黒田官兵衛の家紋は「藤巴紋」「石餅紋」その由来や意味を簡単に解説!
黒田官兵衛(1546(天文15)〜1604(慶長9))は、戦国時代から江戸初期にかけて活躍した武将です。
竹中半兵衛と並んで、豊臣秀吉の参謀として有名ですね。
また、大河ドラマ『軍師官兵衛』では、岡田准一さんが演じられたことでも話題になりました。
そんな黒田官兵衛は、どのような家紋を使用していたのでしょうか?
この記事では、黒田官兵衛が使用していた家紋について簡単に解説していきます。
目次
黒田官兵衛の家紋①「藤巴紋」
黒田官兵衛が使用していた家紋には、代表的なものが2つありました。
そのうちの1つが「藤巴紋」です。
藤巴紋とはどのような家紋なのでしょうか?
またどうしてそれを採用していたのでしょうか?
ここでは、藤巴紋について簡単に解説していきます。
黒田官兵衛の家紋「藤巴紋」の由来は?
黒田官兵衛が使用していた藤巴紋は、「橘藤巴」と呼ばれるタイプのものです。
このタイプは、三筋の藤を巴の形に配し、その中心に橘を描いたデザインとなっています。
この藤巴紋は、実は黒田官兵衛の播磨時代の主家である小寺氏の家紋です。
黒田官兵衛は、主家との婚姻の関係で小寺の氏を名乗っていたので、自然と藤巴紋を採用したのでしょう。
小寺氏の藤巴紋は、藤の根本に3つの橘を配する形となっていますが、黒田官兵衛の藤巴(「黒田藤巴」ともいう)は、中心に橘を1つだけあしらうアレンジを加えたデザインとなっています。
黒田官兵衛は幽閉時に藤の花に勇気づけられた?
黒田官兵衛は34歳の時、その手腕を見込まれて、主君の織田信長に対して謀反の疑いのある荒木村重の説得を頼まれます。
そして、単身村重の居城である有岡城へと乗り込むのですが、逆に捕縛されてしまい牢屋へと幽閉されてしまうのです。
黒田官兵衛が幽閉された期間はなんと約1年間。
有岡城陥落後に、官兵衛は奇跡的に救出されますが、その際の官兵衛は、長い間不衛生な環境にいたため、頭髪は抜け、足腰は弱まり、変わり果てた姿となっていました。
そんな過酷な状況の中、官兵衛が気力を保っていられたのは、牢獄の窓から見える藤の花のおかげでした。その藤の花の生命力に励まされ、官兵衛はなんとか獄中生活を耐えきったのです。
この話を受け、黒田官兵衛が生きる力を与えてくれた藤の花を徳とし、以後、自らの家紋として使うようになったという説もあります。
しかし、現在では、その説は否定されています。
何故なら、先程もお伝えしたように、官兵衛は小寺の氏を名乗った時に小寺氏から藤巴紋を賜ったため、幽閉時よりも前に藤巴紋を使用していたことになるからです。
黒田幽閉された原因は小寺氏にもありました。
というのも、実は小寺氏も村重に便乗して織田信長に反旗を翻そうとしていて、それを止めに来た官兵衛に
「村重が謀反を思いとどまるならば、私も謀反を思いとどまる」
と言ったのです。
このようなことを言われては、信長を裏切るなどもってのほかと考えていた官兵衛は村重の説得をせざるを得なくなり、説得に向かった結果幽閉されてしまったのです。
本来であれば自分をそんな過酷な目にあわせた小寺氏が使用していた家紋など、使用したくないと思ってもおかしくありません。
それでも藤巴紋を使用し続けたのは、ひとえにその獄中で励まし続けてくれた藤の花への思いがあったからなのでしょう。
黒田官兵衛の家紋②「石餅紋」
黒田官兵衛が使用していた代表的な家紋のもう1つが「石餅紋(こくもちもん)」です。
石餅紋はどのような家紋なのでしょうか?
また、どうして石餅紋を使用することになったのでしょうか?
ここでは、石餅紋について簡単に解説していきます。
「石餅紋」は元々竹中半兵衛の家紋だった?
黒田官兵衛が使用していた「石餅紋」は、無地に丸く白を塗ったものです。
石餅は「石持ち」と掛けられており、つまり、石高が増える縁起のいいものとされていました。
また、石餅紋は白餅紋とも言われており、そちらは「城持ち」に繋がるということで、やはり縁起のいい家紋だと考えられていたのです。
実はこの石餅紋は、元々は竹中半兵衛が使用していた家紋なのです。
竹中半兵衛は、ある戦で胸に矢を受けた際、懐にあった兵糧の餅のおかげで命が助かったため、この家紋を採用していたと言われています。
黒田官兵衛は主君の裏切りによって表紋を「石餅紋」にした?
黒田官兵衛は、最初は藤巴紋を表紋として使用していました。
しかし、元々それは最初の主君であった小寺氏のものです。
その小寺氏は、1578年に織田信長や豊臣秀吉のことを裏切ってしまいます。
黒田官兵衛としても、昔の主君が今の主君を裏切ったわけですから、このまま藤巴紋を使用し続けるには気まずかったのでしょう。
そこで官兵衛は秀吉から1万石を拝領して、初めて大名となった時に、一緒に家紋も変更することに決めました。昔の主君への決別や今の主君への忠義の表れ、または、ここから自分の所領が繁栄していくようにとの思いが込められていたのかもしれませんね。
黒田官兵衛は竹中半兵衛への感謝の気持を忘れないために「石餅紋」を使用した?
黒田官兵衛が石餅紋を採用した理由は他にもあります。
それは、官兵衛が有岡城に幽閉されていた時のこと。
織田信長は官兵衛がなかなか帰ってこないため、裏切ったと勘違いし大激怒し、官兵衛の息子である長政を殺せと秀吉に命令するのです。
しかし、この時秀吉の参謀で、官兵衛と共に「両兵衛」と称されていた半兵衛は、官兵衛が裏切るはずがないと信じ、主君に内緒で長政を匿うことにしました。
無事に官兵衛が戻ってきた頃には、半兵衛はすでに病死して会えなかったのですが、この件を聞いて半兵衛に大変感謝したそうです。
そして、官兵衛はこれ以降、半兵衛への感謝の気持ちをわすれないために、竹中家の家紋である石餅紋を使うようになったと言われています。
黒田家が使用していた家紋は?
黒田官兵衛の死後も黒田家は代々続いていくのですが、続いていく中で使用している家紋が増えたり、変わったりしました。
ここでは、黒田家が使用していたその他の家紋について簡単に解説していきます。
黒田家のその他の家紋「三つ橘」と「永楽通宝」の銭紋
黒田官兵衛が使用していたのは、2つの家紋でした。
官兵衛の後を継いだ息子・長政は、その後さらに2つの家紋を使用することにします。
1つは「三つ橘」という紋。
これは、小寺氏の藤橘巴の橘を抜き出したものです。
かつての主家である小寺氏の紋の姿を少し変えて受け継いだというわけですね。
もう1つは「永楽通宝」の銭紋です。
2つの家紋が、長政の時代からなぜ採用されたのか?という理由についてははっきりとわかっていません。
明治時代になってから「藤巴紋」が再び表紋になった?
黒田家は官兵衛の死後も代々続いていきました。
そして、江戸時代から明治時代にかけては、縁起のいい表紋として、石餅紋を使用し続けました。
しかし、明治時代のあるときから、裏紋で使用していた藤巴紋を表紋として再び使用し始めます。
そのあるときとは、日本の国旗が日の丸になったときです。
さすがに国旗と意匠の似た石餅紋を使用し続けることは難しかったのでしょう。
また、元々藤巴紋を使用しなくなった理由である、小寺氏の裏切りについても、もう問題にされないほどの昔話となっていました。
そのため、藤巴紋が再び表紋となったのです。
まとめ:黒田官兵衛の家紋は、主君への忠義や友への感謝の念が込められたものだった
黒田官兵衛が主に使用していたのは、「藤巴紋」と「石餅紋」でした。藤巴紋は、主君からもらったため、石餅紋は友への感謝の念を忘れないために使用されていましたね。
今回の内容をまとめると、
- ・黒田官兵衛が主に使用していた家紋は「藤巴紋」「石餅紋」
- ・藤巴紋は、最初の主君である小寺氏からもらったものだった
- ・石餅紋は、元々竹中半兵衛の家紋であったが、友への感謝を忘れないために採用された
- ・黒田家が他に使用していた家紋には、「三つ橘」や「永楽通宝」の銭紋があった
- ・明治時代になると、石餅紋が日の丸と似ていることから、藤巴紋が再び表紋となった
黒田官兵衛は、不遇な扱いを受け続けても秀吉に仕え続けるというくらい忠義に厚い男でした。
それが家紋にも表れているとは、色々なところに気を配れる官兵衛らしいなと思いました。