平清盛と源頼朝の違いは?関係はどうだった?なぜ源平は戦ったのか?

平清盛と源頼朝の違いは?関係はどうだった?なぜ源平は戦ったのか?

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平安時代、平氏を代表する平清盛。鎌倉幕府をひらいた源氏の代表とも呼べる源頼朝。
二人は、平氏と源氏のトップとして源平合戦を繰り広げました。

そんな平清盛と源頼朝の関係はどのようなものだったのでしょうか?

今回は、平清盛と源頼朝にはどんな違いがあったのか?関係はどうだったのか?なぜ、平氏と源氏は戦うことになったのか?について簡単に解説していきます。

平清盛と源頼朝

平清盛と源頼朝は、貴族中心の平安時代から武士が政治に関わる時代に大きく日本が変った時代に活躍した人物です。

二人の関係はどのようなものだったのでしょうか?
まずは、二人のプロフィールを見ていきましょう。

【平清盛と源頼朝の簡単なプロフィール】

  • 平清盛(たいらのきよもり)
  • 生年月日:1118年2月17日(永久6年1月18日)
  • 没年月日:1181年3月27日(治承5年閏2月4日)(享年64歳)
  • 源頼朝(みなもとのよりとも)
  • 生年月日:1147年5月16日(久安3年4月8日)
  • 没年月日:1199年2月16日(建久10年1月13日)(享年53歳)

平清盛と源頼朝は、30歳以上の年齢差がありました。
平清盛は、源頼朝の父親の源義朝と同年代なのです。

平清盛の「平氏」も源頼朝の「源氏」も、どちらも天皇の子孫であるという共通点があります。
「平氏」も「源氏」も、平安時代に臣籍に降下した皇族たちが、姓として「平」や「源」を名乗ることで始まったのです。
そのため、どのタイミングで臣籍降下したかで、異なる天皇の末裔となっています。

平清盛は「桓武天皇の末裔」であり、源頼朝は「清和天皇の末裔」といえます。
平清盛の平氏の方が先に発祥したのですね。

平清盛と源頼朝の活躍した時代

平清盛と源頼朝は平安時代の後期に活躍した武士です。
二人が活躍した平安時代後期はどのような時代だったのか?見ていきましょう。

平安時代の後期になると、朝廷の武官や豪族などの「武芸」に特化した者たちがまとまり、「武士団」として勢力を強めていきました。武士団はしだいに、大きく2つの勢力にまとまっていきます。

この2大勢力が「平氏」と「源氏」というわけです。

そんな中、平清盛を筆頭とする「伊勢平氏」と、源頼朝の父の源義朝を棟梁とする「河内源氏」が、政治の権力争いで対立する貴族の元にそれぞれ付いて戦うことになりました。

この、平氏と源氏が最初に対峙した内戦は「平治の乱」とよばれています。

平氏と源氏の対立は、「平治の乱」から始まったとされています。

平清盛が源頼朝の命を救った?

平治の乱がおきた1159年(平治元年)、平清盛は42歳、対して、源頼朝はわずか13歳でした。

源頼朝は平治の乱が初陣だったといわれています。

平治の乱は、平清盛が率いる平氏が勝利します。

源氏のおもな武将は殺されますが、源頼朝は処刑されず、伊豆国に流刑されました。

源氏の跡取りである源頼朝は、なぜ処刑対象にならなかったのでしょうか?

一説では、源頼朝の容姿の可愛らしさと健気な様子に心を打たれた平清盛の義母の池禅尼いけのぜんにが平清盛に口添えし、平清盛は温情をかけ、源頼朝の刑を死刑から流刑へと変えたと言われています。

平清盛が、この時別の決断をしていたら、もしかした平氏は滅亡しなかったかもしれないと考えると、なんともいえない気持ちになりますよね。

平清盛と源頼朝の違いは?

平清盛と源頼朝とでは、どのような違いがあるでしょうか?

平清盛と源頼朝の違いは、祖先の違いが挙げられます。

平氏も源氏も、平安時代に皇位継承の可能性がなくなったような皇族たちが臣籍に降下し、姓として「平」や「源」を名乗ることで始まりました。
つまり、どちらも天皇の末裔なのです。
しかしながら、どのタイミングで臣籍降下したかで、異なる天皇の末裔となっています。

平清盛は桓武天皇の末裔

平清盛は、桓武天皇かんむてんのうの末裔といわれています。

桓武天皇は、平安京の遷都をおこなった天皇として有名ですよね。

桓武天皇のひ孫の高望王たかもちおうが臣籍降下し、「平」姓を賜ったことが平氏の起こりとされています。

源頼朝は清和天皇の末裔

源頼朝は、清和天皇せいわてんのうの末裔といわれています。

清和天皇は、藤原氏による摂関政治の始まりとなった天皇として知られています。

清和天皇の孫の六孫王ろくそんおうが臣籍降下し、「源」姓を賜ったことが源氏の起こりとされています。

平清盛と源頼朝の性格の違い

平清盛と源頼朝の性格の大きな違いは、身内への親密度といえるのではないでしょうか。

平清盛は、自身の朝廷での地位を確立すると、一族や家臣を重用し、政治の中心には平氏の人材が配置されるようになります。
傲慢な独裁者とされることも多い平清盛ですが、その性格は、寛容で情け深い性格の人情派であったようにも感じられます。
一方で、自分の身内を大事にする性格が、他の武士たちの反感を生み出し、平氏滅亡に繋がったと考えることもできるかもしれません。

源頼朝は、忠義が疑わしい人物を次々と処刑しています。

弟の源義経や、いとこの子の源義高なども処刑しており、兄弟も親戚も関係ありません。

源頼朝が、慎重でドライな性格を貫いていたからこそ、鎌倉幕府を創設し、武家政権を確立することができたのではないでしょうか。
一方で、親族を容赦なく処刑したが、源氏が4代で途絶えることに繋がったと考えることもできるかもしれません。

性格の違いはありましたが、平清盛も源頼朝も、高いカリスマ性で時代を切り開いていた点はどちらも共通している部分といえるでしょう。

平清盛と源頼朝の戦い

源平合戦とも呼ばれる、平氏と源氏の争い、平清盛と源頼朝の戦いを見ていきましょう。

【平氏と源氏の主な戦い】

  • 1156年(保元元年)保元の乱 
  • 1159年(平治元年)平治の乱
  • 1180年-1185(治承4年-元暦2年/寿永4年)治承・寿永の乱
    (源頼朝の挙兵から平家の滅亡までの争い)

平清盛と源頼朝の戦い(保元の乱と平治の乱)

平清盛と源頼朝の戦いのきっかけは、源頼朝の父親「源義朝」の時代までさかのぼります。

平氏と源氏が対立する発端となった「保元の乱」と、対立の始まりとなった「平治の乱」を解説していきます。

【平清盛と源頼朝の戦い】

  • 保元の乱 1156年(保元元年) 場所:白川北殿
  • 平治の乱1159年(平治元年) 場所:平安京

保元の乱をわかりやすく解説

崇徳上皇と後白河天皇は皇位継承をめぐって争いをしていました。
1156年(保元元年)、二人は武士団の力を使い武力で対立します。この政変を「保元の乱」といいます。

のちに争うことになる平清盛と源義朝は、この時点では味方同士として後白河天皇方に付き、勝利しました。

この戦いでの功績を認められ、平清盛は上級貴族の仲間入りを果たし、武士の権力をますます強めることに成功します。

保元の乱は、平清盛も源義朝も、ともに仲間として戦いました。
後白河天皇が勝利したため、平清盛も源義朝も褒美をもらっています。

【保元の乱の功績で授けられた褒美】

平清盛・・・播磨守はりまのかみに任じられる

源義朝・・・左馬頭さまのかみに任じられる

※播磨守とは…播磨国の受領国司です。
播磨国は京に近く物産も豊かな国であったため、収入も多く見込める土地で、播磨守は、受領国司中最高の職とされ、天皇の近臣が任命されるのが例となっていました。
播磨守の後、公卿へと昇進していく例も多く、公卿の一歩手前のポジションといった重要なポストに武士である平清盛が就いたことは、相当の快挙だったろうと思われます。

※左馬頭とは…朝廷の馬を管理する部署のトップです。
当時の馬は軍事的役割が大きかったため、朝廷の軍事的組織のトップに相当します。
現代で言うところの自衛隊のトップといったところでしょうか。

平治の乱をわかりやすくに解説

共に勝利者となった平清盛と源義朝ですが、その3年後に「平治の乱」で対立関係になります。

「平治の乱」の原因は、「保元の乱」の後、平清盛ばかりが厚遇され、源義朝が不満を募らせたため起こしたとの説が有力です。

保元の乱の後、後白河上皇の側近の信西しんぜいが平清盛を厚遇しました。
そのことに不満を募らせ、信西を敵とみなした源義朝が、反信西派の側近と結びつき、「平治の乱」を起こしたというのです。

源氏と平氏の戦いの年表

源氏と平氏の戦いの経緯を、年表で簡単に紹介していきます。

【源氏と平氏の戦いの年表】

  • 1156年(保元元年)保元の乱
    平清盛と源義朝は、後白河天皇方に付き、勝利する
  • 1159年(平治元年)平治の乱
    平清盛と源義朝が戦い、平清盛が勝利する
    源義朝は殺害され、源頼朝は伊豆に流刑される。
  • 1180年(治承4年)源頼朝の挙兵
    以仁王の挙兵を命じる文書が全国的に広まり、平氏に対する挙兵活動が各地で勃発する
    源頼朝も伊豆国で挙兵し、敗戦を経るも、鎌倉入りを果たす。
  • 1181年(治承5年)平清盛の死
    平清盛が64歳で亡くなる。
    源氏と平氏の戦いが激化していく
  • 1185年 (元暦2年/寿永4年)平家の滅亡・鎌倉時代がはじまる
    壇ノ浦で源氏に追いつめられた平氏は滅亡する
    源頼朝が諸国に守護・地頭を設置し、鎌倉幕府の統治基盤が整えられる
  • 1192年(建久3年)源頼朝が征夷大将軍に任命される
    源頼朝が征夷大将軍に任命され、全国の武士を従える地位につく

平清盛と源頼朝の関係の終焉。清盛の死から平氏の滅亡

1181年(治承5年)に平清盛が64歳で亡くなります。

一躍台頭してきた源頼朝を討伐しようと、平氏一同を率いて鎌倉に総攻撃をかけようとした前日に突然、平清盛は原因不明の熱病に侵され、そのまま三日三晩うなされ悶え苦しんだ末に亡くなったといわれています。

平清盛が亡くなった後、後を継いだ平宗盛のもとに、源頼朝から「平氏と源氏の和睦の申し入れ」が密に届いたとのエピソードが残されています。

もしかしたら、この和睦の申し入れは、平清盛が幼少期の源頼朝の命を取らなかったことへの恩返しなのかもしれないと、想いを馳せてしまいます。

しかしながら、源頼朝からの申し入れは、平氏は受けとりませんでした。

その後、栄華を極めた平氏は、平清盛の死を境に没落していき、平清盛が亡くなってから4年後には、壇ノ浦で源氏に追いつめられて滅亡したのです。

まとめ:平清盛と源頼朝には意外な共通点がたくさんあった

平清盛と源頼朝には、天皇の子孫であることや、もとは味方同士であったことなど、共通点がたくさんあることがわかりました。
今回の内容をまとめると、

  • 平清盛も源頼朝も天皇の末裔
  • 平清盛は、源頼朝の父と同世代
  • 平氏と源氏は、最初は味方同士だった
  • 平清盛は、源頼朝の命を救ったが、最終的には源頼朝に平氏を滅ぼされた

平氏の代表とも呼べる平清盛が武士の地位を格上げし、源氏の代表とも呼べる源頼朝が武家政権を開いた。
二人の活躍が、その後へ続く武家政権をひらいたと考えると、なんとも感慨深いですね。

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