加藤清正は槍の名手だった?賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた男が使っていた武器

加藤清正は槍の名手だった?賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた理由と使っていた武器

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勇猛果敢な武将として知られる加藤清正かとうきよまさ
朝鮮出兵時の虎退治や熊本城の築城など数多くのエピソードがあります。
そんな加藤清正は、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれていたことはご存じでしょうか?
今回はなぜ加藤清正は、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになったのか、使っていた武器はどのようなものだったのか解説していきます。

加藤清正がはどんな槍を使っていた

槍は室町時代中期から流行り、戦国時代にはたくさんの武将が主要な武器として使用していました。
加藤清正ももちろん槍を使って戦に臨んでいます。
加藤清正と槍の関係を象徴する事例をご紹介します。
現在使われている日本手話で、「加藤」を示す単語の一つに「両手の人差し指をやりに見立てて斜め右に突き出す」動作があります。
この動作は、槍の名手だった加藤清正が由来です。
時を超えて現代でも、加藤清正のイメージが根付いていると思うと、感慨深いものがありますね。
加藤清正は、どんな槍を使っていたのでしょうか?
詳しく見ていきましょう。

加藤清正が使っていた片鎌槍

片鎌槍は十文字槍の片方が欠けたような形です。
清正の片鎌槍といえば、朝鮮出兵の際に出くわした虎を退治した逸話が有名です。
加藤清正は、朝鮮で虎に出会した際、「十文字の槍を使って戦いましたが、その十文字の片方が折れたため、折れた部分を研磨して片鎌槍としたという」伝説があります。

しかし実際は、はじめからこの形で作られた槍なのです。
この槍は加藤清正の娘である瑤林院ようりんいんが、初代紀州 徳川頼宣とくがわよりのぶとの結婚の際に持参し、紀州徳川家に清正の槍として伝えられていました。

加藤清正が使っていた大身槍

賤ヶ岳の戦いで、加藤清正が所持していたとされているのが大身槍です。
こちらも瑤林院が初代紀州徳川藩主頼宣との結婚の際に持参しました。
槍とは別に250㎝あまりの青貝殻螺鈿が施された柄が付属しています。
大身槍は非常に長い槍で、大きい分扱いが難しい武器です。
この槍を見事に使いこなし、数々の手柄を立ててきた加藤清正は、やはり槍の名手と言えますね。

加藤清正が使っていた十文字槍

豊臣秀吉が長浜城主だった時代に、加藤清正が使っていたやりが十文字槍です。
この槍の茎の部分には「加藤寅介」(清正の通名)と記載があり、清正が武将として活躍し始めた初期のものだとされています。
十文字槍はその名の通り十文字型の槍で下部には左右の枝刀が出ており、刺すだけではなく、引いても切ることができるため、当時は多くの武将が使っていました。
しかしながら、加藤清正の十文字槍の実物は現存しておらず、押形(実際の武具の形を細かく写しとった図面)が残されるのみです。

加藤清正は槍以外の武器も使っていた?

大河ドラマで武将は刀を身に着けているイメージを持っている方も多いでしょう。加藤清正も槍以外の武器を使っていました。
【加藤清正に縁のある刀】

  • 加藤国広かとうくにひろ
  • 同田貫正国どうだぬきまさくに
  • 日光助真にっこうすけざね

加藤国広は、瑤林院徳川頼宣に嫁いだ際に持たせた日本刀です。
現在は重要文化財になっています。

同田貫正国は、熊本城の初代城主となった際に城の常備刀とされていました。
武器としての実用性を追求した刀で、あまり美術性は高くないため現代での評価は低いそうです。

日光助真は、加藤清正が秀吉の死後に、徳川家康に献上した刀です。
名工と言われる助真が作成し、助真の最高傑作と言われています。
徳川家康の死後は日光東照宮に収納され、1951年に国宝に指定されました。

加藤清正が賤ヶ岳の七本槍と呼ばれていた理由

賤ヶ岳の戦い(Wikipediaより)

豊臣秀吉は1582年(天正10年)に山崎の戦い(現在の京都府乙訓郡から長岡京市)で明智光秀あけちみつひでを討ち、織田信長おだのぶながの仇を打ちましたが、信長の後継者を決める清州会議で柴田勝家しばたかついえとの対立が深まってしまいました。

翌年の1583年(天正11年)とうとう近江(現在の滋賀県長浜市)で賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいが勃発し、その戦いに加藤清正も参戦しました。
この戦いでは当初、柴田勝家軍が優勢で、豊臣秀吉軍は押されていました。
加藤清正は、その戦いの中で敵将である山路正国やまじまさくにを討ち取り、秀吉の勝利に多大な貢献をしました。

加藤清正は、この功績を讃えられ賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになり、3000石の褒美をもらいました。
賤ヶ岳の戦いは、加藤清正が活躍した最初の大きな戦と言われています。

加藤清正以外の賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた武将たち

賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるように、加藤清正以外にも活躍した武将がいます。

  • 脇坂安治わきざかやすはる
  • 片桐且元かたぎりかつもと
  • 平野長泰ひらのながやす
  • 福島正則ふくしままさのり
  • 糟屋武則かすやたけのり
  • 加藤嘉明かとうよしあきら

の6人が、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれました。
彼らは賤ヶ岳の戦いで最前線に立ち、それぞれが大きな功績を残しました。
しかし、この七本槍は語呂合わせで、実際は、桜井家一さくらいいえかず石川一光いしかわかずみつを加えた9人の若い武将が活躍し恩賞を受け取ったという記録があります。
なぜ、賤ヶ岳の七本槍と7人になったのかは諸説ありますが、豊臣秀吉は自らの子飼いの活躍をアピールして、優秀な武将がたくさんいると印象付けたかったのかもしれません。

しかし、加藤清正自身は七本槍の話題をひどく嫌がったという逸話が残っています。
これは、財務や民政において活躍していて賤ヶ岳の戦いの武功が、異例のものだったためといわれています。

加藤清正の槍は清正の死後どこへ行った?

加藤清正の槍として、現存しているのは片鎌槍大身槍です。
この槍は、加藤清正の娘である瑤林院が、初代紀州徳川藩主 徳川頼宣との結婚の際 嫁入り道具として持参し、その後は紀州徳川家に伝えられました。
現在は東京国立博物館に所蔵されています

まとめ:加藤清正は賤ヶ岳の戦いで槍の名手と呼ばれるようになった。

加藤清正は、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるだけあり、槍の名手でした。
また加藤清正が使用していた槍は、現在でも実物が残っており、当時の様子を垣間見ることができます。

今回の内容をまとめると

  • 賤ヶ岳の戦いで活躍し、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになった
  • 加藤清正は数種類の槍を使っていた
  • 鎌以外に刀も使っていた
  • 片鎌槍と大身槍の実物は、現在も東京国立博物館に所蔵されている

加藤清正が使用していた十文字槍は現存していませんが、片鎌槍や大身槍は現在でも大切に保存されています。
400年以上たった今でも、加藤清正が実際に使用していた槍を目にすると、加藤清正の息遣いを感じることができるかもしれませんね。

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