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加藤清正の死因は何?毒殺?暗殺?それとも病死?

加藤清正の死因は何?毒殺?暗殺?それとも病死?

熊本城を築き、現代も熊本では 清正公せいしょうこさんと呼ばれて親しまれている、肥後熊本藩初代藩主 加藤清正かとうきよまさ
その死の真相は現代も謎のままです。今回は清正の死因について、それぞれの有力な説を見ていきます。

加藤清正の死因は?徳川家康も恐れた武将の突然の死

加藤清正はもともと豊臣秀吉の家臣で「賤ヶ岳の七本槍」の一人と言われるほどの武将でした。

【加藤清正はこんな人物】

  • 豊臣秀吉とは親戚関係で、幼いころから目をかけられていた
  • 賤ヶ岳の七本槍と言われるほど、勇猛果敢な武将で朝鮮出兵など数々の戦で活躍した
  • 亡くなる直前まで豊臣家の将来を案じていた

豊臣秀吉とは親戚関係だったことから、加藤清正は秀吉に対して忠誠を尽くしていました。

本能寺の変の後、秀吉は天下を統一し、さらなる領土拡大のためへ朝鮮へ出兵。
その朝鮮出兵に加藤清正も参加していました。
しかし、出兵中に加藤清正は石田三成ら官僚との関係が悪化、さらに君主である豊臣秀吉が病死してしまいます。

豊臣秀吉が亡くなった時、息子の豊臣秀頼とよとみひでよりはまだ幼かったため、徳川家康とくがわいえやすをはじめとする(五大老毛利輝元もうりてるもと上杉景勝うえすぎかげかつ前田利家まえだとしいえ宇喜多秀家うきたひでいえ)の五人の武将が後見人となり、事実上 政権を握ることになりました。

また、石田三成いしだみつなりをはじめとする (五奉行…浅野長政あさのながまさ前田玄以まえだげんい増田長盛ましたながもり長束正家ながつかまさいえ)と呼ばれる官僚も政権運営に関わっていました。

そんな中、五大老として力をつけていた徳川家康が早速動き出します。
家康は勝手に領地の受け渡しなどを行い、それを良しとしなかった石田三成と対立、そしてその対立は関ケ原の戦いへとつながっていくのです。

関ヶ原の戦いでは、加藤清正は家康率いる東軍に付いています。
家康の天下統一の流れを感じ、秀頼を守ることにつながると考え東軍についた」ともかねてから仲の悪かった石田三成に加勢するのが嫌だったともいわれています。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、より力を強めていきます。加藤清正は秀頼や側室である淀殿がいるにも関わらず、力をつけていく徳川家康に危機感を持ちます。
そんな中、1611年(慶長16年)に後水尾天皇の即位の儀式が執り行われることになり、儀式に出席するため徳川家康が上洛することになり、家康は豊臣秀頼と会見を要求しました。そう、二条城会見です。
秀頼の母である淀殿よどどのは立腹するものの、世の中の流れが家康に傾いていることや、清正の説得により、家康と秀頼は会見に臨む事となりました。

豊臣家の将来を案じていた清正は、秀頼の身に何かあれば家康と刺し違える覚悟でこの会見に帯同しました。
会見が無事に終了し、秀頼を大阪城に送り届けた直後、体調を崩し加藤清正はこの世を去りました。

【加藤清正の死因と考えられている説】

  • 徳川家康による暗殺(毒殺)
  • 病気
  • 朝鮮出兵時代の性病

加藤清正の死因は毒殺?

加藤清正は二条城の会見が終了した後、その帰路の途中で体調を崩しそのまま亡くなったとされています。あまりに突然で、徳川家康にとってタイミングが良すぎることから、徳川家康またはその一派による毒殺という説があります。
また、同時期に活躍した浅野幸長あさのよしながも急死したため、毒殺という憶測が流れました。

【加藤清正の死因が暗殺だと考えられている理由】

  • 二条城会見で出た料理に毒が盛られていた
  • 毒まんじゅうが出された
  • 服部半蔵ら忍者による暗殺

などの説があります。
豊臣家に長く仕え、忠誠心があり戦にも強かった加藤清正は、徳川家康にとっても目障りな存在だったのではないでしょうか。

毒殺に関する歴史的証拠は無いものの、本当に毒殺だった場合証拠は残さないでしょう。
のちに天下人となった徳川家康が、暗殺の証拠を残さないよう指示したということも十分に考えられます。

加藤清正の死因は病気?

加藤清正の死因として挙げられるのが、ハンセン病です。
ハンセン病患者が多かった時代には、熊本城内にある加藤清正を祀る加藤神社に多くの患者が訪れ、病気の回復を祈ったとされています。
ハンセン病は発症するまでの潜伏期間が長く、発症するまでに3~5年、長ければ10年~数十年に及ぶこともあるそうなので、仮にハンセン病だった場合、かなり前から感染していたと考えられます。
また、ハンセン病は慢性疾患で容態が急変する可能性は低いので、ハンセン病に罹患していたとしても直接の死因は他の急性疾患だったとする学者もいます。

加藤清正の死因は性病?

「当代記」と呼ばれる史書に、「好色故の「虚ノ病」で亡くなった」と記されています。
虚ノ病とは漢方医学で腎虚といい、免疫機能などの機能低下のことを言います。加藤清正の死因が、本当に腎虚だった場合、性病というよりは加齢に伴う疾患で亡くなったのではないでしょうか。

性病で亡くなったとされる理由は、同時期に当代記の浅野幸長(梅毒で死亡)について書かれた項に、「好色故の」と記載されていたからでしょう。

【加藤清正の死因が性病だと考えられている理由】

  • 朝鮮出兵時に現地で感染した
  • 家康の陰謀で梅毒に感染に感染した女性が送り込まれた

など様々な説があるようです。
この時代、梅毒に感染していた人間が少なくなく、罹患していた可能性は高いのかもしれません。

加藤清正の死因が毒殺だと疑われている理由。

加藤清正の死因で根強く毒殺説が残っているのは、二条城で家康と会った後に急死したからです。

徳川家康が、加藤清正は豊臣家に深い忠誠心を持っていたため、その存在が家康が天下を平定していくにあたり、邪魔な存在だと思っていた可能性があります。

特に、加藤清正は賤ヶ岳の七本槍と呼ばれ、虎退治の伝説があるほど、強さを誇る武将でした。
その武将としての力を、徳川家康が恐れても不思議ではありません。
真っ向から戦うよりも、安全に加藤清正の存在を消してしまう、家康らしいやり方というのも納得がいきます。

また、加藤清正の死の直後に、浅尾長政など豊臣家を支持していた大名が相次いで死亡したため、家康による毒殺だったのではないか?との説を支持する人もいいます。

まとめ:加藤清正の死因は、性病か病死が有力候補だが、真相は不明

加藤清正は熊本城を築城したり、農業政策を実施し昔も今も親しまれてきた人物でした。当代記に記載があることから、加藤清正の死因は性病か病死が有力となっていますが、どれも確証がなく真相は不明のままです。
今回の内容をまとめると、

加藤清正の死因は、

  • 毒殺(家康による暗殺)
  • 病気(ハンセン病)で死亡
  • 性病(梅毒)で死亡

幼いときから豊臣秀吉に仕え、その生涯をかけて豊臣家に尽くした加藤清正。
その死因は今でも謎を残したままですが、今後 新しい史実が出てくるかもしれませんね。

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