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徳川家光の妻は何人いた?正室を冷遇した?男色だった?子供は何人いた?

徳川家光(1604(慶長9)〜1651(慶安4))は、江戸幕府の第三代将軍で、江戸幕府を開いた徳川家康の孫です。江戸幕府の基礎を築いたと言われている徳川家光ですが、妻は何人くらいいたのでしょうか?また、子供は何人いたのでしょうか?
この記事では、徳川家光の妻や子供について簡単に解説していきます。

徳川家光の妻は何人いた?

この時代は、世継ぎを残すために側室を何人も持つのが普通でした。
しかし、徳川家光の父・秀忠は、正室1人しかいませんでした。
それでは、徳川家光はどうだったのでしょうか?

ここでは、家光の妻について簡単に解説していきます。

徳川家光の妻は9人?

徳川家光の妻は全部で9人(正室1人、側室8人)だったと言われています。

【徳川家光の正室】

  • 鷹司孝子

【徳川家光の側室】

  • お振の方(自証院)
  • お万の方(栄光院)
  • お楽の方(宝樹院)
  • おまさの方
  • お夏の方(純性院)
  • お玉の方(桂昌院)
  • お里佐の方(定光院)
  • お琴の方(芳心院)

徳川家光は「生まれながらの将軍」であったことから、その正室は、家柄のしっかりとした孝子が選ばれました。いわゆる政略結婚です。
しかし、その夫婦関係は、徳川家光が孝子のことを嫌っていたことから、冷え切ったものでした。それどころか、女性ではなく男性に走り始めます。

そんな徳川家光が女性に手を出し始めたのは、30歳を超えてからのことでした。

そこからは、亡くなるまでに多くの側室を迎えることになりました。

徳川家光は正室を冷遇した?

徳川家光の正室は、関白・鷹司信房の娘である鷹司孝子です。

この当時、幕府と朝廷の関係はとても険悪で、それを少しでも緩和するためにとの、いわゆる政略結婚でした。しかし、徳川家光は男色で女嫌いだったことや、公家自体を嫌っていたことなどから、妻の孝子を冷遇します。

結婚後、孝子は御台所でありながら大奥を追い出され、江戸城内の中の丸で軟禁のような生活を強いられます。

それに加えて、その後御台所の称号を剥奪され、「中の丸様」と呼ばれるようになってしまうのです。

また、家光は孝子に先立って死去するのですが、孝子にはわずか50両しか相続されませんでした。

さらに、当時の風習として、正室に子がいない場合は、側室の子を正室の子として扱うのが普通でしたが、家光はそれも拒否しており、孝子は後に将軍となる家綱、綱吉との養子縁組はされませんでした。

ここまで冷遇され続けた孝子でしたが、家光の死後は出家し、家光の菩提を弔う日々を送ったと言われています。孝子にとって、唯一の救いだったのは、家綱が孝子のことを母親のように慕ってくれていたことでしょう。家綱は、実母に次ぐ扱いで孝子のことを厚遇したそうです。

孝子が何を思っていたのかはわかりませんが、彼女がこの冷遇を耐え忍んだことで、幕府と朝廷の関係改善に一役買ったのは間違いありません。

徳川家光の側室のエピソードは?

徳川家光には8人の側室がいました。それぞれ出自や身分などバラバラです。その中でも、特に有名なエピソードを解説していきます。

徳川家光の側室:お振の方

お振の方は、徳川家光の最初の側室となった女性です。石田三成のひ孫と言われています。

そんなお振の方は、祖母が春日局の親族であったことから大奥に出入りしていました。
お振の方が家光に初めて会った時は、まだ10代前半の少女でした。この際、春日局の意向を受けたお振の方は、家光の気を引くために少年の格好をして近づいたという話もあります。

良い意味で女らしくなかったお振の方は、無事に家光の気を引くことに成功しました。さらに、運のいいことに、すぐに家光の子を妊娠します。しかし、産まれてきたのは女の子で、世継ぎにはなれませんでした。そして、お振の方は出産に耐えれるほどまだ身体が成長しきっておらず、産褥から回復できずにそのまま亡くなってしまいます。

徳川家光の側室:お万の方

徳川家光が1番愛した女性と言われているのがお万の方です。このお万の方は、家の決まりで尼になった公家のお嬢様でした。
伊勢の慶光院の院主をしていたので、将軍家に挨拶するために江戸城にやってきました。
そこで、家光がなんとお万の方に一目惚れしてしまうのです。そして、そのままお万の方は家光の側室になり大奥に入ることになります。2人の間に子供はできませんでしたが、女性に興味がないと思われていた家光が一目惚れをしたものですから、周りに与えた衝撃は相当なものだったでしょう。

徳川家光の側室:お玉の方

お玉の方は、父親が八百屋を営んでいるような、ごく一般的な町娘でした。そして、父の死後、父から野菜を買っていた武士の養女となり、その後、尼僧に仕えることになります。
そして、この尼僧こそが、お万の方だったのです。
お万の方が側室になり、大奥に入るのと同時に、お玉の方も大奥入りしました。すると、家光はお玉の方も気に入り、側室にするのです。お玉の方は、後に5代将軍となる綱吉を産んでいます。このように、町娘から武士の娘、側室、さらに将軍の母と、お玉の方は駆け上がっていったのです。このことから、お玉の方が「玉の輿」という言葉の由来になっているとする説も存在します。

徳川家光は男色で有名だった?

徳川家光は、実は男色で有名でした。男色とは、男性同士の同性愛を指します。

つまり、徳川家光は男性が好きだったということですね。

しかし、徳川家光には沢山の女性の側室がいました。

それには、乳母・春日局の努力があったのです。
ここでは、家光の男色について簡単に解説していきます。

徳川家光は初恋の人を母に処分され、女性を敬遠するようになった?

徳川家光は男色として有名ですが、初恋の人は女性だと言われています。

その人は、詳細は不明ですが、家光の母・江の侍女である「お古五の方」です。

家光はお古五を見初め、母に黙って密かにお古五のもとに通い詰めました。しかし、お古五が身籠ってしまい、それが江にバレたことで大問題になります。

当時、大奥は黎明期とはいえ、すでに男性禁制の風潮がありました。そのはずなのに、父親が誰かわからない子を身籠った侍女が出てしまった。
このことを江は許しませんでした。江は、お古五の相手(本当の相手は家光でしたが、身代わりの武士)を処刑します。

この時、徳川家光はまだ将軍ではなく、未婚状態でした。

そのため、スムーズに将軍継承するためには、お古五のお腹の子の父親が、家光であってはならなかったのです。

そして、後の火種になりかねない子を生かしておくわけにもいかないため、江はお古五もお腹の子共々、火炙りにして処分してしまいました。

このお古五の死が家光に与えたダメージは相当なものだったのでしょう。
徳川家光が成人後、女性に振り向こうとしなかったのは、このことが影響しているのではないかと言われています。

徳川家光に乳母・春日局が女性を沢山あてがった?

徳川家光は男色でした。男性と恋すること自体は別に構わないのですが、しかしそれだけでは子供を作ることはできません。

子供ができないということは、将軍家存続の危機ということに繋がります。

そこでこの危機をどうにかしようと立ち上がったのが、家光の乳母である春日局でした。
春日局は、なんとか家光が女性に興味を持つようにしようと、沢山の美女を斡旋し始めます。お振、お楽、お玉という美女を連れてきては、奥入りさせたのです。こうした春日局の努力もあり、家光は女性に興味を持つようになります。実に、家光が30歳を過ぎてからのことでした。そこからは、家光は自ら女性に手を付けるようになり、側室を増やしていきました。

春日局がいなかったら、将軍家は続いていなかったかもしれませんね。

徳川家光と小姓との恋愛エピソードとは?

徳川家光は男色でしたが、ただの男色ではありませんでした。

その恋人の数がとても多かったのです。

家光には小姓と呼ばれるお世話係が沢山いたのですが、その中から自分好みの美少年を見つけると、すぐに恋人にしてしまうのです。

小姓としても出世の足がかりになりますし、時の権力者には逆らえないという事情もあるので、家光の誘いを断れる者は多くはありませんでした。

寵愛を受けた小姓の中には、大名にまで上り詰める者もいました。特に酒井重澄堀田正盛の2人は恋のライバルとして、家光をめぐって火花をちらしていました。

その結果、2人とも大名になりましたが、酒井重澄の方は、病気と称して引きこもり家光に会わないようになります。

その会わない間、こっそりと妻と妾の間に4人も子供を作るのです。

そのことが、家光にバレて、領地を没収されました。

反対に堀田正盛は、そのままどんどんと出世していき、家光に寵愛を受けた者の中では別格とも言える「下総佐倉藩十万石」の大名となります。

そして、最後には家光の死去に際して殉死するのです。

このように、徳川家光は自分を愛してくれる者には、それ相応の対価を支払っていたようですね。

反対に、自分の愛を裏切るようであれば、過去にどれだけ愛していても容赦なく処分するという一面も持っていました。

徳川家光の子供は何人いた?

妻が9人もいた徳川家光に、子供は何人いたのでしょうか?
また、子供の中に、将軍の後継者はいたのでしょうか?
ここでは、徳川家光の子供について簡単に解説していきます。

正室との間に子はなく、側室との間に6人の子がいた?

家光は正室・孝子のことが嫌いで別居していたため、子供はできませんでした。

しかし、後に作った側室との間には、6人もの子供ができました。

【徳川家光の子供】

  • 千代姫 (母:お振の方)
  • 家綱 (母:お楽の方)・亀松 (母:おまさの方)
  • 綱重 (母:お夏の方)
  • 綱吉 (母:お玉の方)
  • 鶴松 (母:お里佐の方)

このうち、亀松と鶴松は夭折してしまいましたが、他の子たちは無事に成人します。

そして、徳川家光の跡は長男の家綱が継ぎ、4代将軍となります。
また、家綱は子供を残さず亡くなってしまい、さらに綱重は早世してしまっていたので、5代将軍には綱吉がなりました。

徳川家光の子供が、2人も将軍になったのです。

まとめ:徳川家光は男色だったが、春日局のおかげで側室が沢山できた

徳川家光は、男色でとても有名でした。しかし「このままでは世継ぎが生まれず、将軍家の存続に関わる」と乳母・春日局は考え、沢山の女性をあてがいました。その結果、家光には沢山の側室ができ、無事に後継者も産まれました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家光には妻が9人(正室1人、側室8人)いた
  • 徳川家光は、正室・孝子とは政略結婚であり、冷遇していた
  • 徳川家光は、男色で女性に興味がなかったが、春日局のおかげで沢山の側室ができた
  • 徳川家光は、正室との間には子供はできず、側室との間に6人いた

徳川家光は、春日局がいなかったら、生涯女性を愛することなく、子供に恵まれることもなかったでしょう。そのため、家光の乳母が春日局ではなかったら、江戸幕府は約260年間も続いていかなかったかもしれませんね。

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