物とは別に、祭祀的な性格を備えた大規模な建物も地域の中心的な集落には存在していたと言われています。
弥生時代の食生活は?
弥生時代以前の日本人は、狩猟採集が主でした。
弥生時代になると、稲作が本格的に始まり、その他にも小麦・アワ・ヒエ・小豆なども栽培されるようになります。
そのため、主食が米などの穀物になりました。
これらの主食は、主に甕などで煮たり蒸したりされていたようです。
その他の副菜としては、シカ・イノシシ・アワビ・カキ・マダイ・マグロ・カモ・キジなどを食べていたことが、貝塚から出土した骨などから判明しています。
さらに、この当時すでに酒があったことも判明しています。
当時の酒は、米などの穀物を噛んでそれを甕などに入れて発酵させたものだったようです。
ちなみに、『魏志倭人伝』には、日本の食生活について、
- 倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる
- 飲食には高坏を用い、手づかみで食べる
- 人々は生来酒が好きである
以上のように書かれていました。
弥生時代の服装は?
『魏志倭人伝』には、弥生時代の人々の服装についても記されています。
- 男子は成人も子供もみな刺青をしている
- 男子は冠を被らず木綿の布で頭を巻き、衣は幅広い布をただ結び重ねるだけで、縫うことはない
- 婦人は髪を結ったりおさげにし、衣は単衣のようにし、真中に穴を開けて頭を通して着るだけである
- 人々ははだしである
以上のような記述から、弥生時代の衣服として考えられているのが、布の真中に穴を開けて、ここに頭を通して着る「貫頭衣」です。
ちなみに、この貫頭衣は、現在でも東南アジアの稲作民族などが日常着として使用しています。
卑弥呼の時代は大陸と交流していた?
日本では、古代から大陸と交流をすることによって、新たな文化などを獲得してきたという歴史があります。
それでは、卑弥呼の時代も大陸と交流をしていたのでしょうか?
ここでは、卑弥呼の時代の大陸との交流を簡単に解説していきます。
卑弥呼の時代の大陸情勢は?三国志の時代?
卑弥呼の時代、大陸では、魏・呉・蜀の三国が覇権を巡って争う、いわゆる「三国志」の時代でした。
もともと、日本では、朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡を経由して中国の王朝に使者を送っていたのですが、三国志の時代になるとその辺りが公孫氏に支配されてしまい、一時的に中国に使者を送ることが難しくなってしまいます。
しかし、魏が公孫氏と戦い、楽浪郡や帯方郡を支配下に置くと、卑弥呼はすぐさまそこに使者を送り込みます。
当時、最も勢いがあったとされる魏と交流を図ろうとしたわけですね。
卑弥呼は魏と交流を図った?
卑弥呼は、魏と交流を図ったわけですが、なぜわざわざ大変な航海をしてまで接触しようとしたのでしょうか?
卑弥呼の狙いは、大国の王に認められることにより、国内での地位を盤石なものにすることでした。
卑弥呼率いる連合国は、当時南の狗奴国と長い対立関係にありました。
そのため、魏という大きな勢力をバックにつけることで優位に立とうとしたわけですね。
魏も、近隣の国々が対立国である呉と手を組まれては困りますから、倭からの使者を歓迎します。
そして、卑弥呼には「親魏倭王」の証となる金印紫綬を授け、貢物の返礼品として銅鏡100枚を贈るなどして、魏は卑弥呼のクニの味方となることを約束したのでした。
なお、文献資料がないため、狗奴国との戦いがどうなったのかはわかっていません。
まとめ:卑弥呼の時代は弥生時代後半で『魏志倭人伝』に記されていた
卑弥呼の時代は、弥生時代の後半でした。しかし、この時代の日本では、まだ文字が普及しておらず、国内の史書はありません。卑弥呼のことや、この時代の人々のことは、中国の史書『魏志倭人伝』に記されていました。
今回の内容をまとめると、
- 卑弥呼の時代は弥生時代後半
- 卑弥呼の時代、弥生時代には日本の史書はない
- 卑弥呼がいたとされているこの時代のことは、中国の史書『魏志倭人伝』に記されていた
- 卑弥呼の時代は、魏という国と交流をしていた
『魏志倭人伝』に記されていた日本に関する記載は、たったの2000字の漢文でした。
そこに発掘調査などでモノの史料が出てきて、真実味が増したわけです。
それでも、まだまだこの時代は謎が多いです。
その謎について考えるのもロマンがあっていいかもしれませんね。