武田信玄の子孫は現代にも続いている?家系図から見る、武田信玄の子孫たち

武田信玄の子孫は現代にも続いている?家系図から見る、武田信玄の子供たち

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戦国最強と名高い武田信玄ですが、武田信玄の家系である甲斐武田氏は、信玄の次に家督を継いだ勝頼の時代に滅亡してしまいました。しかし、滅亡したといっても、全ての子孫が途絶えてしまったわけはありません。
今回は、武田信玄の子孫について、長篠の戦いの後に織田信長と徳川家康の連合軍による甲州討伐を生き抜き、現代までに続いた信玄の子孫の方々に注目していきます。

武田信玄の子孫たち

信玄には正室と三人の側室の間に、7男5女で合計12人もの子供がいました。

【武田信玄の子供たち】

武田義信たけだよしのぶ(長男):1538年(天文8年)~1567年(永禄10年)
母親:三条の方
幼名:太郎
信玄への謀反の疑いにより幽閉され、そのまま死去した。

海野信親うんののぶちか(次男):1541年(天文10年)~1582年(天正10年)
母親:三条の方
幼名:二郎
生まれつき盲目だったため家督は継がず、出家し竜芳と号した。

武田信之たけだのぶゆき(三男):1543年(天文12年)~1553年(天正22年)
母親:三条の方
11歳で幼くして亡くなった。

黄梅院おうばいいん(長女):1543年(天文12年)~1569年(永禄12年)
母親:三条の方
甲相駿三国同盟のため北条氏政ほうじょううじまさに嫁ぐが、三国同盟の破綻時に甲斐に送り返され、その後出家した。

見性院けんしょういん(次女):不明~1622年(元和8年)
母親:三条の方
武田家家臣に嫁ぐ。武田家滅亡後は、徳川家康に保護され江戸城で暮らした。

武田勝頼(四男):1546年(天文15年)~1582年(天正10年)
母親:諏訪御料人
四男として生まれたが、武田信玄の没後に家督を継いだ。甲斐武田家20代目当主。

真竜院しんりゅういん(三女):1550年(天文19年)~1647年(正保4年)
母親:不詳
木曾家との繋がりのために木曾義昌きそよしまさの正妻として政略結婚するが、三国同盟の破綻時に別離した。

仁科盛信にしなもりのぶ(五男):1557年(弘治3年)~1582年(天正10年)
母親:油川夫人
甲州討伐の際、最後まで武田氏側で戦い戦死した。

葛山信貞かつらやまのぶさだ(六男):不明~1582年(天正10年)
母親:油川夫人
甲州討伐の際、甲斐善光寺で自刃した。

武田信清たけだのぶきよ(七男):1560(永禄3年)~1642年(寛永19年)
母親:禰津御料人
甲斐武田家と米沢藩上杉家の家臣として仕えた。

信松尼しんにょうに(四女):1561(永禄4年)~1616年(元和2年)
母親:油川夫人
織田信長の嫡男である織田信忠と婚約。
武田家と織田家の決別により婚約が破棄された後も、信忠とは思い合っていたと言われている。

菊姫(五女):1558(永禄元年)~1604年(慶長9年)
母親:油川夫人
上杉景勝うえすぎかげかつに正妻として嫁ぐ。質素倹約を奨励した賢夫人として敬愛された。


武田信玄の没後は、四男の勝頼が家督を継ぎました。
長男が家督を継がず、四男として生まれた勝頼が継ぐことになった原因について注目していきます。
また、武田氏は、武田信玄の甲斐武田氏だけでなく、安芸武田氏も若狭武田氏も存在しています。甲斐武田氏と安芸武田氏及び若狭武田氏との関係も見ていきます。
【注目すること】

  • 武田信玄の後に武田勝頼が家督を継いだ理由
  • 甲斐武田氏と安芸武田氏・若狭武田氏の関係性

なぜ、武田信玄の跡は勝頼が家督を継いだのか?

武田信玄の後に家督を継いだ勝頼は、四男として生まれています。
なぜ長男でも次男でも、三男でもなく、四男の勝頼が武田信玄の後を継ぐことになったのでしょうか?

本来、武田信玄の次の家督は、正室三条の方との間に生まれた長男の武田義信が継ぐはずでした。
武田義信は、勇猛果敢で知られ、家臣の信望も厚かったといわれています。

しかし、義信は、1565年(永禄8年)武田信玄暗殺の企てに加わったとの嫌疑をかけられ、幽閉を命じられてしまいます。
そして、そのまま30歳の若さでこの世を去りました。

武田義信が幽閉された背景には、
・今川義元が桶狭間の戦いで死去したこと
・甲相駿三国同盟を信玄が破ったこと
で、今川派だった義信と武田信玄との間に、確執があったためともいわれています。

正室の三条の方は武田義信の他にも二人の男児を生みましたが、次男の海野信親は生まれつき盲目だったため、家督を継ぐことなく長延時の僧侶の弟子となり出家しました。

三男の信之は幼くして亡くなります。
こうして四男の勝頼が嫡男となり、家督を継ぐことになったというわけです。
ちなみに、勝頼は正室である三条の方との子供ではなく、武田信玄が諏訪家から側室として迎えた、諏訪御寮人すわごりょうにんとの間に生まれた子供です。

武田信玄の血筋と、安芸武田氏・若狭武田氏は関係があるの?

武田家は、甲斐地方だけでなく、安芸や若狭といった地域にも存在し、甲斐武田氏、安芸武田氏、若狭武田氏とそれぞれの地名をつけて呼ばれています。

武田信玄の甲斐武田氏と、他の地方の武田氏は関係があるのでしょうか。

武田信玄の甲斐武田氏と、安芸武田氏及び若狭武田氏の関係を知るためには、南北王朝時代までさかのぼる必要があります。

南北王朝時代に、武田信武たけだのぶたけが甲斐の国と合わせて安芸の国の守護にも任命されます。そして、信武の息子の武田信成が甲斐守護、武田氏信たけだうじのぶが安芸守護を継承しました。
この武田氏信が、安芸武田氏の初代となるのです。
その後、安芸武田家から分立するかたちで、若狭武田家が誕生しました。

武田信玄の血筋と、安芸武田氏と若狭武田氏の血筋をみていくと、祖先は同じであるというわけですね。

長篠の戦いの後、武田信玄の子孫たちはどうなった?

武田勝頼は、1573年(天正3年)に織田信長徳川家康の連合軍と、三河国の長篠城を巡って争い、大敗します(長篠の戦い)。
この長篠の戦いは、武田家滅亡のターニングポイントとなりました。
長篠の戦いの大敗をきっかけに、武田氏は滅亡へと向かっていったのです。
長篠の戦いの後、武田信玄の子孫たちはどのような運命をたどったのでしょうか。
家督を継いだ武田勝頼と、武田信玄の側室である油川夫人との間に生まれた二人の息子仁科盛信葛山信貞は、1582年(天正10年)の織田徳川連合軍による甲州征伐の際に亡くなります
甲州征伐とは、織田信長と信長の同盟関係の徳川家康、そして北条氏政が武田勝頼の領地に侵略し、武田家を滅亡させた合戦のことです。武田征伐ともよばれています。

武田信玄の次男で、盲目のため家督を継がずに出家していた海野信親も武田家滅亡時に自害をします。(殺害されたとの説もあります。)

しかし、海野信親の子供の武田信道たけだのぶみちは、織田家の残党狩りを逃れ、江戸幕府の高家武田家として武田の血を現代まで受け継いでいくのでした。

現代まで武田信玄の血筋を受け継いでいる子孫がもう一派います。
武田信玄の側室である禰津御寮人ねずのごりょうにんとの間に生まれた安田信清やすだのぶきよです。
安田信清は、甲州征伐時に越後に亡命し、上杉家の家臣となります。
後に武田姓に復帰した信清は、米沢武田家とし、現在にまで子孫が存在しています。

現代に続く武田信玄の子孫たち

武田信玄の子孫たちは、高家武田家と米沢武田家という二つの家系を軸に現代まで続いています。そこからの傍系を含めて、信玄の末裔として武田姓を受け継いでいる家は多数存在しています。

ちなみに、政府から正式に正統な子孫と認められているのは、海野信親の子孫の高家武田家です。

1915年大正天皇から、武田信玄が行った内政の一つ治水灌漑事業の功績が認められ、従三位を贈られることになりました。
もちろん武田信玄は生きていませんので、子孫が受け取ることになりました。
その際、正当な子孫が受け取れるように国が調査をして、最終的に決定されたのが海野信親の子孫である高家武田家であったというわけです。

武田旧温会

現代まで続く武田信玄をはじめとする、武田信玄にゆかりのある人物の子孫の方々を中心として発足した、武田家旧温会という団体があります。
海野信親の子孫である武田邦信たけだくにのぶさんもこの団体に所属されています。

これは、1971年(昭和46年)に甲府市武田神社で発足した懇親団体で、2021年には50周年を迎える歴史ある団体です。
武田家の子孫だけでなく、武田家家臣の子孫や、武田家崇敬者、武田家の研究者で組織されており、武田家に関係ある事跡等を研究し、会員間の親睦と地域文化発展への貢献を目的として活動されています。

具体的には、山梨県の甲府市で毎年4月に行われる信玄公祭りのパレードに参加されたり、7月の長篠合戦戦没者慰霊祭に参列されたりしています。

信玄祭りのパレードでは、赤備えに模した朱色の衣装に身を包みんだ子孫の方々が闊歩する様子を見ることができます。

ちなみに、自称武田信玄の子孫と名乗っていた、モデルの武田アンリさんは、この武田旧温会から虚偽と指摘されていました。
日本政府から正式に認定された、武田信玄の子孫が認定したということで話題になってましたね。

まとめ:武田信玄の子孫たちは、現在にも続いていて、その子孫たちを中心として武田旧温会という団体で活動している

戦国時代を語る上で欠かせない存在である武田信玄、その血筋が現代も脈々と受け継がれています。
今回の内容を簡単にをまとめると、

  • 甲斐武田氏と安芸武田氏・若狭武田氏は先祖が同じ。
  • 戦国大名の武田信虎→信玄→勝頼と続いた敵流としての武田家の子孫は甲州討伐の際に途絶えた。
  • 信玄の正室である三条の方との間に生まれた海野信親が現在に至る子孫を残している。
  • 信玄の側室である禰津御寮人との間に生まれた安田信清が現在に続く米沢武田家となる。

戦国時代から現代にも続く武田信玄の血脈。
大正天皇がきっかけで、正当な子孫が認定されていると思うと、歴史がつながっていると強く感じますね。


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