北条政子の死因は?最後の詞とは?お墓はどこにある?その後鎌倉幕府はどうなった?
北条政子(1157年(保元2年)〜1225年(嘉禄元年))は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻として有名です。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが北条政子を演じることになっています。
尼将軍と呼ばれるほどの権力を持っていた北条政子ですが、その死因は何だったのでしょうか?
今回は、北条政子の死因は何だったのか?最後の詞とはどんな言葉なのか?また、お墓の場所についても簡単に解説していきます。
目次
北条政子の死因は?
北条政子は源頼朝の妻として、鎌倉幕府を支え続けました。
その北条政子はどのような原因で亡くなってしまったのでしょうか?
北条政子の死因は病死?
北条政子が死んだ時期は、弟の北条義時の一周忌あたりのことでした。
1225年、北条政子は病気にかかってしまいます。
一時は快復を見せるものの、病気は悪化してしまいそのまま帰らぬ人となりました。享年69歳です。
つまり、北条政子の死因は病死だと言われています。
ちなみに、北条政子がなんの病気にかかっていたのかまでは明らかになっていません。
しかし、この時代疫病が流行していたらしく、北条政子もなにかしらの感染症にかかったのではないか?と言われています。
当時は、治療体制も独特で、なかなか進まなかったようです。
主治医は僧医の行蓮という人物でしたが、その他にも陰陽師が6人も治療に加わっていました。
医者と陰陽師では重きを置くところが違ったため、度々治療方法について意見の衝突があったようです。
北条政子の死を嘆き悲しんだ北条泰時
三代目執権の北条泰時は、父亡き後、北条政子の後見により執権に就任しました。
北条政子のおかげで執権になれた泰時は、
「祖父と父の偉大な功績を考えると、私などに何ができるのかと茫然とするばかりだ。だが…やらねばならぬ。それに鎌倉には、大江殿や伯母上がおられる。わからないことは何でも聞いて教えを乞おう」
というほど、北条政子のことを頼りにしていたようです。
しかし、北条政子は泰時の就任後すぐに亡くなってしまいました。
それを受けた北条泰時は、
「これでは私は、誰を頼みとすればよいのですか。私一人では、何ができるものでもありません。私一人では、無理です」
と狼狽えていた様子でした。
北条泰時は、独裁ではなく集団の合議による幕府運営を目指していました。
そのため、叔父の北条時房を京都から鎌倉へと呼び出し、もう一人の執権として就任させます。
ここから、「両執権」と呼ばれる複数執権時代が始まりました。
北条政子の最後の詞とは?
北条政子は、承久の乱が勃発した際に「最後の詞」を演説したと言われています。
ここでは、北条政子の最後の詞を簡単に解説していきます。
北条政子の最後の詞とは御家人たちに行った演説
最後の詞とは、北条政子が承久の乱の際に鎌倉幕府の御家人たちに対して行った演説のことを指します。
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした戦ということで、御家人たちは恐れ、動揺していました。
その様子を見た北条政子は演説を行うことにしたのです。
内容は次のようなものです。
「故右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義を討って、三代将軍の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」
現代訳:
故右大将(頼朝)が朝敵を征伐し、鎌倉に幕府を創って以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深いものであり、感謝の気持ちは浅くないはずです。しかしながら、反逆者が事実でないことを訴え、道理から外れた院宣が発せられました。名声を大切にしようと思う者は、足利秀康、三浦胤義を討ち取り、源氏三代の将軍(頼朝・頼家・実朝)が遺したものを最後まで守りなさい。ただし、後鳥羽上皇の元に参ろう
北条政子の最後の詞のおかげで承久の乱に勝った?
政子の最後の詞を聞く前は、御家人たちは動揺しばらばらでした。
しかし、北条政子の演説は御家人たちの心に響き、団結や奮起を促しました。
その結果、見事幕府軍は承久の乱に勝利します。
つまり、北条政子の最後の詞のおかげで承久の乱に勝利したと言っても過言ではないでしょう。
北条政子の墓所は?
北条政子の墓所となる場所は、鎌倉に2箇所存在します。
1箇所目は、鎌倉の寿福寺です。
【寿福寺】
住所:
〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7
連絡先:
0467-22-6607
拝観料:
志納(参拝は参道から中門まで可能)/ 実朝・政子の墓はお参り可
※御朱印は書置きでの対応
※詳しくは直接お尋ねください
寿福寺は、北条政子が源頼朝の没後に創建しました。
ここに、源実朝の墓と隣に並んで北条政子の墓があります。
2箇所目は、鎌倉の安養院です。
【案養院】
住所:
〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町3丁目1−22
連絡先:
0467-22-0806
拝観料:
100円
※詳しくは直接お尋ねください
ここには、北条政子の宝篋印塔(政子の供養塔)が存在しています。
北条政子の死後に起こったこととは?
鎌倉幕府において権力を持っていた北条政子の死後、鎌倉幕府に起こったことを簡単に解説します。
北条政子の実家・北条家が執権として代々権力を持った
源頼朝から始まる鎌倉幕府の将軍職は、三代将軍・実朝までで頼朝の血を引く後継者は終わってしまいました。
四代将軍は、京都から藤原頼経を迎えます。
北条政子はこの藤原頼経の補佐をしていたことから、尼将軍と呼ばれていました。
つまり、ここまではまだ源頼朝に近い人が権力を握っていたわけです。
しかし、北条政子が亡くなった後は、北条政子の実家である北条家が権力を持っていくことになります。
将軍はただいるだけのお飾りとなり、執権である北条家が代々幕府の運営をしていくようになりました。
元寇などを経て鎌倉幕府は滅亡へ…
北条政子が源頼朝の意思を継ぎ、必死に守ってきた鎌倉幕府でしたが、終わりが近づいてきます。
主な原因として挙げられるのは、元寇です。
元寇との戦いは、源頼朝が築き上げた御恩と奉公の制度を崩壊させてしまったのです。
元寇は、外敵からの侵略を防ぐいわば防衛戦です。
日本を守るために、御家人たちは奉公に従って、自分の財産を投げ売ってまで元寇と戦ったのにも関わらず、幕府からは十分な御恩が与えられませんでした。
そのため、幕府と御家人たちの間に亀裂が生まれ、幕府は急激に衰退していき、1333年に足利尊氏らに攻められ鎌倉幕府は滅亡してしまうのです。
北条政子の実家・北条家の血は足利将軍家に受け継がれた?
北条政子と源頼朝の子孫は、みな早くに亡くなってしまったため、ほとんど子供を残すことがなく、血筋は途絶えてしまいました。
しかし、北条政子の実家である北条家の血は、室町幕府の足利将軍家に受け継がれることになります。
北条家最後の執権である北条守時の妹が足利尊氏に嫁いでおり、二代将軍・足利義詮を産んでいるのです。
そのため、北条政子の血筋は途絶えたものの、北条家の血筋は足利将軍家へと受け継がれていくことになったのです。
北条政子はどんな人だった?簡単まとめ
北条政子とはどのような人だったのでしょうか?簡単に解説していきます。
- 北条政子は、伊豆一豪族だった北条時政の長女として生まれた
- 北条政子は、源頼朝と恋愛結婚
- 源頼朝の死後も、尼将軍として鎌倉幕府を支えた
- 北条政子の演説で、承久の乱に勝利できた
- 北条政子の生涯は、鎌倉幕府に捧げたと言っても過言ではない?
北条政子の人生については、こちらの記事で詳しく解説しております。
>>北条政子の年表|どんな人?功績は?尼将軍と呼ばれたその生涯を簡単に解説!>>
北条政子の子孫は現在も続いている?
北条政子には頼朝との間に4人の子供(大姫・頼家・三幡・実朝)がいましたが、その子供はみな若くして亡くなってしまいました。
子供の中で唯一、源頼家だけが子供を残していましたが、その子供達もみな同様に政子よりも早く死んでいってしまいました。そのため、政子の血筋は完全に途絶えてしまったことになり、現在まで続くことはありませんでした。
北条政子の子孫については、こちらの記事で詳しく解説しております。
>>北条政子の家系図を簡単に解説!兄弟は?子孫は現在まで続いている?>>
まとめ:北条政子は病死したが、その思いは実家の北条家によって受け継がれていった
北条政子はその生涯を頼朝と幕府のために尽くし、最期は病気で亡くなりました。
しかし、幕府を守り抜きたいという思いは、北条政子の実家である北条家によって受け継がれていくことになりました。
今回の内容をまとめると、
- 北条政子の死因は、病死だが、病名は不明
- 承久の乱の際には、最後の詞を演説し、御家人たちをまとめあげ勝利に導いた
- 北条政子の死後は、実家の北条家がその思いを継ぎ、代々執権として幕府を支えていった
- 北条政子の血筋は途絶えてしまったが、北条家の血筋は足利将軍家へと受け継がれた
悪女としても名高い北条政子ですが、晩年は観音像を描くことを日課としていたようです。
そのため、晩年は比較的おだやかに暮らしていたことが伺えます。
病気にかかりさえしなければ、もっと長生きしたかもしれませんね。