北条義時の家系図を簡単に解説!源頼朝との関係は?足利尊氏とも親戚だった?
北条義時(1163年(長寛元年)〜1224年(元仁元年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士・政治家です。
北条義時は、北条政子の弟で、鎌倉幕府第2代執権として、武家政権の基礎を築き上げた人物です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも小栗旬さんが演じ、主人公として描かれることが決定しており、今注目が集まっています。
この記事では、その北条義時の家系図を見ながら、源頼朝や足利尊氏との関係性について簡単に解説していきます。
目次
北条義時の家系図を簡単に解説!
北条義時の家族構成
北条義時は、北条時政の次男として生まれました。母親は伊藤入道の娘と言われています。
北条義時は、腹違いの兄弟も含めると8人兄弟となります。
義時が生まれた頃、北条家はまだ伊豆の一豪族でしかありませんでした。
そのため、北条義時の幼少期の記録はほとんど残っていません。
また、北条義時の子供は、生母不明など詳しいことがわかっていない子も多く、少なくとも13人いたのではないかと言われています。
そして、北条義時の子供たちの一部は、分家の始祖となっていきました。
北条義時と源頼朝の関係は?
北条義時は、鎌倉幕府を開いたとされる源頼朝と繋がりがあります。
どういう繋がりかというと、北条義時の姉 北条政子が頼朝に嫁いだために、義兄弟となったのです。
平家との争いに敗れた源頼朝は、伊豆に流されました。
その時に、源頼朝の監視役となったのが、北条家です。
そして、源頼朝と政子は結婚し、源家と北条家は深い関わりになっていきます。
時は経ち、源頼朝は平家討伐のために挙兵、それを支えたのが妻の政子と、義弟である北条義時でした。
平家との戦いにおいて北条義時は武功をあげ、源頼朝からの厚い信頼を得ます。
その信頼は、源頼朝の寝所の警備、つまりプライベートな空間の警護を任せるほどでした。
このように、北条義時と源頼朝は義兄弟であり、お互いに信頼しあっていた関係であったと言えるでしょう。
北条義時の一族・北条氏が代々務めた執権とは?
北条義時は、鎌倉幕府の二代目執権を務めました。
そもそも、執権とは何をする人なのでしょうか?
ここでは、執権の解説と、歴代の執権にどのような人物がいたのかを簡単にご紹介していきます。
北条義時は二代目執権。執権とは何する人?
鎌倉幕府における執権とは、簡単に言うと「将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職」のことを指します。
鎌倉幕府は、源頼朝が存命中は将軍による独裁政治が行われていました。
源頼朝の死後は、長男である源頼家が将軍職を継ぎます。
しかし頼家はまだ幼かったため、それを補佐する必要がありました。
その補佐する役目を担ったのが、母である北条政子とその父である北条時政です。
これが執権政治の始まりだと言われています。
北条義時は、二代目執権です。初代執権は父である時政が務めていたのですが、時政は自分の地位を守るために暴走しすぎました(後妻の牧の方に唆されていたという話も…)。
これを受けて、北条義時は自分にも北条時政の手が伸びることを危惧し、姉の政子と協力し時政を追放することに成功します。
北条時政を追放した後、その地位を受け継ぎ二代目執権となったのです。
北条義時が執権として在任中には、承久の乱が勃発しましたが、義時は無事に勝利を収めています。
このことで、幕府が朝廷よりも上の立場であると証明することに成功し、武家中心の政権を作ることになりました。また、このときに朝廷を監視する役目を持っている機関である六波羅探題を設置したのも北条義時です。
鎌倉幕府の歴代執権
鎌倉幕府は、将軍の力が大きかったのは源頼朝くらいで、その後は北条家が執権として、政治をになっていました。
【鎌倉幕府 歴代執権】
- 初代 北条時政:1203年(建仁3年)〜1205年(元久2年) (1年11ヶ月)
- 2代目 北条義時:1205年(元久2年)〜1224年(貞応3年) (18年11ヶ月)
- 3代目 北条泰時:1224年(貞応3年)〜1242年(仁治3年) (18年)
- 4代目 北条経時:1242年(仁治3年)〜1246年(寛元4年) (3年9ヶ月)
- 5代目 北条時頼:1246年(寛元4年)〜1256年(康元元年) (10年8ヶ月)
- 6代目 北条長時:1256年(康元元年)〜1264年(文永元年) (7年7ヶ月)
- 7代目 北条政村:1264年(文永元年)〜1268年(文永5年) (3年7ヶ月)
- 8代目 北条時宗:1268年(文永5年)〜1284年(弘安7年) (16年1ヶ月)
- 9代目 北条貞時:1284年(弘安7年)〜1301年(正安3年) (17年4ヶ月)
- 10代目 北条師時:1301年(正安3年)〜1311年(応長元年) (10年1ヶ月)
- 11代目 北条宗宣:1311年(応長元年)〜1312年(応長2年) (8ヶ月)
- 12代目 北条熙時:1312年(応長2年)〜1315年(正和4年) (3年1ヶ月)
- 13代目 北条基時:1315年(正和4年)〜1316年(正和5年) (1年)
- 14代目 北条高時:1316年(正和5年)〜1326年(正中3年) (9年7ヶ月)
- 15代目 北条貞顕:1326年(正中3年) (11日)
- 16代目 北条守時:1326年(嘉暦元年)〜1333年(元弘3年) (7年1ヶ月)
実は、初代執権 北条時政から約120年以上、16代にわたって北条家が執権として政治を担っていたんです。
年数こそ短いですが、室町幕府は15代、徳川幕府も15代なので、いかに長かったのかが分かりますね。
北条義時は足利尊氏と親戚関係だった?
鎌倉幕府の執権北条義時と、その鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた足利尊氏が親戚関係だったという話もあります。
二人はどのような繋がりなのでしょうか?
ここでは、北条義時と足利尊氏との関係性について簡単に解説していきます。
北条義時の子孫が足利尊氏の妻に?
足利尊氏の妻は、北条登子という女性です。
この北条登子は、祖先を代々辿っていくと、北条重時まで遡ることが出来ます。
北条重時は、北条義時と姫の前の子供です。つまり、足利尊氏は北条義時の子孫と結婚していることになるのです。
鎌倉時代の足利家は、代々の当主が北条家から正室を迎えていると言っても過言ではないくらい、極めて北条家と縁が濃い存在でした。
本来ならば、足利家は源氏一門の流れで重きを置かれる存在です。
しかし、鎌倉幕府からの扱いはあまりそうとは言い難いものでした。
そのため、足利家は北条家と婚姻関係を結ぶことによって、威勢を維持しようとしていた可能性が高いでしょう。
まとめ:北条義時の家系図は、源頼朝や足利尊氏とも繋がりがあった
北条義時は、源頼朝とは姉の政子が嫁いだことにより義兄弟になりました。
さらに、子供に恵まれ子孫をたくさん残し、その中から、足利尊氏に嫁ぐ子孫も出てきました。
つまり、室町幕府を立ち上げた人物たちと繋がりがあったことになりますね。
今回の内容をまとめると、
- 北条義時は、元々伊豆の一豪族であった
- 北条義時の姉の政子が源頼朝と結婚したことにより、義時と頼朝は義兄弟となった
- 北条義時は、子孫をたくさん残し、その子孫たちが代々執権を務めていった
- 北条義時の子孫の中には、足利尊氏と結婚した人物も存在した
北条義時は、頼朝の浮気が発覚して、そのことに怒った時政が一族全員で伊豆へと引き上げたときにも、一人だけ頼朝の元に残ったという話があります。
そのことに頼朝はとても感動したそうです。
このように家系図で見る以上に二人の繋がりは深いものであったのかもしれません。