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徳川家治は大奥をあまり利用しなかった?愛妻家だった?正室の倫子はどんな人?

徳川家治(1737(元文2)〜1786(天明6))は、江戸幕府の第10代将軍です。

幼い頃より聡明で、祖父・徳川吉宗の寵愛を受けながら育ち、名君になることを期待されました。

しかし、実際は老中・田沼意次に政治を任せ、自らは趣味に没頭するなどしており、非常に評価の分かれる人物です。

2024年のテレビドラマ『大奥』で、亀梨和也さんが演じられることでも話題となっています。

そんな徳川家治は、あまり大奥を利用しなかったという話があります。

それはなぜなのでしょうか?

この記事では、徳川家治の正室や大奥との関わり方について簡単に解説していきます。

徳川家治は大奥をあまり利用しなかった?

江戸幕府の将軍は、基本的に一夫多妻で、その多くの妻などを住まわせていた場所が大奥です。しかし、徳川家治は大奥をあまり利用しませんでした。

それはなぜなのでしょうか?

ここでは、徳川家治と大奥の関わり方について簡単に解説していきます。

徳川家治は愛妻家だった?

徳川家治が大奥をあまり利用しなかった理由は、「愛妻家だったから」ということが挙げられます。

徳川家治の正室は、倫子という宮家出身の女性でした。

代々将軍は、正室を皇室または公卿から迎えるのが習わしで、愛情の有無などない政略結婚が当たり前でした。そのため、歴代の将軍の正室が不幸な生涯を送りがちだったのもしょうがないことだったのです。

しかし、徳川家治と倫子の夫婦仲は非常に良く、子供が生まれたら2人で可愛がるなど、幸せな日々を過ごしていました。

時には、徳川家治があまりに頻繁に倫子のもとへ通い詰めていたせいで、倫子に付いていた御年寄(大奥の役職で、夜枷も管理していた)から反発が起きたこともあったようです。

徳川家治は、それほどまでに倫子一筋であったため、大奥を利用する必要がなかったのです。

徳川家治は乳母に勧められ渋々側室をもった?

愛妻家であった徳川家治は、側室を決して持とうとしませんでした。

しかし、将軍である以上世継ぎを生んでもらわなくては困ってしまいます。

倫子との間には子供ができましたが女の子で、男の子はなかなかできませんでした。

このことを危惧したのが、徳川家治の乳母の松島です。

松島は、老中・田沼意次と相談し、徳川家治に側室を持つことを提案します。

最初は、なかなか了承しなかった徳川家治でしたが、田沼意次も側室を持つということを条件に渋々側室を持つこととなりました。

その後、側室との間に無事に後継者となる徳川家基が誕生します。

すると、徳川家治は側室のもとに通うことをやめ、徳川家基の養育を倫子に任せました。

やはり、徳川家治にとっては、倫子が最優先ということだったのでしょう。

徳川家治の正室の倫子はどんな人だった?

先程もお伝えしたように、徳川家治は愛妻家で知られていました。

そんな徳川家治の正室・倫子はどのような人だったのでしょうか?

ここでは、徳川家治の正室・倫子について簡単に解説していきます。

徳川家治の正室の倫子は宮家出身?

徳川家治の正室だった倫子は、閑院宮家という江戸時代中期に創設された宮家の出身でした。

父親は閑院宮直仁親王で、直仁親王の父は東山天皇、つまり倫子は天皇の孫ということになります。

そんな2人の婚約をまとめたのは、京都所司代の牧野貞通です。

牧野貞通が、朝廷と交渉して2人を結びつけました。

ちなみに、徳川家治の祖父・徳川吉宗も、父・徳川家重も、宮家から正室を迎えています。

徳川家治の正室の倫子との間に子供はいた?

非常に仲が良かったとされている徳川家治と倫子の間には子供はいたのでしょうか?

2人の初めての子は、婚礼の式から2年後のことでした。

長女の千代姫が生まれましたが、千代姫は夭折してしまいます。

その4年後、再び子供が生まれます。次女の万寿姫です。

ですが、この万寿姫も12歳という若さで夭折してしまいます。

その後、2人の間に子供ができることはなく、側室との間にできた子である徳川家基を養育していくことになりました。

しかし、なんとこの徳川家基も18歳という若さで病没してしまうのです。

こうして、徳川家治の子供はみんな早くに亡くなってしまい、その結果、徳川家治の後継者は一橋家から養子を迎えることとなりました。

大奥とはどういう場所?

徳川将軍家が代々利用していたとされる大奥とはどのような場所だったのでしょうか?

また、目的はなんだったのでしょうか?

ここでは、大奥について簡単に解説していきます。

大奥の目的は江戸幕府将軍の血を絶やさないこと

大奥とは、江戸城内にある居住区の中でも、特に将軍の妻子が住んでいる場所のことを指します。

大奥が置かれた最大の目的は、

「江戸幕府将軍の世継ぎとなる、血の繋がった男児をもうけること」です。

当時、将軍の後継者は、血の繋がった男児でなくてはならないという不文律がありました。

そのため、将軍は一夫多妻が当たり前であり、できれば正室、無理でも側室が男児を生むことを期待されていました。

そのための仕組みが、大勢の女性を住まわせた大奥という存在だったのです。

ちなみに、一番大奥を利用していたとされるのは、第11代将軍・徳川家斉です。

徳川家斉は、なんと16人もの女性との間に、53人の子供を授かったと言われています。

これは、歴代徳川将軍の中で断トツトップの子供の数でした。

大奥は、幕府の財政を圧迫していた?

先程もお伝えしたように、将軍の世継ぎ問題解消を担っていた大奥でしたが、実は幕府の財政を圧迫し続けていたという事実もあります。

大奥では、女中への報酬や側室による浪費などによって、出費がかさんでいたのです。

このことを危惧した、徳川家治の祖父で第8代将軍である徳川吉宗は、享保の改革の際に、大奥を縮小しようとしています。

しかし、それは失敗に終わってしまい、その後大奥は幕府の財政を圧迫しながら、明治維新が行われるまで続いていくこととなるのです。

まとめ:徳川家治は愛妻家だったため大奥をあまり利用しなかった

徳川家治は、愛妻家で知られており、多くの側室を持つことを推奨されていた大奥はあまり利用しませんでした。それでも、世継ぎ問題を解消するために、側室を渋々持つこともありました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家治は愛妻家で、正室以外の妻を持つことをよしとしなかった
  • 徳川家治は、大奥はあまり利用しなかった
  • 徳川家治の子供は夭折し、世継ぎ問題を解消するため、渋々側室を持つことになった

幼少期に祖父である徳川吉宗から色々なことを学んでいた徳川家治でしたから、大奥の危うさのようなものも理解していたのでしょう。そのため大奥をあまり利用しなかったということもあるかもしれませんね。

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