武田信玄の死因は何?病死?それとも暗殺?甲斐の虎「武田信玄」の最後

武田信玄の死因は何?病死?それとも暗殺?甲斐の虎「武田信玄」の最後

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戦国最強の武将ともいわれ、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄は、風林火山の軍旗や、朱色で揃えた最強の騎馬隊甲州騎馬軍団を率いて、甲斐の国(現在の山梨県)の発展を支えた戦国武将です。
武田信玄は、内政にも長けており、文化人としての一面も持っていたそうです。そんな武田信玄は、1573年(元亀4年)4月12日に53歳で生涯を閉じました。
武田信玄が「自分の死を3年間隠すように」との遺言を残したこともあり、武田信玄の死因は謎も多く、その理由はいくつもの説が存在しています。
また、武田信玄が亡くなった後、わずか一代で武田家は滅亡してしまいます。
今回は、武田信玄の死因について有力な説をもとにみていきます。

武田信玄の死因は何?謎に包まれた武田信玄の最後

最強の武将である武田信玄を蝕んだ死因は何だったのでしょうか。
はっきりとした記録は残されておらず、武田信玄の最後は、謎に包まれています。今回は3つの死因として考えられている説に注目していきます。
【武田信玄の死因として考えらえている説】

  • 病死説
  • 暗殺説
  • 襲撃された時の傷が悪化した説

武田信玄の死因は病死?

武田信玄の死因は病死であるとされているのが、現在は最も有力な説です。
武田四天王ともいわれた家臣の記録にも、武田信玄が、食道がん胃がんのような症状が記録されています。
武田信玄の侍医の書状のなかにも、
「呼吸するたびに、苦しんで吐血しています」
「触診をしたところ、信玄の腹が異常に膨れ上がっています」
との記載があります。
江戸時代に書かれた武家事記には、武田信玄は労咳(肺結核)を持病として持っており、その持病が頻繁に吐血を繰り返すほど悪化し、死に至ったと書かれています。
数々の記録が残されていることから、武田信玄が亡くなった原因は病死であった説は、非常に有力と考えてよいでしょう。
しかし、記載されている病名は食道がんや胃がん、肺結核など様々で一貫性がありません。
高熱を出した後に死に至るという症状から、山梨県等の一部地域の風土病であった日本住血吸虫症であるとの見解を示している人もいます。
武田信玄がどのような病気で亡くなったのかは、まだまだ謎に包まれていると言えるでしょう。

武田信玄の死因は暗殺?

三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦い(Wikipediaより)

武田信玄の死因を病死以外とする説も存在しています。
その一つが、織田信長による暗殺説です。
この説が浮かび上がる背景には、武田信玄の死んだ時期が、織田信長にとって都合が良すぎていることがあります。

織田信長は武田信玄を非常に恐れていました。
織田信長は、武田信玄と友好関係を結ぶべく、姪を養女にして武田信玄の息子である武田勝頼たけだかつよりに嫁がせています
その女性が亡くなると、今度は、織田信長は自分の息子と武田信玄の娘の婚約を成立させています。
武田信玄と織田信長の友好関係は長い間つづきましたが、1573年(元亀4年)にその関係に終わりを告げます。
武田軍は、甲斐の国から京を目指して進軍していきます。
それまで友好な関係を続けていた織田信長と決別し、室町幕府最後の将軍、足利義昭あしかがよしあきからの要請に応じて出陣したのです。

当時の織田信長は、どんどんと領地を拡大している真っ只中。
浅井長政あざいながまさ朝倉義景あさくらよしかげ石山本願寺足利義昭といった、多くの敵と対応していました。第一次信長包囲網です。

武田軍がそこに参入してしまうことは、なんとしても阻止しなくてはいけません。織田信長は同盟関係だった徳川家康とくがわいえやすに武田信玄の対応を任せました。
西へ西へ軍を進めてくる武田軍を止めるために、徳川家康は三河の野田城で待ち受けます。
しかし、当時の若い徳川家康では武田信玄には歯が立ちませんでした。
武田信玄は、徳川家康の軍を城外へと誘い出し、短期間で打ち破ります。
徳川家康が生涯で負けた戦はこの三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかいだけと言われており、
武田信玄は、徳川家康の人間性を成長させた武神であった
として後世で高く評価されました。

三方ヶ原の戦いでの勝利の勢いをそのままに、上洛するかと思われた武田軍でしたが、突然進軍をストップさせます。
原因は、武田信玄が体調を崩していたためと考えられています。最終的に武田軍は上洛をあきらめ、甲斐の国に戻ることを選択します。
そして武田信玄は、甲斐の国への帰路の途中で亡くなったと言われています。

もしも、武田信玄が体調を崩さず上洛を果たしていたら、織田信長を苦しめる存在になっていたことは容易に予想できます。
もし武田信玄が上洛していたら、室町幕府の第15代将軍の足利義昭が織田信長によって京から追い出されることもなく、室町幕府が事実上滅亡することもなかったかもしれません。
織田信長が天下布武を目指して快進撃を続けられたのは、武田信玄がそのタイミングで体調を崩して亡くなる必要があったというわけです。
織田信長にとって、あまりにも都合の良いタイミングで武田信玄が体調を崩し亡くなっているので、「もしかして織田信長による暗殺だったのでは」との説が浮上してきたようです。

武田信玄の死因は、狙撃された時の傷の悪化?

武田信玄の死因として、ドラマティックな説も存在しています。

毎晩のように野田城から美しい笛の音が聞こえてきました。
文化人としての面も持っていた武田信玄は、この笛の音を聞くのが楽しみになっていました。笛を吹くと、身分の高そうな人が対岸に聞きにきていることに、城内でも噂になります。
ならばと、鉄砲の名手を配備し、笛の音を奏でますと、いつものように身分の高そうな人がでてきました。鉄砲が自分を狙っているとも知らず、武田信玄はいつものように笛を聞きにきてしまったのです。
狙撃は成功し、武田信玄は傷を負ってしまいます。そして、そのとき狙撃された傷が悪化して、武田信玄は亡くなってしまったという説です。
武田信玄の文化人としての一面を利用した、非常に感性をゆすぶられる説ですが、影武者を用意して、常に周到に準備をしていたほど慎重な武田信玄が、果たして不用心な行動を行うかは疑問が残ります。

武田信玄の死因はなぜ謎が多いのか?

武田信玄の死因はなぜ謎が多いのでしょうか。
それには、武田信玄の遺言の一つに「3年間は自分の死を秘密にするように」というものがあったためです。

武田信玄は、後継ぎの武田勝頼に
「自分の死を3年は隠して喪に服さないように。」
「自分の遺骸は諏訪湖に沈め、人目に付かないようにせよ」
「京の入り口に武田軍の旗を掲げよ」
といったいくつかの遺言を残しています。

また、武田信玄のお墓も複数存在しているために、死因も謎が多く残っているのです。

武田信玄の遺言。自分の死を秘密にしようとしたのはなぜ?

武田信玄が自分の死を秘密にしようとした理由は、イメージ戦略が非常に得意だったことが影響しています。

武田信玄は、ガッツリと正面から対峙する戦い方よりも、諜報やスパイ活動を駆使して、戦う前に勝利する方法を得意としていた武将でした。
風林火山に象徴されるように、孫子の兵法「戦わずして勝つ」を徹底して実践していたからです。
自分や武田軍を「とても強そう」なイメージを作り上げることに注力していたのです。
「風林火山」を軍旗に掲げたことも、白髪で鬼の角ついた朱色の鎧も、いかにも豪傑なイメージを抱かせます。
とはいえ、イメージだけでなくもちろん実力も伴っていました。
なかでも武田軍の騎馬隊は、百戦錬磨の実力でした。
武田信玄はその騎馬隊の甲冑や旗指物を朱色で塗って目立たせることで、さらに強いイメージを上塗りしていったのです。
この戦略はみごとにはまり、「甲州の騎馬軍団が来たぞ」と聞くだけで、相手は逃げ出します。実際に騎馬隊が到着するころには敵は退散しており、戦わずして武田軍の勝利となっていたのです。

決して裕福ではなかった武田軍が最強となれたのは、資金力が不足していた分、巧みなイメージで補っていたからといえるかもしれません。
武田信玄は自身がもつ、最強の武将というイメージ像をしっかりと認識していました。強い印象の自分が死去したことが明るみに出ることで、他の戦国大名らに侵略されることを予想していたのです。

そんな武田信玄の遺言を守り、息子の武田勝頼は3年の間、自分が当主としてふるまいつつも、武田信玄は隠居している存在として扱いました。

武田信玄の死後、武田家はどうなった?

武田信玄の死後わずか9年後に武田家は滅亡を迎えます。
当主は武田信玄の四男 武田勝頼たけだかつより、武田家滅亡時はまだ19歳の若さでした。
そんな武田家の滅亡のはじまりは、織田信長と戦った長篠の戦いながしののたたかいでの敗北です。

武田家の滅亡へのはじまり「長篠の戦い」

長篠の戦い(Wikipediaより)

長篠の戦いは、織田信長が火縄銃を使った新しい戦法を生み出し、最強の甲州騎馬軍団を破った戦いとして有名です。
1575年(天正3年)、新しい甲斐武田氏の当主となった武田勝頼は、織田信長の領地であった長篠城をせめ、織田信長と徳川家康の連合軍と対戦し敗北します。真っ向勝負で戦ってしまったのです。
織田信長は、武田の騎馬隊に対抗するために、火縄銃を大量に用意し、さらにはその鉄砲隊を3列体制ににすることで、武田の騎馬隊を撃破したのです。

もしも武田信玄が長篠の戦いを行っていたら、直接対峙するまえに幾つもの策を練っていたはずです。
武田家が誇る騎馬隊の実力もイメージで補われていることも、武田信玄ならば充分に理解していたはずだからです。
武田勝頼が自軍の力を過信していたかはわかりませんが、強大すぎる父のイメージになんとか対抗しなくてはと苦労していた部分はあったようです。
長篠の戦いも父が行わなかった、城落としを行うことで、勝頼自身の優秀さを示したかったのかもしれません。
武田信玄を支えたイメージ戦略によって、息子の武田勝頼の代で甲斐武田家が滅亡してしまったともいえるかもしれません。

まとめ:武田信玄の死因は、病死が有力。武田信玄の亡き後、武田家は滅亡へ向かった

今回の内容を簡単にまとめると、

  • 武田信玄の死因は、病死説が有力
  • 暗殺や、襲撃は後世に作られた逸話と思われる。
  • 武田信玄の亡き後、一代後で武田家は滅亡した。

武田信玄が、もしあと半年長く生きていたら、その後の日本は大きく変わっていたかもしれません。
徳川幕府もできていなかったかもしれません。
長い歴史のなかで、一人の武将のたった半年の命だけでこんなにも大きな影響をもっているのは、それだけ武田信玄が大きな影響力を持っていたということですね。

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