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伊能忠敬ってどんな人?年表から簡単に解説!性格は?功績は?死因は?

伊能忠敬(1745(延亭2)〜1818(文政元年))は、江戸時代に活躍した商人、天文学者・地理学者・測量家です。日本で初めて日本全土の地図を作った人物として知っているという方も多いでしょう。

それでは、そんな伊能忠敬とはどんな人物だったのでしょうか?この記事では、伊能忠敬の年表を見ながら、その性格や功績、死因などを簡単に解説していきます。

伊能忠敬とはどんな人?年表で簡単に解説!

伊能忠敬とはどんな人物だったのでしょうか?まずは年表を見ながら、忠敬がどのような人生を送っていたのかを簡単に解説していきます。

伊能忠敬の年表

伊能忠敬(いのうただたか)

1745年(延亭2年)〜1818年(文政元年)   享年:74歳

父:神保貞恒  母:不詳

妻:ミチ、女(名前不明)、信(ノブ)、栄(エイ)

子供:イネ、伊能景敬、神保玄二郎、伊能順次、シノ、コト

【伊能忠敬の年表】

  • 1745年(延亭2年):0歳
    上総国(現在の千葉県中部)にて誕生
  • 1762年(宝暦12年):17歳
    伊能家に婿入りする
    この頃から忠敬を名乗り始める
  • 1781年(天明元年):36歳
    佐原村の名主となる
  • 1794年(寛政6年):49歳
    家督を長男・景敬に譲り、隠居する
  • 1795年(寛政7年):50歳
    江戸に出て、高橋至時(たかはしよしとき)という天文学者に弟子入りする
  • 1800年(寛政12年):55歳
    最初の測量を開始する
  • 1816年(文化13年):71歳
    江戸を中心とした第十次測量を行う
  • 1818年(文政元年):73歳
    弟子たちに見守られながら亡くなる
  • 1821年(文政4年)
    弟子たちによって『大日本沿海輿地全図』が完成する

伊能忠敬の幼少期は大変だった?

伊能忠敬は1745年(延亭2年)に、上総国山辺郡小関村で、村の名主であった小関五郎左衛門の家で生まれました。
しかし、この家は母親の実家であり、父親である神保貞恒は婿養子でした。

そして、忠敬が6歳の時に母親が亡くなってしまいます。

父親は婿養子だったので、小関家の家督は母親の弟が継ぐことになり、貞恒は子どもたちを連れて実家に戻ったのですが、その際何故か忠敬のみこの家に残されました。

この頃の忠敬がどのような生活を送っていたのかは詳細な資料がないので不明なのですが、6歳の子供が母親をなくし、父親までいない状態で生活していくことを考えただけで、その大変さは容易に想像できるでしょう。

この頃に、立派に学問を教わっていたとの話もあり、その成果が表れたのか、やがて忠敬は秀才として名を馳せるようになります。

そして、佐原村にある酒造家の伊能家のミチと結婚し、自分の家族を持つことになるのです。

伊能忠敬は妻が4人もいた?

伊能家のミチと結婚した伊能忠敬でしたが、実はその生涯で4人の妻を迎えています。

それは、妾などで多かったのではなく、全員正妻でした。
どういうことかというと、忠敬の妻はみんな若くして亡くなってしまった人ばかりだったのです。

最初の妻であるミチは、1783年の忠敬が39歳のときに亡くなってしまいます。
その4年後に忠敬は、伊能家の手代をしていた女性(名前は不明)を妻にしますが、その妻も1790年に病死してしまいました。
そこで、今度は信という女性を3人目の妻に迎えることにします。

しかし、信も1795年に亡くなってしまうのです。

3人の妻に先立たれた忠敬は、今度は江戸に移り住んだ際に栄という女性を内縁の妻としました。

栄は、忠敬の測量の手伝いをしていたそうですが、測量が本格的に始まると、忠敬の元を離れて元々やっていた漢詩人として生きていくことにしました。

その後の交流がどの程度あったのかは不明です。しかし、栄は忠敬と同じ年の1818年に亡くなったと言われています。

伊能忠敬の子孫は現在も続いている?

伊能忠敬には4人の妻がいました。その妻との間に何人かの子供を授かっています。

中でもミチとの間には、1男2女の子供を授かっており、その長男である伊能景敬が伊能家の家督を継ぎました。
景敬は、妻との間に子供を授かりましたが、忠敬に先立って48歳で亡くなってしまいます。

さらに、その子供も9歳で亡くなり、妻も21歳でその他に子供を残すことなく亡くなってしまいました。そのため、ここで伊能家の直系の血筋は途絶えてしまうことになります。

しかし、伊能忠敬には他にも子供がいました。

そのため、詳しい動向については不明ですが、現代でも忠敬の子孫を名乗る人たちはたくさん存在しています。

その証拠に、2018年には、伊能忠敬没後200年を記念して大規模な式典が行われ、それに伊能淳氏や伊能洋氏といった子孫の方々がパネルディスカッションをしたそうです。

伊能忠敬の功績は?

波乱万丈な人生を送ってきた伊能忠敬ですが、いったいどんなことをしたのでしょうか?
ここでは、伊能忠敬の功績について簡単に解説していきます。

伊能忠敬は日本全土の地図を作成した?

伊能忠敬の功績と言えば、日本全土の地図を作成したことが挙げられるでしょう。

伊能忠敬の作った日本地図の正式名称は「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」と言います。

また、忠敬の名前にちなんで「伊能図(いのうず)」とも呼ばれています。

この地図は実測といって、なんと実際に忠敬が日本全土を歩いて測量して作られた地図なのです。

測量したのは主要な道路であったり海の近くの場所であったりと限られてしまっていたので、内陸部にはところどころ空白が目立ちますが、海の近くの場所の細かな部分まで正確に記されているのが特徴として挙げられます。

この地図は、経度に間違いはあるものの、緯度に関しては当時にしては間違いが少なく正確な地図だったようです。そのため、明治時代以降の地図作成にも参考にされました。
ただし、この地図の原本は1873年、皇居が火災になった際に焼け落ち、控えのものも関東大震災の際にその多くが消失してしまいました。

伊能忠敬の測量はひたすら地道な作業だった?

伊能忠敬の日本地図作成には、なんと17年の年月がかかりました。

それはひたすら地道な作業であったと言われています。

伊能忠敬の測量法は、導線法、交会法、さらにこれに天体観測を組み合わせて、ひたすら繰り返し測量することで制度を出す方法でした。

導線法とは、距離と方位を測りながら進んでいく測量法です。

しかし、導線法には誤差ができやすく、そのため合わせたのが交会法です。

交会法は、遠くまで見渡せる山の上に立ち、目標物の方位を測って誤差を修正する方法です。

そして、夜に晴れていれば、必ず天体観測をしていました。北極星などの星から現在の位置を割り出して、測量結果が正しいかの確認をするためです。

伊能忠敬はこの繰り返しによって精度の高い日本地図を完成させたのでした。

ちなみに忠敬が距離を測るために用いたのは、自分の歩数です。

忠敬は自分の歩幅を計測し、毎回同じ歩幅で歩けるように訓練した上で、歩数から指定区間の距離を計算していたのです。忠敬の歩幅は69cmであったと言われています。

そして、実際に忠敬が歩いたと言われている距離はおよそ4万km。この4万kmは、ちょうど日本一周分に相当するそうです。

伊能忠敬は測量の最中に亡くなった?

伊能忠敬が完成させたと言われている大日本沿海輿地全図ですが、実は忠敬は完成図を見ていないのです。

どういうことかというと、忠敬はなんと完成間近にして測量の最中に亡くなってしまったのです。

1817年の秋頃から、忠敬は喘息がひどくなり病床につくようになってしまいます。
それでもその年中は、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていました。

しかし、1818年になると急速に身体が衰え、ついにはそのまま弟子たちに見守られながらその生涯を終えることになります。

このとき、まだ地図は完成していませんでした。
忠敬の死から3年後に弟子たちによって地図は完成され、幕府に提出されました。

その時に隠していた伊能忠敬の死も公表されました。17年もかけて作成した地図だっただけに、忠敬の無念さは計り知れませんね。

伊能忠敬の性格がわかるエピソード

日本地図を作り上げるという大業を成し遂げた伊能忠敬ですが、どんな性格をしていたのでしょうか?ここでは、エピソードを交えながら、忠敬の性格について簡単に解説していきます。

伊能忠敬は厳格で真面目な性格だった?

伊能忠敬は非常に厳格で真面目な性格であったと言われています。

測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていました。

測量は僅かなズレも許されない仕事であったからこそのことでしょう。

どれだけ忠敬がこの測量に対して真摯に取り組んでいたのかが伺えます。
ただ、その厳格さ故に、意識の低い隊員に対する評価はとても厳しくなっていたようです。

伊能忠敬は測量中に娘に手紙を度々書いていたのですが、そこには隊員の愚痴がたくさん書かれていたそうです。真面目であるが故に、許せないこともたくさんあったのかもしれませんね。

伊能忠敬は金銭にも厳しかった?

伊能忠敬は金銭にも厳しかったと言われています。

身内には「貯めることが第一」と説いていたとか。

江戸に住んでいた頃も、
「江戸よりも佐原の卵のほうが安いから、佐原で多めに購入して江戸に送って欲しい」
と頼んでいたくらい、絞れるところは絞っていたようですね。

しかし、だからといってケチだというわけではなく、いざという時はパーッと使うような度量も持ち合わせていました。

九州で測量していた時のことでした。

その際に利根川が氾濫してしまい、それを聞いた伊能忠敬は私財を切り崩して施しをしているのです。また、測量に必要な道具も最初は自腹で揃えていました。

このように、引き締める部分は引き締め、使う時は惜しまずに使うと、忠敬は生きたお金の使い方を心得ていたのでしょう。

伊能忠敬は49歳になってから本格的に天文学を学び始めた?

伊能忠敬は、49歳になったときに、以前から興味のあった「暦学」について本腰を入れて学びたいと考えました。

そこで、家の商いを長男に任せ、自身は暦学や天文学の勉強に没頭するようになります。

そして、家を隠居してから、江戸に移り住み、そこで暦学で高い評価を得ていた高橋至時に弟子入りすることにします。至時は最初忠敬の弟子入りを拒否したそうです。忠敬と至時の年齢差はなんと19歳。当然年齢のことが懸念点としてあったのでしょう。

しかし、伊能忠敬はその際に
「いや、わしは51歳になったばかりだ」
と言ったそうです。

忠敬としては、「もう51歳」ではなく「まだ51歳」だと考えていたわけですね。

その熱意に負けたのかはわかりませんが、無事に忠敬は至時の弟子になることに成功します。

この前向きさが周囲を動かすこととなり、日本地図作成という大規模なプロジェクトを開始するきっかけとなったといっても過言ではないでしょう。何かを始めるのに、遅すぎるということはないということを、忠敬は身を持って教えてくれていますね。

まとめ:伊能忠敬は前向きな挑戦心と行動力を持ち合わせた人物であった

伊能忠敬は、50歳になってから天文学者に弟子入りし、その後日本地図の作成に取り掛かりました。当時の50歳以上といったら、相当な高齢にあたります。それにも関わらず日本地図を作り上げました。それは一重に、忠敬が前向きな挑戦心と行動力を持ち合わせていたという証になるでしょう。

今回の内容をまとめると、

  • ・伊能忠敬は、幼少期に親戚をたらい回しにされたり、妻が次々と早くに亡くなったりと波乱万丈な人生を送っていた
  • ・商才を発揮し、婿入りした伊能家を立て直した
  • ・50歳の時に高橋至時に弟子入りする
  • ・55歳から日本地図を作ろうと測量を開始する
  • ・日本地図完成間近で惜しくも亡くなる
  • ・亡くなった後に、弟子たちが『大日本沿海輿地全図』を完成させた

伊能忠敬は高齢でも、日本地図の作成という大業を成し遂げました。
たとえ何歳になっていても、自分のやりたいことにチャレンジしていくその姿勢は、今現在を生きる私達も見習うところがありますね。

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