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徳川家康の父はどんな人?妻と離別した?徳川家康を人質に差し出した?死因は?

松平広忠(1526年(大永6年)〜1549年(天文18年))は、戦国時代に活躍した安城松平家4代当主の武将です。また、江戸幕府を開いた徳川家康の父でもあります。

この松平広忠は、妻と離別したり、徳川家康を人質に出したりと様々な話がありますが、どんな人だったのでしょうか?

この記事では、徳川家康の父・松平広忠がどのような人だったのかを簡単に解説していきます。

徳川家康の父・松平広忠はどんな人だった?

偉大な功績を残した徳川家康の父である松平広忠は、どのような人物だったのでしょうか?

ここでは、松平広忠のプロフィールやその人生がどのようなものだったのかを簡単に解説していきます。

徳川家康の父・松平広忠のプロフィール

松平広忠(まつだいらひろただ) 1526年(大永6年)〜1549年(天文18年)/享年:24歳
父:松平清康/母:華陽院
正室:於大の方
継室:真喜姫
子:忠政、恵最、家康、市場姫

松平広忠は、1526年(大永6年)に安城松平家の当主・松平清康の嫡男として生まれました。

1540年(天文10年)には、於大の方と婚姻しますが、そのわずか2年後に離縁することになります。
このとき、家康は3歳だったと言われています。
その後、真喜姫と再婚しますが、広忠は24歳という若さで亡くなってしまいました。
側室がいたかどうかは、はっきりと判明していません。

徳川家康の父・松平広忠は幼少期から波乱の人生を送っていた?

松平広忠の父・清康は安城松平家の勢力を拡大に伸ばした人物でした。
そのため、その嫡男であった広忠は、順調に行けば三河国の統治者となるはずだったのです。

しかし、広忠が10歳のときに清康が亡くなってしまったことにより、険しい道程と化してしまいました。
清康の死後、広忠は居城だった岡崎城から立ち去ることになります。

そこに代わりに入ったのは、清康の叔父である松平信定でした。

この信定は、清康ととても仲が悪かったと言います。そのため、広忠の存在は厄介なものだったのです。

こうして広忠は、家督を継ぐどころか、拠点を奪われ、伊勢国へと国外逃亡することとなってしまいました。この際、広忠の国外逃亡を手助けしたのは、阿部定吉という人物でした。
この定吉は、清康を殺した阿部正豊の父親です。

定吉は、息子のこの暴挙を聞いて自害しようとしたらしいのですが、それを広忠が止めたといいます。

ここだけ聞いたら、定吉は命を狙われている広忠のために逃亡を手助けしたと考えられるでしょうが、実際は違う説が有力です。

それは、清康殺しの責任追及から逃れるため、幼い広忠を担保に連れ出したというもの。

つまり、自身の保身のために手助けしたわけですね。何が真実かははっきりしていませんが、10歳の広忠には、頼もしい存在だったのは言うまでもないでしょう。

そして、数年後には今川氏の庇護を受けるなどして、なんとか岡崎城へと帰還することに成功するのです。幼くして親が亡くなるだけでも辛いことなのに、国外逃亡まで強いられた広忠は波乱万丈な人生を歩み始めたのでした。

徳川家康の父・松平広忠は妻と離縁した?

岡崎城へと帰還した松平広忠は、尾張国の織田氏と過酷な領土争いを繰り広げることになります。

その過程で、三河国と尾張国の国境に領地を持つ水野忠政の娘と結婚しました。これが、家康の母となる於大の方です。

婚姻を結んだ翌年に家康も生まれ、家庭は安泰だと思われた矢先に事件が起こります。

義父である忠政が亡くなると、水野氏は嫡男であった水野信元が家督を継ぎました。

すると、信元は方針を変えて、松平氏との繋がりよりも織田氏との繋がりを大事にしようとしたのです。

松平氏の庇護者である今川氏は織田氏と敵対関係にあり、妻の実家が織田氏に近づいたことで、広忠も裏切るのではないかと疑われることになってしまったのです。

松平広忠が松平氏の領地を守るためには、水野氏と縁を切ることが必要でした。

そのため、泣く泣く於大の方と離縁することにしたのです。

広忠は、松平氏を守るために、妻と離縁し、今川氏に忠誠を誓ったのでした。

徳川家康の父・松平広忠は徳川家康を人質として差し出した?

徳川家康は幼少期、人質として今川家に差し出されました。

実は徳川家康が人質となったのは、広忠が決めたことでした。
広忠はなぜ家康を人質として差し出したのでしょうか?
ここでは、徳川家康が人質となった経緯などを簡単に解説していきます。

徳川家康の父・松平広忠は今川家から保護されるために徳川家康を人質として差し出した?

広忠は今川氏に忠誠を誓うために妻と離縁までしましたが、それだけでは足りませんでした。織田氏が岡崎に大軍を送ってきて松平氏はピンチに陥ります。

その際、広忠は今川氏に援軍を求め、今川氏当主であった今川義元は、その見返りとして人質を要求してきたのです。

広忠は、またしても松平氏を守るために決断に迫られ、苦渋の決断の末、徳川家康を人質として今川氏に差し出すことにしたのでした。

領土を守るためとはいえ、妻も子も犠牲にしなければならなかった広忠の胸中は計り知れないですね。

徳川家康の父・松平広忠は織田側から称賛された?

泣く泣く徳川家康を今川氏に人質として送り出した広忠でしたが、ここで誤算が起こります。

なんと家康を今川氏の元まで護送していた戸田宗光が、突如裏切り、家康を駿府に送るどころか奪い去り、銭千貫文で織田氏に売り飛ばしたのです。

徳川家康を買い取った織田氏は、これをいいことに再三広忠を脅し、寝返るように要求します。
しかし、広忠は要求に応じるどころか毅然と下記のように言い放ったそうです。

「息子を殺さんと欲せば即ち殺せ、吾一子の故を以て信を隣国に失はんや」

つまり、広忠はまたしても自分の家を守るために、息子を犠牲にしても構わないと言い切ったわけですね。

これを聞いた織田信秀は、「広忠良将なり」と感嘆したと言います。

徳川家康の父・松平広忠は短命だった

徳川家康の父 松平広忠は、わずか24歳という若さで亡くなってしまいました。

その死因ははっきりとはわかっておらず、様々な説が存在しています。

松平広忠はなぜそんなに若くして亡くなってしまったのでしょうか?
ここでは、松平広忠の死因や埋葬場所などを簡単に解説していきます。

徳川家康の父・松平広忠の死因は?

徳川家康の父 松平広忠は、わずか24歳という若さでなくなってしまいました。その死因は複数の説があります。

  • 病死説(『三河物語』『松平記』など)
  • 家臣の岩松八弥によって刺殺されたとする説(『岡崎領主古記』)
  • 一揆によって殺害されたとする説(『三河東泉記』)

この中でも現在最も有力とされているのは、岩松八弥に刺殺されたとする説です。

仮にこれが事実だとすると、親子二代に渡って、家臣に殺されたということになります。
それほどまでに、誰が敵になるかわからないような緊迫した時代だったのでしょう。

徳川家康の父・松平広忠の遺体はどこに埋葬された?

若くして亡くなってしまった松平広忠の遺体は、能見原の月光庵に埋葬されました。

これはまだ徳川家康が8歳の頃の出来事です。

そして、徳川家康はこの際織田氏の人質として尾張国にいたため、すぐに駆けつけることはできませんでした。後に、今川氏と織田氏の人質交換により、家康は今川氏の元に移ることになり、その今川氏の元に移動する際に、やっと父のお墓に参ることができました。
そして、墓上に小さな松を1株植えると、その松に松平家の繁栄を祈願したと言います。

桶狭間の戦いで今川義元が亡くなり、人質から解放された家康は岡崎城へと帰還します。
その後、家康は父の供養をするために、月光庵の地に新たに寺院を建立しました。
かつて植えた松が大いに繁っていることを確認すると、「松が自らの祈念に應じた」と喜び、この寺院を『松應寺』と名付けました。以降、江戸時代においてこの寺院は幕府に重要視されたと言います。

松應寺
住所:愛知県岡崎市松本町42
開門時間:境内は常時入ることが可能
     本堂は通常夕方まで
拝観料:なし
駐車場:あり

まとめ:徳川家康の父・松平広忠は苦労の多い人生を送っていたが、松平家を守るために必死だった

徳川家康の父・松平広忠は、幼少期から苦労が多い人生を送っており、妻とやむを得ず離縁したり、実の息子を人質に出したりしなくてはなりませんでした。しかし、その行動は、全て松平氏を守るためのものでした。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康の父 松平広忠は幼少期に父を亡くし、国外逃亡を強いられた
  • 松平家は、今川氏の庇護を受けることで拠点である岡崎に戻ってくることができた
  • 松平広忠は、織田氏との領土争いのため、水野氏と関係を深める目的で於大の方と結婚した
  • 松平広忠は、織田氏からの猛攻に耐えるために今川氏に援軍を頼み、その見返りとして家康を人質として差し出すことになった

いくら自分の領土を守るためとはいえ、家族を犠牲にすることは並大抵の人ではできることではありません。家族からしてみれば冷たい人物だと恨んでもおかしくないのですが、広忠の墓を家康が大事にしていたところを見ると、家康は父の苦悩をわかっていたのかもしれませんね。

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