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本阿弥光悦の芸術作品を簡単に解説!国宝や重要文化財もある?琳派、光悦村とはなに?

本阿弥光悦(1558(永禄元年)〜1637(寛永14))は、江戸時代初期に活躍した数奇者です。

書・陶芸・漆芸・能楽・茶の湯などの活動でその名を残しており、後世の日本文化に大きな影響を与えました。

そんな本阿弥光悦は、どのような作品を残したのでしょうか?

また、「琳派」や「光悦村」とはどのようなものなのでしょうか?

この記事では、本阿弥光悦の作品について簡単に解説していきます。

本阿弥光悦は江戸時代の総合芸術家だった?

本阿弥光悦は、江戸時代初期に様々な分野で活動していました。

なぜ1つの分野ではなく、様々な分野でその才能を発揮することができたのでしょうか?

ここでは、本阿弥光悦が総合芸術家となった理由を簡単に解説していきます。

本阿弥光悦の才能は幼い頃から培われていた?

本阿弥光悦の出身である本阿弥家は、元々刀剣の鑑定・研磨・浄拭などを家業としていました。

刀剣の制作過程では、木工や金工、漆工、革細工、貝細工、染色など様々な工芸技術が必要とされます。

そのため、幼い頃から様々な工芸に対する興味と審美眼を培ってきたのでしょう。

また、本阿弥光悦は厳格で才覚のある母親に育てられたこともあり、早くからその才能を発揮していくこととなるのです。

本阿弥光悦は父親のお陰で家業に縛られなかった?

本阿弥光悦の出身である本阿弥家は刀剣の鑑定などを家業としていました。

そのため、普通であれば、本阿弥光悦もその家業を継いでいてもおかしくありません。

しかし、なぜ本阿弥光悦は様々な分野で活躍することができたのでしょうか?

それは、父親の影響があります。

本阿弥本家7代目・本阿弥光心には、はじめ嫡子がなかったため、養子を取ることにしました。それが、本阿弥光悦の父親・本阿弥光二でした。

本阿弥光二は、本阿弥光心の娘・妙秀と結婚し、婿養子として本阿弥家に入ります。

しかし、その後、本阿弥光心は相次いで男子を授かるのです。

そこで、本阿弥光二は、自ら本家を退き、分家を立てることにしました。

こうして本家から離れたため、本阿弥光悦は家業を継ぐ必要がなくなり、自分の好きなことに打ち込めるようになったというわけです。

ちなみに、現存する本阿弥光悦の書状の中に、刀剣に触れたものはほとんど見られません。

本阿弥光悦の代表的な芸術作品には何がある?

幼い頃からその才能を磨き続けてきた本阿弥光悦は、様々な分野で数々の作品を残しました。

その作品にはどのようなものがあるのでしょうか?

ここでは、本阿弥光悦の作品の中でも代表的なものを簡単に解説していきます。

本阿弥光悦の芸術作品で、国宝や重要文化財に指定されているもの

本阿弥光悦の芸術作品の中には、その素晴らしさから国宝や重要文化財に指定されているものがあります。

ここでは、その代表的なものをご紹介します。

【国宝】

  • 舟橋蒔絵硯箱
  • 白楽茶碗 銘「不二山」

【重要文化財】

(書跡)

  • 鶴下絵三十六歌仙和歌巻
  • 四季草花下絵古今和歌巻
  • 始聞仏乗義
  • 立正安国論
  • 如説修行抄
  • 法華題目抄

(蒔絵)

  • 芦舟蒔絵硯箱
  • 舞楽蒔絵硯箱
  • 子日蒔絵棚
  • 樵夫蒔絵硯箱
  • 扇面鳥兜蒔絵料紙箱
  • 鹿蒔絵笛筒

(陶器)

  • 黒楽茶碗 銘「雨雲」
  • 黒楽茶碗 銘「時雨」
  • 赤楽茶碗 銘「雪峰」
  • 赤楽茶碗 銘「加賀」
  • 赤楽茶碗 銘「乙御前」
  • 赤楽兎文香合

本阿弥光悦の書道作品

本阿弥光悦は、「寛永の三筆」と称されるくらいの能書家でした。

独自のスタイルである「光悦流」を確立するのですが、その特徴としては

  • 「かな」と「漢字」の美しさを融和させている
  • 抑揚・濃淡・強弱の構成が見事

以上のようなことが挙げられます。

本阿弥光悦の漆芸作品

漆芸においては、独創的な蒔絵作品を数多く残しました。

蒔絵とは、漆器の表面に漆で絵や文様を描き、乾かないうちに金や銀などの金属粉を蒔くことで器面に定着させる技法のことを指します。

本阿弥光悦の作品は、文字すらもデザイン化してしまったり、当時の常識を打ち破るような形にしてみたりと、自分のこだわりを詰め込みまくったものとなっており、非常に独創的なものでした。

しかし、「光悦蒔絵」と呼ばれる作品は、本阿弥光悦の意匠、発案だと言われていますが、本阿弥光悦自身が制作にどの程度関与しているのかまでは明らかになっていません。

本阿弥光悦の陶芸作品

陶芸においても優れた作品を残しており、特に楽焼の茶碗が有名です。

本阿弥光悦が作陶をし始めたのは晩年であり、本職の陶芸家と比べると素人同然のようなものでした。

しかし、だからこそ本阿弥光悦の作品は常識にとらわれない、自身の美意識をふんだんに注ぎ込んだものとなりました。

それが他の陶芸家の作品とは違う魅力を生み出し、多くの人を魅了することとなったのでしょう。

本阿弥光悦は芸術家として後世に影響を与えた?

本阿弥光悦は、自身で様々な芸術作品を残しましたが、他の芸術家たちにも大きな影響を与えていました。

どのようにして影響を与えていたのでしょうか?

ここでは、本阿弥光悦が後世に与えた影響について簡単に解説していきます。

本阿弥光悦は琳派の創設者となった

「琳派」というのは、桃山時代後期から近代にかけて流行した、絵画や工芸品の流派のことです。

本阿弥光悦は、俵屋宗達とともにこの琳派を創設しました。

この2人は、平安の文化に非常に強い憧れを持っていました。

そのため、その様式は、平安時代から続く伝統を重んじながらも、自らの新しいスタイルを確立していくというものでした。

このことから、琳派の様式は、「桃山ルネサンス」「王朝回帰」などと表現されることもあります。

また、その他の琳派の特徴としては、「私淑」という形で受け継がれていったということが挙げられます。

狩野派や円山・四条派といった他の江戸時代の流派は、同一の流派の家に生まれたり弟子入りしたりした人物が、模写を通じて直接師から画技を学んでいました。

しかし、琳派は、師事することなく、個人的に尊敬する人を慕い、模範として学び、画技を習得するのです。

そのため、琳派は、流派の特徴を踏まえつつ、絵師個人の個性が大きく反映されているという特徴が生まれました。

このように、本阿弥光悦の信念は、琳派を通して後世に伝えられていったのです。

本阿弥光悦は光悦村を築いた

本阿弥光悦は、57歳のときに徳川家康から、京都の最北部にある鷹ヶ峰という場所の土地・約9万坪を与えられました。

そこで、本阿弥光悦はこの地に芸術家たちを集め、芸術活動に専念するための芸術村、通称「光悦村」を築き上げたのです。

ここには、金工や陶工、画家、蒔絵師、筆屋、紙屋、織物屋など、多数の芸術関係者が集うことになり、56もの家屋敷が軒を連ねました。

そして、昼夜問わず、創作に専念するための環境が整えられたのです。

本阿弥光悦は、ここでアートディレクターの役割を担っており、様々な芸術作品の制作を指揮しました。

このようにして、本阿弥光悦は、様々な芸術作品が生まれる手伝いをしていたのです。

まとめ:本阿弥光悦は様々な分野の作品を残し、中には国宝となったものもある

本阿弥光悦は、書跡、蒔絵、陶芸など様々な分野の作品を残しており、その中には国宝となったものもありました。さらに、他の芸術家たちの制作指揮をするなど、芸術界の発展に大きく貢献もしていました。

今回の内容をまとめると、

  • 本阿弥光悦は幼い頃からその才能を育てるのに適した環境にいた
  • 本阿弥光悦は、父親が分家したことにより家業を継がなくてよくなり、好きなことができるようになった
  • 本阿弥光悦は、様々な分野の作品を残しており、中には国宝に選ばれたものもある
  • 本阿弥光悦は、琳派や光悦村を築くことにより、芸術界の発展に大きく貢献した

本阿弥光悦の作品は、ほとんどの作品が常識にとらわれないものでした。このように型破りをする人物がいるおかげで、芸術は発展してきたんだなと思わずにはいられません。

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