加藤清正は築城の名手だった?その城造りの技術と清正にゆかりのある城を解説!
加藤清正(1562-1611)は賤ケ岳の七本槍と呼ばれ、虎退治の伝説など、猛将として知られる人物です。
その強さにばかりフォーカスされますが、加藤清正は築城の名手でもありました。
今回は、加藤清正の築城した城、領地だった熊本城を始めとする城造りの技術、手腕をご紹介します。
目次
加藤清正は築城の名手だった?
加藤清正は、自身の本拠地である熊本城の他にも多くの城造りに携わり、その築城技術の高さを買われていました。
加藤清正が築城に携わった城を見ていきましょう。
加藤清正が築城した城
・佐敷城(熊本県葦北郡芦北町佐敷49-1 )
南北朝時代から存在していたといわれている城です。
1589(天正17)年、加藤清正が石垣を巡らした近世の城郭に改修しました。
・熊本城(熊本県熊本市中央区本丸1-1)
豊臣秀吉から肥後北半国を与えられ、加藤清正が1591(天正19)年より隈本城に改修を加えました。
1606(慶長11)年完成を機に熊本城と名称を変更しました。
・名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町名護屋4209)
1591(天正19)年、豊臣秀吉の命により普請奉行を務めました。
他にも縄張りに黒田官兵衛、普請奉行に黒田長政、小西行長、寺沢広高など九州の諸大名が動員されました。
・西生浦倭城(大韓民国)
1593(文禄元)年文禄・慶長の役において、居城として加藤清正が築城しました。
・機張倭城(大韓民国)
文禄の役で黒田官兵衛らが築城したものを、加藤清正が1595(文禄4)年に改修しました
・蔚山倭城(大韓民国)
1597(慶長2)年、加藤清正が縄張りをし、毛利秀元・浅野幸長らが築城しました
・宇土城(熊本県宇土市熊本県宇土市神馬町280)
1600(慶長5)年、小西行長が築いたものが関ケ原の戦い後に加藤清正へ与えられ、曲輪などが改修されました
・府内城(大分県大分市荷揚町73-75)
1601(慶長6)年、竹中重利が大改修を行うにあたり、加藤清正が石工を数十名派遣しました
・江戸城(東京都千代田区千代田区千代田1-1)
江戸幕府が諸大名に命令して土木工事を行わせる天下普請により、1606(慶長11)年、加藤清正は外郭石壁普請の一人として携わりました。
富士見櫓(皇居東御苑)下の石垣は、1923(大正12)年の関東大震災でもまったく崩れない堅牢さだったため、清正による普請と推測されています。
・名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸1−1)
1610(慶長15)年、天下普請により、加藤清正が最も高度な技術が必要とされる天守台の石垣に携わりました。
・麦島城(熊本県八代市古城町2112)
関ケ原の戦い後に加藤清正へ与えられ、1612(慶長17)年家臣の加藤正方が城代として派遣され改修されました。
・玖島城(長崎県大村市玖島1-43 )
1614(慶長19)年、大村純頼が拡張・改修する際、純頼の父である大村善前と親交のあった加藤清正が設計指導をしたと言われています。(ただし、着工前に清正は死去しています)
※「縄張り」…城の設計のこと。本丸の位置や、堀をどうするかなど、城全体の設計を指します。
加藤清正が築城に関わった城で、今も現存するお城は以下の通りです。
- 熊本城
- 府内城
- 江戸城
- 名古屋城
- 玖島城
日本三代名城と言われている、熊本城・名古屋城の2つに加藤清正が関わっているなんて、いかに加藤清正の築城の技術が信頼されていたかがわかりますね。
加藤清正の城は何がすごい?その城造りの技術を解析!
日本三大名城にも数えられる熊本城には、数々の工夫が凝らされており、それが江戸城や名古屋城にも活かされています。
加藤清正の築城には、どのような技術が使われていたのでしょうか?詳しく見ていきましょう。
敵の侵入を防ぐ「武者返し」鉄壁の石垣
加藤清正は城造りの中でも特に、石垣づくりが得意で、下は緩やかな勾配が上に行くにしたがい垂直に近くなる扇の勾配と呼ばれる積み方を多用しました。
武士だけでなく忍者でさえ登れないという意味で武者返しとも、加藤清正の名前をとって清正流石垣とも呼ばれています。
加藤清正は朝鮮出兵の際に蔚山倭城を築きましたが、この際使用した技術が元になりました。
熊本城は北・東・南の三方にこの高石垣がめぐらされ、唯一地続きの西側には幅10m以上の堀が設置されています。
また、角の多い迷路のような通路になっており、長い直線が少ないため敵側からは見通しが悪く、守る側からは高所から敵を狙い撃ちにしやすい構造です。
武者返しの石垣を最大限に活用し、防衛に優れた縄張り造りをするのが、加藤清正の築城の上手さでした。
実践的な仕掛けが多数
加藤清正は、朝鮮出兵で激しい籠城戦を経験したことから、熊本城は籠城、特に食料の備えが徹底されていました。
建物の土壁にかんぴょうを塗り込め、畳床には食用になる里芋茎を用いていたと言われています。
また城内には120箇所もの井戸があります。
どの井戸も深く水量が豊かで、1877(明治10)年の西南戦争での籠城戦の際にも活用されました。
なお、城内に大銀杏が植えられていることから、熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれます。
これは食糧確保のために植えられたと言われていますが、実際は雄木で実はつかないため、この話は俗説だと考えられています。
加藤家が改易された後、肥後熊本藩は細川家が治めました。
細川忠利が藩主として入城する際、加藤清正が祀られた方角に拝礼し、
「あなたの領地をお預かりします」
と述べて敬意を払ったとされています。
その細川家の治世中、ある櫓の柱が腐ってしまい、解体したところ、
「この柱はどこそこの池に替えの木材を沈めている」
と書いてあり、その池から本当に木材が出てきたという逸話があります。
細川忠利が拝礼するだけのことはある、加藤清正の偉大さがよく分かるエピソードです。
加藤清正は朝鮮出兵の時、晋州城の高い石垣に苦戦したことから、朝鮮の石垣技術を学びました。
熊本城の石垣も高く頑丈に造りたいと考えた加藤清正は、近江国(現在の滋賀県)を拠点に活躍していた石工集団・穴太衆を呼び寄せ、現場監督をさせたと言われています。
加藤清正の城は、藤堂高虎、黒田官兵衛の城とはどう違う?
戦国時代には、三大築城家と呼ばれる城作りの名手が3人いました。
藤堂高虎、黒田官兵衛、そして加藤清正です。
江戸城などの縄張りで利便性を重視した藤堂高虎、三角州を活用するなど地形を生かした築城をした黒田官兵衛と比べ、加藤清正の城は籠城に強いという特徴があります。
武者返しの石垣で敵の侵入を阻み、食料などを備えたことは、何よりも加藤清正の実戦経験から生まれたものでした。
加藤清正は秀吉に仕えることで築城技術を学び、朝鮮出兵で数々の死線を潜り抜けた経験から、このような城造りをするようになりました。
加藤清正を象徴する城「熊本城」はここがすごい!
熊本城には他にも加藤清正をのすごさを象徴する逸話があります。
- 熊本城は豊臣秀頼を迎えるために築城された?
- 西郷隆盛も加藤清正に負けた
それぞれ詳しく見ていきましょう。
熊本城は豊臣秀頼を迎えるために作られていた?
本丸の最深部には昭君之間と呼ばれる部屋がありました。
藩主の居間として使われていましたが、実は有事の際に豊臣秀吉の跡取り豊臣秀頼を匿うよう造られた部屋でないかと言われています。
この部屋には床の上を歩くと音が鳴る鶯張りの廊下や、外に通じる隠し通路があったとされ、居間にしては用心深い造りでした。
昭君之間の名称は、中国の故事に登場する王昭君という絶世の美女の絵があったことに由来しますが、「しょうくん=しょうぐん(将軍)」の隠語とも取れます。
表向きは徳川家康に従いながら、密かに主君だった秀吉への忠義を示していたと言われています。
西郷隆盛は、加藤清正に敗北した
1877(明治10)年、西南戦争が起こります。
西郷隆盛が率いる約15,000の薩摩軍に対し、新政府軍はわずか3,500人で熊本城に籠城しました。
薩摩軍は一斉攻撃を仕掛けますが、3日経っても1人も城内に入ることすらできません。薩摩軍は兵糧攻めに切り替えますが、新政府軍は52日間耐え続け、薩摩軍は熊本城を攻め落とすことができませんでした。
西郷隆盛は、
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」
と言ったそうです。
時代を超えて、最新の装備を持った西郷隆盛軍でさえ敵わなかった熊本城。加藤清正の城造りがいかに素晴らしい技術だったのかが伝わりますね。
まとめ:加藤清正は築城の名手だった!その城造りの技術は、西郷隆盛も唸るほどのものだった
賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた猛将、加藤清正は築城の名手でもありました。
今回の内容をまとめると、
- 加藤清正は「武者返し」をはじめとする築城の名手だった
- 熊本城は籠城戦に強い造りだった
- 西郷隆盛は加藤清正が築いた熊本城に敗北した
2016(平成28)年4月14日、震度7を観測する熊本地震が起こりました。熊本城も石垣が崩れるなど大きな被害を受け、いまだ復興の途上にあります。
加藤清正が築いた美しい城が蘇るよう、これからも継続して応援していきたいですね。