加藤清正の虎退治。武力で成り上がった男はどれほど強かったのか?

加藤清正の虎退治。武力で成り上がった男はどれほど強かったのか?

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加藤清正かとうきよまさ(1562-1611)は肥後熊本藩の藩主で、戦国時代の武将です。
賤ケ岳の七本槍しずがたけのななほんやり」と呼ばれ、虎退治をする加藤清正の勇壮な姿は五月人形としても人気があります。武力で成り上がった加藤清正は、どれほど強かったのでしょうか。
今回は、加藤清正の虎退治の伝説、そして加藤清正はどれほど強かったのか?、加藤清正が日本に持ち込んだ意外なものについて、みていきます。

加藤清正の虎退治の伝説は、朝鮮出兵時の出来事だった

文禄・慶長の役(Wikipediaより)

加藤清正は豊臣秀吉の家臣として活躍しました。
天下統一を果たした豊臣秀吉は、当時の中国である明の征服を目指して遠征軍を立ち上げ、その足がかりとして1592年(天正20年)朝鮮半島に出兵させました(文禄ぶんろく慶長の役けいちょうのえき
加藤清正は二番隊の主将として朝鮮に渡り明の征服を目指していました。
当時の朝鮮半島には野生の虎が生息しており、現地の住民や、遠征で向かった大名や兵士たちもたびたび襲われることがありました。
ある時、清正たちが陣を構えた場所に大きな虎がやってきて、始めに軍馬が、次の晩に小姓が襲われ殺されてしまいました。
これ知った清正は怒り、部下を率いて虎を追い、ついには虎の喉元に槍を突き刺して仕留めたと言われています。

加藤清正が仕留めた虎は、秀吉に送られた?

仕留められた虎は塩漬けにして秀吉に送られ、秀吉はそれを食べたそうです。
秀吉は不老長寿の薬を追い求め、食べれば精がつくと言われた虎を送るよう諸大名に命令したといわれています。
秀吉は朝鮮から送られてきた虎を食べすぎて食中毒で死亡した、という都市伝説があるほどです。
秀吉が虎を食べたという話は衝撃的ですね。

虎狩りをしたのは加藤清正だけではなかった。虎狩りをしていた戦国武将たち

黒田長政くろだながまさやその家臣の菅六之助かんろくのすけ吉川広家きっかわひろいえなど、朝鮮に出兵した武将たちは虎狩りをし、その虎の皮や肉を日本に送りました。
豊臣秀吉の側近だった石田三成が、朝鮮に出兵している武将たちに対して、
「虎の肉がたまったので送らないように」
と記した書状があるほど、武将たちは秀吉のご機嫌を取るため熱心に虎狩りを行ったようです。
精がつく、不老不死に良いのでは?と、はじめは喜んで食べた秀吉が、送らないように命令するほど、大量の虎が狩られていたんですね。

加藤清正の虎退治の伝説は創作?実は槍で退治していない?

加藤清正の虎退治(Wikipediaより)

ここまで加藤清正の虎退治を見てきましたが、実はこの逸話は江戸時代に創作されたものなんです。
虎を槍で一突きするとはとても勇ましい話ですが、、、
実際には鉄砲で仕留めたと言われています。
賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるほど、槍の名手であった清正を慕う人々が、その功績を懐かしみ、清正が一本槍を構えて虎と対峙する勇壮な姿が好まれ逸話として創作されたようです。

また一方では、黒田長政とその家臣が鉄砲を打って虎を退治した話が、後に加藤清正の逸話としてすりかえられたという説もあります。
あの勇ましい清正が虎を退治するイメージが、実は創作だったなんて。。。なんだかショックですね。

加藤清正は、虎以外にも朝鮮から日本へ持ち込んだものがあった

加藤清正は虎を退治し、日本へ送っていましたが、加藤清正が朝鮮から日本に持ち込んだものは、虎だけではありませんでした。
【加藤清正が日本へ持ち込んだもの】

  • セロリ
  • 馬刺し

加藤清正は、セロリを日本に持ち込んだ

実は、セロリを日本に持ち込んだのは加藤清正です。
朝鮮で「これはにんじんの種だ」とだまされ、持ち帰って栽培したと言われています。
そうして日本に持ち込まれ、栽培されて育った植物は見たこともない品種のため、セロリは当初「清正人参きよまさにんじん」と呼ばれたそうです。
独特な風味のセロリは、当時の日本人の口に合わず、残念ながら清正人参は普及しなかったようです。
サラダや付け合わせなどで出てくる、あのセロリは、加藤清正が持ち込んだなんて意外ですよね。


加藤清正がきっかけで、熊本は馬刺しの名産地になった

清正が朝鮮に出兵している間、深刻な食糧難に陥りました。その際にやむを得ず軍馬を食したのが、馬刺しの始まりと言われています。
もともと、日本では牛肉を食べる習慣もなかったので、馬肉を食べるなんて、当時としてはとんでもないことだったのかもしれません。
加藤清正は領地である肥後熊本藩に戻ったあとも馬刺しを好んで食べ、これが現在熊本の名産品になりました。

加藤清正の虎退治以外の逸話

加藤清正には、虎退治の他にも多くの逸話があります。

  • 賤ケ岳の七本槍と呼ばれていた
  • 朝鮮出兵の時、「鬼上官」と呼ばれていた
  • 築城が非常に上手かった

加藤清正は非常に強く、その強さを活かした築城技術にも定評があります。
それぞれの逸話を詳しくみていきましょう。

賤ヶ岳の7本槍と呼ばれていた

賤ケ岳の戦いは、1583(天正11)年、近江国伊香郡の賤ケ岳付近で起きた、豊臣秀吉と柴田勝家の戦です。
この戦いに勝利した豊臣秀吉は、ここから天下人への道を邁進します。

当時、豊臣秀吉に味方し活躍した武将は「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれ、武勲を称えられました。加藤清正はこの七本槍の一人です。

賤ヶ岳の戦いで、秀吉の勝利に貢献した清正が与えられた所領は、120石から一気に3000石になったというのですから、大出世ですね。

加藤清正の他に、賤ケ岳の七本槍に挙げられた武将は次のとおりです。

  • 脇坂安治わきざかやすはる 1554年-1626年
  • 片桐且元かたぎりかつもと 1556年-1615年
  • 平野長泰ひらのながやす 1559年-1628年
  • 福島正則ふくしままさのり 1561年-1624年
  • 糟屋武則かすやたけのり 1562年-不詳
  • 加藤嘉明かとうよしあきら 1563年-1631年

朝鮮出兵では鬼上官と呼ばれていた

豊臣秀吉の命で行った、朝鮮出兵でも加藤清正は活躍しています。
首都・漢城府かんじょうふ(現在のソウル)を陥落させ、海汀倉の戦いかいていそうのたたかいでは朝鮮の二人の王子(臨海君・順和君)を捕虜にし、明にまで侵攻しました。
そんな加藤清正の勇ましい姿から、朝鮮の民衆は「鬼上官」と呼ばれるほど恐れていたそうです。

築城が非常にうまかった

加藤清正は築城の名手としても知られ、領地の熊本城だけでなく、江戸城や名古屋城などの築城にも携わりました。
熊本城は1606(慶長11)年に完成し、当時日本一の名城と言われました。
今も日本三名城の一つに数えられています。
熊本城は石垣がとても美しく、地面から上に行くほどきつくなる勾配は「扇の勾配」「武者返し」と呼ばれています。
これは敵が城内まで登ってこられないようにするための造りです。
明治期、西郷隆盛が熊本城を城内の3倍の兵力で攻めても落とすことはできなかったほど、堅牢で戦略的な造りになっています。
また、治水事業や灌漑工事にも精力的に取り組んだことで、肥後熊本藩の民衆は清正を名君と称えました。

まとめ:加藤清正の虎退治は、実は槍ではなくて鉄砲だった

加藤清正の虎退治の伝説は、実は槍ではなく鉄砲で虎を退治していましたが、加藤清正が非常に強く、活躍したことに変わりありません。
今回の内容を簡単にまとめると、

  • 加藤清正は虎を鉄砲で退治した
  • 朝鮮出兵後、セロリや馬刺しを日本に持ち込んだ
  • 賤ケ岳の7本槍であり、鬼上官と呼ばれ、築城の名手でもあった

現在の熊本でも、加藤清正の功績を称える声が多く、慕われ尊敬されている加藤清正の伝説が鉄砲だったなんて、ちょっと寂しい気もしますね。

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