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赤穂浪士に生き残りはいた?忠臣蔵とは?生き残りはどんな人?簡単に解説!

赤穂浪士とは、江戸時代初頭に起きた赤穂事件の際に、吉良邸に討ち入りを行った人たちのことを指します。

赤穂事件は、忠臣蔵とも呼ばれ、映画やテレビなどのメディアでもよく取り上げられているため、ご存知の方も多いでしょう。

赤穂浪士は全部で47人だと言われていますが、その生き残りはいたのでしょうか?

この記事では、赤穂浪士の生き残りについて簡単に解説していきます。

赤穂浪士とは忠臣蔵で活躍した人たち?

赤穂浪士は忠臣蔵で活躍した人たちのことを指します。
それでは、そもそも忠臣蔵とはどのような事件だったのでしょうか?

ここでは、忠臣蔵についてや、事件後どのような処分を受けていったのかを簡単に解説していきます。

忠臣蔵とは?簡単に解説

忠臣蔵は簡単に言えば、主君の敵討ちをしようと家臣たちが討ち入りをしに行ったという事件です。

これの事の発端は、1701年(元禄14年)に赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松之大廊下で高家・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に切りかかったことでした。

斬りかかった原因は不明ですが、この時江戸城では幕府が朝廷からの使者を接待している最中でした。

そのため、場所柄もわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対して、第五代将軍・徳川綱吉は大激怒。

浅野は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上改易されてしまいます。

しかし、それに対して吉良側にはお咎めがありませんでした。

このことがきっかけで、浅野の家臣たちは様々な会議を経た後、吉良を討ち取ろうということになったわけですね。

そして、1703年(元禄15年)に吉良邸に侵入し、吉良を打ち取ります。

このとき参加した47人の家臣たちのことを赤穂浪士と呼んでいるわけですね。

赤穂浪士はほぼ全員切腹した?

この赤穂浪士の事件で吉良邸に侵入したのは47人です。

討ち入りは成功し、吉良側は屋敷にいた約150人のうち45人が死傷しました。

その一方で赤穂浪士側は、なんと2人が負傷したのみで、死者は0人でした。

当時、仇討ちは公的に認められた権利でもあり、殺人罪にはなりませんでした。
そのため、赤穂浪士たちも仇討ちに成功し、何も罪に問われないはずでした。

しかし、赤穂浪士たちの行動はなんと仇討ちだと認められなかったのです。

その理由としては、当時仇討ちと言えば 「父母兄弟を中心とした親族のため」が大半で、「主君のため」というのが初めてのケース だったからです。

そのため、これが仇討ちと認められるか否かの議論が行われ、最終的には 「将軍様のお膝元である江戸城下を徒党を組んで押し込んだという罪」 で、赤穂浪士は切腹させられることとなってしまったのでした。

一人だけ切腹せずに生き残った人物がいる?

赤穂浪士は切腹させられてしまいましたが、実は一人だけ切腹せずに生き残った人物がいました。

それは寺坂吉右衛門という人物です。

この吉右衛門も赤穂浪士として忠臣蔵に参加していました。

しかし、討ち入りが成功し、浪士たちが主君の眠る泉岳寺の墓前へ報告に向かったときには、すでに吉右衛門の姿が消えていたと言われています。

このように、赤穂浪士は47人で討ち入りに入ったのですが、終わったときには46人になってしまっていたのです。

もちろん切腹を行ったのも46人で、吉右衛門は切腹から逃れました。

赤穂浪士の家族はその後どうなった?

赤穂浪士は残念ながら罪人となってしまいました。

一家の当主が罪人になってしまった場合、男子の遺族は罰せられ、妻と女子、僧籍にある男子は免除されるということになっていました。

そのため、赤穂浪士の遺族たちにもそのような処分がくだされます。

赤穂浪士46人には、全家族合わせて19人の男子の遺児がいました。

そのうち15歳以上であった4人は流刑にされ、14歳未満であった残りの男子は15歳になるまで刑は猶予されました。その一部は仏門に入るなどして刑を免れたようです。

赤穂浪士の生き残りが生き残った理由とは?

赤穂浪士には一人だけ生き残った人がいました。それは、寺坂吉右衛門という人物です。

それでは、なぜ吉右衛門は直前になって逃亡してしまったのでしょうか?

ここでは、吉右衛門が生き残った理由について簡単に解説していきます。

寺坂吉右衛門は敵前逃亡した?

寺坂吉右衛門は討ち入り開始時には、裏門組の主戦部隊として確かに参加していました。

しかし、終わった後点呼してみると何故かいないのです。

大石内蔵助や、赤穂浪士ナンバー2であった吉田忠左衛門は、吉右衛門は討ち入り前に敵前逃亡したと言っていました。

特に忠左衛門は、忠臣蔵の後のお預け中(軟禁中)、吉右衛門のことを聞かれて、

「此の者は不届者にて候、重ねて其の名を仰せ下されまじき」

(寺坂は不届き者です。二度とその名を口に出さないでいただきたい)

とまで厳しく言ったとされています。

寺坂吉右衛門は陪臣だった?

赤穂浪士は大体が浅野内匠頭の家臣で構成されています。

しかし、寺坂吉右衛門だけは違いました。吉右衛門は陪臣だったのです。

陪臣とは、家臣の家臣のことで、吉右衛門の主人は浅野内匠頭ではなく吉田忠左衛門でした。
吉右衛門は忠左衛門に頼み込んで討ち入りに参加させてもらったのです。

吉右衛門の他の陪臣にも、討ち入りへの参加を希望する人はいたのですが許可されませんでした。(無駄な血を流したくないから手を出すなという配慮であったとされています)

しかし、そんな中でも参加を許された吉右衛門ですから、相当腕が立つ人物であったことが伺えます。そのような人が敵前逃亡などするのでしょうか?

実は吉右衛門が逃亡したのには理由があったとされています。

しかし、それにはいくつか説があり、どれが正しいのかまでは判明していません。

  • 大石内蔵助から「生き証人となれ」との密命を受けた
  • 足軽の者に頼ってまで討ち入りしたと言われては、武士の面目が立たないので逃亡させられた
  • 大石らが足軽という低い身分にも関わらず、討ち入りに参加してくれた吉右衛門を生かしてやりたかった

いずれにせよ、足軽という身分であったからこそ、幕府の追求が緩かったのも事実としてあったようです。

こうして赤穂浪士は46人が切腹させられ、吉右衛門1人だけが生き残ったのです。

寺坂吉右衛門は83歳まで生きた?

寺坂吉右衛門は、46人が切腹したその一年後に仙石伯耆守の元に自首しに行っています。

しかし、お咎めなしとされ、若干の金子までもらい無罪放免されてしまいます。

さらに、吉右衛門は麻布・絶江坂の曹渓寺住職の計らいで、山内家に士分として取り立てられることになります。

そして、その後は多くを語らず、83歳まで生き、天寿を全うしました。

そもそも討ち入りに参加できなかった人もいる?

赤穂浪士の生き残りは一人だったとお伝えしましたが、実はそもそも討ち入りに参加したくても参加できなかった人たちも存在するのです。

ここでは、討ち入りに参加しなかった人たちについて簡単に解説していきます。

ワケあって参加できなかった人たち

・高田郡兵衛(たかだぐんべえ)
郡兵衛は、浅野家が断絶となった時に城での籠城を主張し、城を明け渡してからは仇討ちすることを主張していた人物です。討ち入りに乗り気だった郡兵衛ですが、討ち入り前に伯父である旗本から養子にならないかと誘われます。
これに対し郡兵衛は

「存じ寄りある(思うところがある)」

と言って断りました。

しかし、

「それ(思うところ)は仇討ちのことであろう。養子に来れば黙っているが、そうでなければ上の者へ訴えでる」

と脅されてしまうのです。

郡兵衛はやむを得ず、討ち入り計画を口外しないことを条件に養子を受け入れることにしました。こうして討ち入りに参加できなくなってしまったのです。

同志たちのためを思って身を引いた郡兵衛でしたが、同志たちは突然の離脱に激怒してしまいます。

討ち入り成功後の宴の席に、郡兵衛が祝い酒を持って行ったら、罵声を浴びせられ追い返されたという逸話もあるほどです。
郡兵衛は自分の悲願も達成できず、同志たちにも裏切り者とされ、非常に無念であったことでしょう。

・小山田庄左衛門(おやまだしょうざえもん)

庄左衛門は早くから討ち入りメンバーとして加わっていました。

しかし、お酒が原因でお金に困っており、同志から金5両と小袖を盗んで逃亡してしまい、その後の消息は判明していません。
庄左衛門の父親は、討ち入り後にその事実を知り、息子の行為を恥として切腹しています。

・田中貞四郎(たなかさだしろう)

貞四郎は、浅野内匠頭の遺骸を引き取り埋葬した人物で、討ち入りを強硬に主張する急進派でした。

しかし、お酒と女に溺れて身を持ち崩し、梅毒で顔が変わり果てるほど堕落してしまいます。

そして、自分の命が惜しくなったのか、討ち入りの約1ヶ月前に書状で大石内蔵助に脱盟する旨を伝えました。その後の消息は判明していません。

参加しなかった理由が不明の人たち

・毛利小平太(もうりこへいた)

小平太は、討ち入り前の吉良邸の探索で活躍した人物です。

しかし、討ち入り3日前に突然脱盟してしまいます。脱盟の理由は不明ですが、小平太は最後の脱盟者と言われています。

・瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)

孫左衛門は、大石内蔵助からの信頼の厚い家臣でした。

足軽の矢野伊助と共に、討ち入りに使用する武器を守っていたのですが、討ち入り2日前に突然逃亡してしまいました。こちらも逃亡した理由は判明していません。

討ち入りよりもお家再興にかけていた人たち

  • 奥野定良
  • 進藤源四郎
  • 小山源五左衛門
  • 岡本次郎左衛門
  • 田川九左衛門

上記の人たちは、いずれも大石内蔵助の親戚であったり、浅野家家臣の中でも高禄であった人たちです。この人たちはお家再興にかけていました。そのため、京で行われた円山会議で仲間の方針が仇討ちへと変わると、それに反対して脱盟していってしまったのです。

まとめ:赤穂浪士の生き残りは存在したが、どうして生き残ったのかは謎に包まれている

赤穂浪士はそのほとんどが事件後に切腹させられてしまいましたが、実は一人だけ敵前逃亡し生き残った人物がいました。その逃亡には様々な理由が考えられており、未だに謎に包まれています。

今回の内容をまとめると、

  • 忠臣蔵は浅野内匠頭の家臣たちが主君のために討ち入りに行ったものであった
  • 赤穂浪士と呼ばれる人たちは、全部で47人いた
  • そのうち寺坂吉右衛門という1人だけが敵前逃亡し、切腹を免れた
  • 寺坂吉右衛門が逃亡した理由は判明していない
  • 忠臣蔵の生き残りは天寿を全うし、83歳まで生きた

赤穂浪士たちのほとんどが切腹して亡くなっていった中、一人残された寺坂吉右衛門はどのような心情だったのでしょうか。どんな逃亡理由があったにしろ、自首をしに行っているわけですから、他の仲間たちと同じ処分を受けようとしていたのではないかと考えてしまいますね。

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