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前田家の家紋は「梅鉢紋」菅原道真がルーツ?その意味や由来を簡単に解説!

前田家は、戦国時代に前田利家が台頭し、江戸時代には加賀藩を治めていました。
百万石をも超える領地を治めていた前田家ですが、その家紋は「梅鉢紋」というものでした。
この家紋にはどのような意味が込められているのでしょうか?

この記事では、前田家の家紋について、その意味や由来を簡単に解説していきます。

前田家の家紋は「梅鉢紋」

梅鉢紋

前田家の家紋は梅鉢紋というものです。この家紋はどのような意味が込められているのでしょうか?ここでは、使用されていた梅鉢紋について簡単に解説していきます。

梅鉢紋にはどんな意味が込められている?

梅鉢紋は、梅の花の中央に、おしべとめしべがみえるような梅そのもののようなイメージの家紋です。この「鉢」は、家紋の中央が太鼓を叩くときのバチのように見えたことから付けられたと言われています。

梅鉢紋のモチーフとなっている梅は、地域や種類によっては1月でも開花するので「早春の花」と言われていたり、1月や2月の雪の降る時期にも咲くので「冬の花」とも言われていたりします。

冬の寒さに負けずしっかりと咲くその力強さは、戦国武将の在り方としてぴったりだったのかもしれません。また、植物は繁殖力が強いということで、一族の繁栄に繋げるという意味で植物モチーフの家紋を採用していた家は多かったようです。

宗家と支藩では違う梅鉢紋?

前田家の家紋は梅鉢紋ですが、実は宗家と支藩では少し違う梅鉢紋を使用していました。

それぞれの梅鉢紋を解説していきます。

■宗家:加賀梅鉢(幼剣梅鉢)
花芯に短小な剣を加えたもの

■支藩 富山藩:富山梅鉢(丁子梅鉢)
花芯に丁子型の剣を加えたもの

■支藩 大聖寺藩:大聖寺梅鉢(瓜実梅鉢)
花芯に瓜実状の剣を加えたもの

■支藩 七日市藩:星梅鉢
花芯に花梗(かこう)・剣を付けずに星形のもの

このように、主な違いとしては真ん中の花芯の周りが変わっているということですね。

前田利家は「桐」と「菊」の紋も下賜されていた?

前田家の中でも特に有名な前田利家は、実は豊臣秀吉から「桐」と「菊」の紋も下賜されていました。この2つの家紋はとても位の高いものでしたが、前田利家は使うことはなかったようです。

それというのも、この時代では替紋といって、その家の定まった紋以外の紋も使用している家が多かったのですが、前田家は代々替紋を使用していなかったようなのです。

それほどまでに、この梅鉢紋というものに思い入れがあったのかもしれませんね。

梅鉢紋の由来はどこから?

梅鉢紋のモチーフである梅の花は戦国武将にとって大事な、我慢強さや繁栄を表していました。
それでは、前田家はなぜこの梅鉢紋を選んだのでしょうか?

ここでは、梅鉢紋の由来について簡単に解説していきます。

梅鉢紋は元々菅原氏が使用していた?

梅鉢紋は、前田家が使用する前に、元々菅原氏が使用していたと言われています。

菅原氏の中でも有名な菅原道真は、梅の花を好み、庭にある梅の木をとても大切にしていました。

しかし、ある日突然道真は大宰府に左遷されてしまい、都を離れなくてはならなくなった道真は、大切にしていた梅の木を思いながら、

「東風(こち)吹かば にほひよこせよ梅の花 主なしとして 春を忘るな」

と詠みました。

意味としては、
「東の風が吹いたら、私のところにその香りを届けてください。私がいなくなっても、春を忘れずに花を咲かせてください」
というものです。

菅原道真の梅の木への愛着や無念さがよく表れていますね。

このように梅が好きな道真のことを思ってか、菅原道真を表す紋として「梅鉢」が使用されるようになったと言われています。
ちなみに、菅原道真が祀らえれている太宰府天満宮にも梅鉢紋が使用されています。

前田家は出自を菅原氏だと自称していた?

先程もお伝えしたように、梅鉢紋は元々菅原氏が使用していた紋でした。

それでは、前田家は菅原氏と関係があったのでしょうか?

実は本当に関係があったかどうかは謎のままなのです。

それというのも、前田家の出自がはっきりとわかる資料はなく、前田家自身が出自を菅原氏だと自称していただけなのです。

前田家は、自分たちは美作菅氏(菅原氏の一族で、美作国(現在の岡山県東北部)に定住していた。武家の名門)の末裔だと自称しました。

その信憑性を上げるために梅鉢紋を採用したのでしょう。

加賀藩の支配に家紋が役に立った?

なぜ前田家は菅原氏の末裔ということにしたかったのでしょうか?

それには、この前田家が支配していた加賀藩という土地の性質が関係してきます。

当時、加賀藩を含む北陸は「天神信仰」と呼ばれる独特の神道を信仰していました。

この神道では、
「天満大自在菅天神(てんまんそらみつだいじざいてんじん)」として菅原道真を祀っていたのです。

天神信仰では、長男が生まれた家は正月に道真の掛け軸や道真の木彫人形を飾るという習慣がありました。

つまり、この土地の人々にとって、道真はとても身近な存在であり、信仰する対象だったのです。

その菅原道真が使用していた「梅鉢紋」の存在は、言うまでもなく前田家と加賀藩の人々の心を繋いだのでしょう。前田家はこの効果を狙って、菅原氏の末裔を名乗ったのかもしれません。
ちなみに、前田家がこの梅鉢紋を使用し始めたのは、三代目藩主・前田利常の時代のようです。

梅鉢紋の由来はイタリアから来ているという説も?

実は、梅鉢紋の由来はイタリアから来ているという説も存在します。

当時のヨーロッパで強い財力を持って君臨していたメディチ家は、「パッレ」と呼ばれる紋章を使用していました。このパッレが梅鉢紋に非常に似ているのです。

メディチ家は、薬種香辛料貿易で財をなした家です。
パッレはそんなメディチ家の祖業に由来する、スパイス・丸薬そして貨幣を象徴していると言われています。

加賀前田家は、商工業や交易を奨励し、特に薬種産業を重視していました。

そのため、メディチ家のようになれるようにと、パッレを模した梅鉢紋を使用したのではないかということなのです。

梅鉢紋を使用していた著名人は他にも?

前田家の使用していた梅鉢紋ですが、実は他にも使用していた著名人がいます。
ここでは、前田家以外の梅鉢紋を使用していた著名人たちを簡単にご紹介していきます。

梅鉢紋を使用していた著名人一覧

・筒井順慶
筒井順慶は2歳で家督相続をしたという苦労人です。さらに順慶は、あの織田信長に反旗を翻した人物であり、明智光秀と親交が深かったとも言われています。

・平賀源内
平賀源内は、作家であり、画家であり、陶芸家であり、さらに発明家でもあったという稀代の天才でした。しかし、天才ゆえに人々に理解されず、最期は獄中で発狂しながら亡くなったと言われています。

・山下清
山下清は日本の画家です。生まれつき障害を抱えながらも、優れた芸術的才能を発揮し、国内を放浪しながら素晴らしい作品を描き続けました。ドラマや映画の「裸の大将」でも取り上げられているため、知っている人も多いのではないでしょうか。

・岡本太郎
岡本太郎は日本の芸術家です。「芸術は爆発だ」のフレーズが流行語になったり、大阪で行われた万国博覧会では「太陽の塔」を作ったりして有名になりました。

まとめ:前田家の家紋は加賀藩を支配する上で重要な役割を果たしていた

前田家の使用していた家紋は梅鉢紋でした。その梅鉢紋は菅原道真も使用していたとされており、そのことは前田家が加賀藩を支配するのに重要な役割を果たしていたようです。

今回の内容をまとめると、

  • 前田家の家紋は梅鉢紋
  • 宗家と支藩では、少し違った梅鉢紋を使用していた
  • 前田家は当時の大名家としては珍しく替え紋は用いておらず、梅鉢紋のみを使用していた
  • 梅鉢紋を採用したのには、前田家がその出自を菅原氏だと自称していたからという説がある
  • 菅原氏が梅鉢紋を使用していたことが、前田家の加賀藩支配に役立っていた

前田家が菅原道真の子孫かどうかは、確かな資料が存在していません。しかし、自分の治める加賀藩の性質を知った上で、自分の出自を菅原氏としたのであれば、前田家は相当な策士であったと言えるでしょう。

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