徳川家治の死因は病死?田沼意次に殺された?最後の姿は?墓所は?
徳川家治(1737(元文2)〜1786(天明6))は、江戸幕府の第10代将軍です。
幼い頃より聡明で、祖父・徳川吉宗の寵愛を受けながら育ち、名君になることを期待されましたが、実際は老中・田沼意次に政治を任せ、自らは趣味に没頭するなどしており、非常に評価の分かれる人物です。
2024年のテレビドラマ『大奥』で、亀梨和也さんが演じられることでも話題となっています。
そんな徳川家治の死因は何だったのでしょうか?
この記事では、徳川家治の死因や最後の姿などを簡単に解説していきます。
目次
徳川家治の死因は何?
徳川家治は、どのようにして亡くなったのでしょうか?
その死には、実は田沼意次が関わっていたのではないかという噂もあるのです。
ここでは、徳川家治の死因について簡単に解説していきます。
徳川家治の死因は脚気?
徳川家治の死因は、脚気だと言われています。
徳川家治は亡くなる1ヶ月前くらいに、脚気の特徴の1つである水腫の症状が出て、そこから急速に体調を悪化させていきました。
いわゆる腹水や胸水として症状が出ており、心嚢水腫の可能性も高かったでしょう。
発症してほぼ1ヶ月後に危篤状態に陥り、そのまま亡くなってしまいました。
徳川家治は田沼意次に暗殺された?
徳川家治の死因は、脚気だと言われていますが、実はこの時暗殺されたのではないかとの噂も流れたのです。
徳川家治が亡くなる10日前に、田沼意次が推挙した町医者・日向陶庵と元町医者・若林敬順が登城し、徳川家治に投薬します。
すると、その直後に徳川家治は重体となってしまうのです。
そのため、田沼意次が毒殺を企んでいたのではないかと流布されるようになってしまったのです。
しかし、徳川家治が亡くなってしまうと、田沼意次は後ろ盾を無くしてしまうようなものですから、そのようなことをするはずがありません。
真偽は明らかになっていませんが、徳川家治が亡くなった直後、田沼意次は病気を理由に老中の職を解任されています。
徳川家治の最後の姿は?
徳川家治の死因は脚気と言われています。
徳川家治は、亡くなる前の晩年はどのように過ごしていたのでしょうか?
ここでは、徳川家治の最後の姿について簡単に解説していきます。
徳川家治は晩年は趣味に没頭していた?
徳川家治は、将軍になった当初は政務に励んでいました。
しかし、老中に田沼意次を任命すると、田沼意次に政務を任せきりにし、自身は趣味に没頭するようになりました。
主に行っていたのは、将棋です。
将棋の腕前は七段が与えられていたほどで、特に詰将棋を作成するのが上手でした。
将棋の他には、囲碁や鷹狩、書画を好んで嗜んでいました。
徳川家治の死は政治利用された?
徳川家治の死は政治利用されたのではないかという説もあります。
先程もお伝えしたように、徳川家治は田沼意次に毒殺されたのではないかという噂が流れました。
それを利用しようとしたのが、反田沼派の人たちです。
ただでさえも大名たちからの幕府への不満が高まっていたところに、毒殺の噂が流れた田沼意次。
当然のように田沼意次は、反田沼派によって追放されることとなってしまいます。
また、反田沼派の謀によって、徳川家治の死はすぐには公表されず、実際に公表されたのは、田沼意次の失脚後のことでした。
田沼意次の失脚後、権力闘争が続き、翌年に松平定信が老中になりました。
徳川家治の墓所はどこにある?
徳川将軍家の墓所は、基本的に菩提寺にあります。
しかし、徳川将軍家は、その菩提寺自体が複数あるという稀なケースなのです。
それでは、徳川家治の墓所はどこにあるのでしょうか?
ここでは、徳川家治の墓所について簡単に解説していきます。
徳川家治の墓所は寛永寺にある?
徳川家治の墓所は、寛永寺にあります。
この寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺でした。
しかし、徳川将軍家には菩提寺自体が2つ存在しているのです。
元々徳川将軍家の菩提寺は、増上寺でした。この増上寺は、浄土宗のお寺です。
しかし、徳川家康・徳川秀忠・徳川家光は、天台宗に帰依していました。
徳川家としては浄土宗に所属していたのですが、個人的には天台宗に帰依していたという、少し複雑な状況だったわけですね。
そして、天海という天台宗の僧で、徳川家康の側近だった者が、
「江戸に天台宗の寺を建てさせてくれ」
と希望してきたのです。
そこで、徳川秀忠が現在の上野のあたりに土地を与え、徳川家光がそこにお寺を建てました。それが「寛永寺」です。
ここから、寛永寺は徳川将軍家の菩提寺となるのですが、そこで黙っていないのが元々菩提寺であった増上寺です。
色々と話し合った結果、両方とも徳川将軍家の菩提寺ということになり、その後は交互に将軍を埋葬していくことになりました。
寛永寺
住所:東京都台東区上野桜木1丁目14番11号
開門時間・閉門時間:9時〜17時
歴代徳川将軍の死因と墓所は?
徳川家治の死因は脚気でしたが、他の将軍はどのような死因だったのでしょうか?
歴代将軍の死因と墓所をご紹介していきます。
- 初代将軍:徳川家康 胃がん(享年:75歳) 墓所:日光東照宮
- 2代将軍:徳川秀忠 消化器がん(享年:54歳) 墓所:増上寺
- 3代将軍:徳川家光 脳卒中(享年:48歳) 墓所:日光東照宮(輪王寺)
- 4代将軍:徳川家綱 心筋梗塞(享年:40歳) 墓所:寛永寺
- 5代将軍:徳川綱吉 成人麻疹(享年:64歳) 墓所:寛永寺
- 6代将軍:徳川家宣 インフルエンザ(享年:51歳) 墓所:増上寺
- 7代将軍:徳川家継 急性肺炎(享年:8歳) 墓所:増上寺
- 8代将軍:徳川吉宗 脳卒中(享年:68歳) 墓所:寛永寺
- 9代将軍:徳川家重 脳性麻痺による排尿障害(享年:51歳) 墓所:増上寺
- 10代将軍:徳川家治 脚気による急性心不全(享年:50歳) 墓所:寛永寺
- 11代将軍:徳川家斉 高齢による腹膜炎(享年:69歳) 墓所:寛永寺
- 12代将軍:徳川家慶 暑気あたり(享年:61歳) 墓所:増上寺
- 13代将軍:徳川家定 脚気による急性心不全(享年:35歳) 墓所:寛永寺
- 14代将軍:徳川家茂 脚気による急性心不全(享年:21歳) 墓所:増上寺
- 15代将軍:徳川慶喜 急性肺炎(享年:77歳) 墓所:谷中霊園
まとめ:徳川家治の死因は脚気で、その死を政治利用された
徳川家治の死因は脚気でした。しかし、田沼意次に毒殺されたのではないかという噂も流れ、その死を反田沼派に利用されてしまったのでした。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家治の死因は脚気
- 徳川家治は、田沼意次に毒殺されたという噂も流れた
- 徳川家治の死は、反田沼派によって政治利用された
- 徳川家治の墓所は寛永寺にある
徳川家治は、晩年息子を若くして亡くしています。
その際の落ち込みぶりは、食事もとれなくなるくらいだったとか…。
そんな絶望の最中、自身も病に臥せっていくのです。
さらにはその死までも政治利用され、晩年は本当に悲惨すぎて同情せざるを得ません。