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徳川家光の性格は?どんな人だった?人物像が見える逸話とともに簡単に解説!

徳川家光(1604(慶長9)〜1651(慶安4))は、江戸幕府の第三代将軍で、江戸幕府を開いた徳川家康の孫です。

徳川家光の祖父にあたる徳川家康は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉もあるように、とても穏やかな性格だったと言われています。

それでは、その血を引いている徳川家光はどのような性格だったのでしょうか?

この記事では、徳川家光の性格を、エピソードを交えながら簡単に解説していきます。

徳川家光の性格は?

徳川家光は、幼少期と成長した後では、性格が全く違っていたと言います。

それはどのように違ったのでしょうか?
ここでは、家光の性格について簡単に解説していきます。

徳川家光は強気で冷酷な一面もある変わり者だった?

徳川家光の性格は、

  • 怒りっぽくて強気
  • 割とやんちゃ
  • 冷酷な一面もある
  • 嫉妬深い
  • 好きなものには一途
  • 変わり者

以上のことなどが挙げられます。

その他にも男色で知られていたり、能や武芸を愛していたとも言われています。

また、真偽ははっきりとしていませんが、夜な夜な江戸城を抜け出し、町に出ては辻斬りをしていたという噂も…。

怒りっぽくてやんちゃというのは、ここから来ているのかもしれません。

徳川家光は幼少期はとても内気だった?

徳川家光は強気で冷酷な一面もあるとお伝えしましたが、幼少期は全く印象が違うのです。

幼少期の記録によると、徳川家光の性格は、

  • 非常に内気な少年
  • 非常にどんくさく思い詰めやすい
  • 吃音があり容姿も良くなく、人の上に立つ器とは思えない
  • 弟である忠長の方が将軍にふさわしい

以上のような酷評を受けています。

徳川家光がこのような性格になってしまったのは、環境が大きく影響していると考えられています。

家光は小さい頃から大変病弱体質で、度々存命が危ぶまれるほどの病を経験していたそうです。

家光は容姿が良くなく病弱体質、しかし反対に弟の忠長は、容姿・知能・健康に優れていました。

そのため、両親は忠長のほうをかわいがり、次期将軍にしようと考えているくらいでした。

両親から愛してもらえず、周りからは弟と常に比べられる。

そんな環境で強気でいれるわけがありませんよね。

12歳の頃には、忠長と比べられることに嫌気が差して、自殺を図ったというエピソードまであるくらい悩んでいたようです。

こうして、徳川家光は内気な幼少期を過ごすことになるのです。

しかし、徳川家光は徳川家康の推薦により将軍になると、急に家光は強気な性格になるのです。どのような心境の変化があったのかはわかっていませんが、幼少期とそれ以降で大きく印象の変わる人物、それが徳川家光なのです。

徳川家光は愛情表現が極端だった?

徳川家光は幼少期に親から見放され、愛情を受けることができませんでした。そのため、とても愛情に飢えていたのでしょう。少し愛情表現が極端になりがちだったようです。
どのような愛情表現をしていたのでしょうか?
ここでは、徳川家光の愛情表現の仕方について簡単に解説していきます。

徳川家光は祖父・徳川家康をとても崇敬していた?

徳川家光は、祖父の徳川家康のことを大変崇敬していました。

その理由としては、

  • 3歳のときに罹った大病が、家康の薬のおかげで回復したこと
  • 体調の悪い時に、夢枕に家康が立つと翌朝にはすっかりと回復していたこと
  • 両親が弟の忠長を贔屓していたのに対し、家康が口添えしてくれたおかげで将軍になれたこと

以上のことなどが挙げられます。

そのため、徳川家康が祀られている日光東照宮を生涯で10回も訪れていたり、莫大な資金を投入して日光東照宮の大規模改築を行ったりしています。

また、家光は死ぬときまで肌身離さずお守りを持っていたと言われています。

そのお守りには、

「二世ごんげん(権現)、二世将軍」

「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」

このように書かれた紙が入っていたそうです。

ここで言う権現とは、東照大権現のことを指しており、つまり徳川家康の神号を指しています。

さらに、徳川家光は遺言で、

「私が死んだ後も魂は徳川家康の祭られている日光山にまいりて、仕えまつらんと願うゆえに、遺骸を慈眼堂のかたわらに葬るように」

と家臣に命じました。

崇敬する徳川家康の近くに埋葬してくれと頼んだわけです。

こうして、家光の遺骸は東叡山寛永寺に移された後で、日光の輪王寺に葬られました。

また、この時、家光は自分の廟所は仏式で、荘厳は決して東照宮のそれを超えないようにと厳しく命じたと言われています。

このように、家光は生涯家康に感謝しながら、家康のためにと様々なことに幕府の資金を投入してきました。

この家光の後先考えない行動は、幕府の財政破綻のきっかけとなったとも言われています。

家光は家康のことを愛しすぎるあまり、幕府の財政を危機に陥れてしまったというわけですね。盲目的に崇敬していたということが伺えます。

徳川家光は男色で、嫉妬深かった?

徳川家光は男色でしたが、ただの男色ではありませんでした。

その恋人の数がとても多かったのです。

家光には小姓と呼ばれるお世話係が沢山いたのですが、その中から自分好みの美少年を見つけると、すぐに恋人にしてしまっていたようです。

小姓としても出世の足がかりになりますし、時の権力者には逆らえないという事情もあるので、家光の誘いを断れる者は多くはありませんでした。

寵愛を受けた小姓の中には、大名にまで上り詰める者もいました。

特に酒井重澄堀田正盛の2人は恋のライバルとして、家光をめぐって火花をちらしていました。

その結果、2人とも大名になりましたが、酒井重澄の方は、病気と称して引きこもり家光に会わないようになります。その会わない間、こっそりと妻と妾の間に4人も子供を作るのです。
しかし、そのことが家光にバレて、領地を没収されました。

反対に堀田正盛は、そのままどんどんと出世していき、家光に寵愛を受けた者の中では別格とも言える「下総佐倉藩十万石」の大名となります。そして、最後には家光の死去に際して殉死するのです。

また、坂部五右衛門は、家光から寵愛を受けていたにもかかわらず、他の小姓とイチャイチャしていました。その場面を家光に目撃されてしまい、そのまま坂部五右衛門を手討ちしてしまいます。

このように家光は、自分を愛してくれる者にはそれ相応の対価を支払い反対に自分の愛を裏切るようであれば、過去にどれだけ愛していても容赦なく処分するという一面も持っていました。
自分はたくさんの恋人を作っていたにも関わらず、浮気は許さないとなると、相当独占欲が強かったと伺えますね。

徳川家光の性格を表すエピソードとは?

徳川家光は、強気で冷酷な一面もある変わり者した。
しかし、それは家光の一面に過ぎず、別の一面も持ち合わせています。
ここでは、徳川家光の性格を表すエピソードを簡単に解説していきます。

異例の将軍宣下を行った?

徳川家光は征夷大将軍に就任した後、諸国の大名を江戸城に呼び寄せて以下のようなことを宣言します。

「東照宮(家康)が天下を平定なさるに際しては、諸侯の力を借りた。また秀忠公も、元はおのおの方の同僚であった。しかし、余は生まれながらの将軍であり、前の二代とは格式が異なる。よっておのおの方の扱いは、これより、家臣同様である」

つまり、これまで、祖父・家康や父・秀忠と親交があり、贔屓にされていた人たちも、そのようなことは関係なく家臣として扱うと宣言したわけです。
さらに、家光はここにこう付け加えています。

「これに不服があれば、今すぐ国許へ帰り弓矢を取るが良い。我が徳川800万石で余自らお相手致す」

宣戦布告とも言えるようなこの発言は、今後舐められないようにするためではないかと考えられています。

敵を大量に作りかねないような発言でしたが、これを聞いた諸大名は幕府の威勢を背景とするこの発言に恐れ入って、ただひれ伏すのみでした。

この瞬間、徳川将軍家が、諸大名と完全に一線を画したのです。徳川家光の強気な性格をよく表しているエピソードですね。

お吸い物に砂が入っているという理由だけで台所頭を殺そうとした?

徳川家光が鷹狩をしていたある日のことです。その日は、強風が吹き荒れて、なんの成果も出せず、家光はとても不機嫌でした。

そんな中、鷹狩を終えて近くの寺で食事をしたところ、出されたお吸い物の中に砂が入っていました。

不機嫌だった家光は、そのことに怒り「台所頭に腹を切らせよ」と家臣に命令します。

しかし、それに対して台所頭は、
「決して御膳に砂が入っていたわけではございませぬ。今日のような風の強い日に、上様が御口をすすがずに召されましたから、砂をかまれたと思われます。口をすすがれ、それでも砂をかまれましたのならば、首をはねられるなり腹を切るなり仰せに従います」
と進言しました。

結果は、この台所頭の言うとおりでした。
そこで、家光はこの申し開きを称賛し、陳謝を込めて褒美を与えました。

徳川家光は短気で怒りっぽくありましたが、きちんと他人の意見を聞き入れることができる人物だったようです。

武芸や芸能・芸術にも興味があった?

家光はとても多趣味であり、武芸や芸能・芸術に興味がありました。

・武芸

病弱体質な家光でしたが、武芸を好み、たびたび御前試合や武芸上覧などを開催していたようです。特に剣術を好んでいたとされており、剣術家である柳生宗矩に師事していました。宗矩には強い信頼を寄せており、生涯を通じて良好な師弟関係を築き、宗矩以外の兵法指南役を受け入れなかったことが記録されています。

・芸能

家光は芸能ごと、特に能を好んでおり、風流踊を主体とした催しをよく開催していたと言われています。能は、祖父・家康や父・秀忠も同様に好んでいましたが、楽しみ方が少し異なっていました。

家康や秀忠は、著名な能楽師に舞わせることを好んでいましたが、家光は、家臣や諸大名など、決してうまくはない人たちに舞わせることを好んでいたようです。家光が変わり者だったと伺えるエピソードですね。

・芸術

家光は割と墨絵も好んでおり、自分で描いた墨絵を家臣にあげていたそうです。

絵の教えを受けるために、御用絵師として当時の一級画家である、狩野探幽を招いていました。

しかし、家光の描く絵はどれもシュールで独特な画風でした。

専門家によると、「家光はあえて逸脱した絵を描き、そこに価値を見出していた」のではないかと言われています。

戦の話が好きで、伊達政宗を慕っていた?

家光は武芸も好きでしたが、戦の話を聞くのも好きで、立花宗茂や伊達政宗といった歴戦の老将たちとの交流も好んでしていました。特に、伊達政宗のことは「伊達の親父殿」と呼ぶくらいとても慕っており、外様大名とは思えぬような厚遇をしています。

家光は、たびたび政宗に茶の湯を送り、酒宴に招きました。
政宗も身体が衰える中、1636年(寛永13年)に家光に拝謁しています。
その際、家光は政宗の衰弱ぶりに驚き、江戸中の社寺に政宗の病気平癒の祈祷を命じ、主治医を派遣するなどしています。

一大名に対してそこまでするくらい、家光はよほど政宗のことを慕っていたのでしょうね。

まとめ:徳川家光は強気で冷酷な一面もあるが、愛情深い人物だった

徳川家光は、幼少期は両親に見放され、愛情を受けることができず、内気な性格でした。しかし、成長するに連れて、強気で冷酷な一面が目立つようになりました。また、浮気した恋人を手討ちにするなど、嫉妬深い一面も持ち合わせていました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家光は幼少期は内気であったが、成長するに連れて強気で冷酷な一面が目立つようになった
  • 徳川家光は、祖父・家康のことを崇敬しており、その愛ゆえに幕府の財政破綻のきっかけを作ってしまった
  • 徳川家光は、浮気した恋人を手討ちにするなど嫉妬深い一面もあった
  • 徳川家光は、強気で冷酷であったが、他人の話をしっかりと聞ける耳はもっていた
  • 徳川家光は、戦や芸術、芸能など幅広い分野に興味を持っていた

徳川家光は崇敬していた家康に対しては、幕府の資金をこれでもかというくらい貢いでいました。しかし、幼少期に両親を奪った忠長に対しては、改易した上で自刃させています。このことから、家光は自分の好きなもの・嫌いなものに対してとても極端だったということが伺えますね。

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