北条政子の年表|どんな人?功績は?尼将軍と呼ばれたその生涯を簡単に解説!

北条政子の年表|どんな人?功績は?尼将軍と呼ばれたその生涯を簡単に解説!

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北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻として有名です。
源頼朝が亡くなった後も鎌倉幕府を支え、尼将軍とも呼ばれていました。

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが北条政子役を演じることが発表されています。

尼将軍と呼ばれていた、北条政子はどんな人物だったのでしょうか?
今回は、北条政子の年表を見ながら、北条政子はどんな人だったのか?どんな功績を残したのか?その生涯を見ていきましょう。

北条政子の年表を簡単に解説

北条政子の生涯を年表で簡単に解説していきます。
※年齢は「かぞえ」の年で記しています。

【北条政子の年表】

・1157年(保元2年)(1歳)
 伊豆国(現代の静岡県)の豪族である北条時政の長女として誕生

・1177年頃(治承元年頃)(21歳)
 流人であった源頼朝と周囲の反対を押し切って結婚
 長女の大姫を出産

・1180年(治承4年)(23歳)
 源頼朝と共に鎌倉に入り居を定める
 源頼朝は「鎌倉殿」、北条政子は「御台所」と呼ばれる

・1182年(寿永元年)(26歳)
 長男の源頼家を出産

・1186年(文治2年)(30歳)
 次女の乙姫を出産

・1192年(建久3年)(36歳)
 源頼朝が征夷大将軍となる
 次男の源実朝を出産

・1199年(建久10年)(43歳)
 源頼朝が急死し、源頼家が2代将軍に就任
 北条政子は出家して尼になり、「尼御台」と呼ばれるようになる

・1203年(建仁3年)(47歳)
 源頼家から将軍職を奪い、伊豆の修善寺に幽閉
 源実朝が3代将軍に就任し、北条政子の父の北条時政が執権に就任

・1219年(建保7年)(63歳)
 源実朝が、源頼家の息子に暗殺される
 源頼朝の直系が絶えたため、京都出身の藤原頼経を4代将軍にする
 北条政子は後見人となり、「尼将軍」と呼ばれるようになる

・1221年(承久3年)(65歳)
 朝廷と幕府とが対立する「承久の変」が起こる
 北条政子の演説により御家人が奮起し、幕府側が朝廷に勝利

・1225年(嘉禄元年)(69歳)
 病の床につき、死去

北条政子はどんな人?

北条政子ほうじょうまさこ:1157年(保元2年)〜1225年8月16日(嘉禄元年7月11日)享年69歳

・父:北条時政ほうじょうときまさ

・母:実母不明。義母として牧の方まきのかた

・夫:源頼朝みなもとのよりとも

・子供:大姫・源頼家みなもとのよりいえ・乙姫・源実朝みなもとのさねとも

・性格:他人を統率するカリスマ性と強い情愛の持ち主。周囲が恐れるほど気性が激しく、嫉妬深い性格でもあったといわれています。

北条政子は源頼朝の妻。その関係はどうだった?

北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻です。

北条政子と源頼朝の関係は、決して悪くなかったようです。

長女の大姫が亡くなった際、北条政子が後を追って死んでしまおうと思い詰めるほど憔悴しました。
その際、源頼朝は懸命に説得し、北条政子を支えたといわれています。

また、源頼朝が弟の源義経の仲が悪くなり、源義経の恋人である静御前を源頼朝が殺害しようとした時、北条政子が取りなして静御前の殺害を思いとどまらせたといわれています。

北条政子と源頼朝は、お互いにしっかり意見を言い合い、信頼し合う仲だったのことを感じさせるエピソードですよね。

北条政子は御台所から尼御台、そして尼将軍となった

北条政子は生涯の中で様々な呼ばれ方をしています。

まず、夫である源頼朝が鎌倉入りした時から、北条政子は御台所みだいどころと呼ばれるようになりました。
貴人の妻という意味の尊称です。

その後、源頼朝が亡くなり出家した北条政子は尼御台あまみだいと呼ばれるようになります。
尼御台は貴人の妻で尼になった方の尊称ですが、現代では尼御台だけで北条政子のことをさしてつかわれることが多いです。

最後に、4代将軍となった藤原頼経の後見人となった北条政子は尼将軍あましょうぐんと呼ばれるようになりました。
将軍となった時の藤原頼経はわずか2歳と幼く、北条政子が実質的に将軍の代行をしていたといわれています。

北条政子がさまざまな呼ばれ方をしているのは、それだけ彼女の生涯が波乱万丈だったことを示しているのではないでしょうか。

北条政子は何をした人?その功績を簡単に解説

北条政子は実際には、何をした人物なのでしょうか?
【北条政子の功績】

  • 北条政子は、承久の乱で、幕府軍を勝利へ導いた
  • 北条政子は伝説の演説をした

北条政子は、承久の乱で、幕府軍を勝利へ導いた

北条政子の最も大きな功績は、「承久の乱」で幕府軍を勝利へと導いたことです。

北条政子が御家人たちの前で演説をしたことで、御家人たちは深く感動し、団結をすることができたといわれています。

※承久の乱とは
1221年(承久3年)に起きた鎌倉幕府と朝廷の間の戦いです。

朝廷の権力者である後鳥羽上皇は、皇権の回復を望み、鎌倉幕府の存在を疎ましく感じていました。鎌倉幕府の3代目将軍である源実朝が亡くなった時、今こそ鎌倉幕府が混乱し弱体化しているチャンスと判断した後鳥羽上皇は挙兵に踏み切ります。

しかし、北条政子らの必死の訴えによって、勢いを得た鎌倉幕府軍に敗退し、後鳥羽上皇らは隠岐島に島流しされてしまうのでした。
この承久の乱以降、武士の力はより強くなり、武家社会へと進んでいくのです。

北条政子の伝説の演説

北条政子は、「承久の乱」で幕府軍を勝利へと導く伝説的な演説を行いました。

【北条政子の演説】

「故右大将(源頼朝)のおかげで、あなたたち武士の地位が上がりました。土地も増えました。そのご恩は山よりも高く海よりも深い。今こそそのご恩に応えるときです」

【演説の背景】

挙兵する際、後鳥羽上皇は御家人たちに「鎌倉幕府を討つように」との院宣をだしました。
正式な上皇からの命令に御家人たちは動揺します。

その時に、北条政子が行ったのがこの演説というわけです。

この北条政子の演説により、御家人の動揺は収まり、団結を強めることができ、最終的には幕府軍は19万人も集まり、朝廷を破ることができたのです。

演説で人の心を動かし、勝利するといった、まさに大政治家のような役割を果たしたんですね。

北条政子の人物像がわかるエピソード

北条政子はどのような人物だったのでしょうか?
彼女の人物像がわかるエピソードをご紹介します。

【北条政子の人物像がわかるエピソード】

  • 北条政子と源頼朝の馴れ初めは駆け落ち
  • 北条政子の本名は、政子ではない?
  • 北条政子の評価は賛否両論

北条政子と源頼朝の馴れ初めは駆け落ち?

源頼朝と北条政子は、恋愛結婚でした。
親の決めた相手と結婚することが当たり前だった当時では、非常に珍しいのではないでしょうか。

しかも、当時の源頼朝は、平氏との争いに敗れた源氏の罪人であり、北条政子の父親の北条時政はその監視役という対立する立場だったのです。
つまり罪人と、その罪人を監視役の娘が結婚したのですから、当時としてはちょっとした大事件です。

ふたりは周囲の反対を押し切って、結婚をすることができた時の逸話が残されています。


源頼朝は伊豆国での流人として生活していくうちに、北条政子と恋人になります。
恋人になった二人ですが、二人の関係を知った父親の北条時政は、当然大反対し、伊豆国の豪族と北条政子の結婚話を進めます。

気が強く行動力のある北条政子ですから、そんなことではあきらめません。
一途に源頼朝を思い続け、そして結婚当夜、こっそりと屋敷を抜け出し、雨の中一人で走って源頼朝の元へと逃げ出したのです。
北条政子の熱烈な情愛と行動力によって、北条時政もついに二人の結婚を認めたといわれています。

駆け落ちとも言える、ロマンチックなエピソードですね。


北条政子の本名は、政子ではない?

日本の歴史上の人物として、とても有名な「北条政子」という名前ですが、実は北条政子の本名は「政子」ではなかったといわれています。

「政子」という名前は、朝廷から位を授与されることになった際に即席でつくられた名前といわれています。
そのため、初めて「政子」という名が記録に残っているのが、1218年(建保6年)の授与の記録の中です。

当時の北条政子はすでに62歳ですから、それよりも前には他の名前であったはずです。
ちなみに、名前の由来は、父の北条時政の「政」の文字を一文字とったものとなります。

北条家の政子として、北条政子の名前で呼ばれることが一般的になったのは、実は昭和に入ってからのことなのでした。

北条政子の本名が一体なんだったのか?気になりますが、昔は女性の記録が非常に少なく、現在も謎のままです。


北条政子の評価は賛否両論?

北条政子に対する歴史的な評価は、その時々の時代を反映し賞賛されたり批判されたりしています。

鎌倉時代から江戸時代までに書かれた書物の中では、
北条政子は鎌倉幕府を率いた「賢女」として非常に高く評価されています。

しかしながら江戸時代にはいると、
北条政子の評価は批判的な色合いを見せるようになっていきます。
これには、儒教の普及が影響しているともいわれています。

鎌倉幕府を率いた面は評価されるものの、鎌倉幕府の政権が嫁ぎ先の源氏から北条政子の実家の北条氏に取って代わっている点などが批判の対象となりました。

その後は、夫の愛人の家を壊させるといったアグレッシブな嫉妬深さも注目され、日本三大悪女の一人と称されるほどの「悪女」のイメージが持たれるようになりました。

まとめ:北条政子は尼将軍と呼ばれ、承久の乱を勝利に導いた

北条政子は、波乱万丈の人生を歩み、尼将軍として承久の乱を勝利に導く功績を残した女性です。
今回の内容をまとめると、

  • 北条政子は御台所から尼御台、そして尼将軍となった
  • 北条政子は尼将軍として、承久の乱を勝利に導いた
  • 北条政子の評価は時代とともに変化している

承久の乱で鎌倉幕府軍が勝利したことで、武士の力が強まり、江戸時代まで続く武家政権の礎となったと思うと、北条政子の功績の大きさを改めて感じます。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条政子の役を小池栄子さんが演じることになっています。力強い北条政子のキャラクターを、小池栄子さんがどのように表現するのか?今から楽しみですね。

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