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孝明天皇の死因は何?病死?暗殺説も?犯人は?最後の姿を簡単に解説!

孝明天皇(1831(天保2)〜1867(慶応2))は、第121代天皇(在位期間:1846(弘化3)〜1867(慶応2))です。

幕末の動乱期に即位し、尊皇攘夷を貫き通しました。
そんな孝明天皇はわずか35歳という若さで亡くなっています。
どうしてそんなに早くに亡くなってしまったのでしょうか?
この記事では、孝明天皇の死因や最後の姿などを簡単に解説していきます。

孝明天皇の死因は病死?天然痘だった?

孝明天皇の死因は、天然痘による病死だとする説が有力です。
ここでは、孝明天皇の死因の病死説について簡単に解説していきます。

孝明天皇の最後の姿はどうだった?

わずか35歳で亡くなった孝明天皇の死因は、天然痘だと言われています。
『孝明天皇紀』によると、慶応2年12月11日に孝明天皇は風邪気味で、周りの医者が止めるのを無視して神事を行い、後に発熱してしまいます。

そして、なかなか回復しないため、1月19日には、医師が昼夜つきっきりで看病をすることになり、診察をしていくと、吹き出物が出てきたことにより天然痘に罹患している疑いが浮上してきます。

これを受けて、1月22日には、孝明天皇が天然痘に罹患していることが公表されました。

これ以降は、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15名による、24時間交代制の治療が開始。そのかいもあり、数日後には発疹からの膿も出切り、翌日からはかさぶたができるだろうと医師たちも安心していました。

しかし、25日にその容態が急変します。

突然下痢と嘔吐の発作に苦しむようになり、脈も微かなものに変化していきました。そして、四肢が冷たくなり、孝明天皇は崩御されてしまうのです。

『中山忠能日記』には、孝明天皇の最後についてこのように書かれていました。

「二十五日後は御九穴より御脱血」

九穴とは、両目、両耳、口、鼻腔、尿道口、肛門のことで、そのすべての穴という穴から出血したと書かれているのです。この様子だけでも、孝明天皇の最後が凄まじいものであったと想像できます。

このように、孝明天皇は天然痘により、亡くなったとされているのです。

孝明天皇はなぜ天然痘に感染したのか?

当時、天然痘に対するワクチン(種痘)が存在していました。

そのため、普通であれば天然痘に感染することはないはずなのです。
しかし、どうして孝明天皇は天然痘に感染してしまったのでしょうか?

それには、孝明天皇が大の外国嫌いであったことが関わっています。

孝明天皇は、外国人が日本の地に足を踏み入れることすら毛嫌いしていました。

種痘を開発したのは、イギリスの医学者です。孝明天皇は、外国人が開発したものなど、自分の体に取り込めるかと拒否したのです。

そのため、ワクチンを摂取できておらず、感染してしまったということなのでしょう。

孝明天皇の死因は暗殺?

孝明天皇の死因は病死だと考えられていますが、実は実は暗殺だったのではないかという説があります。誰がどうして孝明天皇を暗殺したのでしょうか?
ここでは、孝明天皇の死因の暗殺説について簡単に解説していきます。

孝明天皇の死因は毒殺?

孝明天皇は、悪性の痔に悩んでいたこと以外は至って壮健でした。
しかし、突然天然痘に罹患し、回復してきたと思ったら急激に悪化し、崩御されてしまいました。

これがおかしいとして、実はヒ素によって毒殺されたのではないかという説が浮上しました。

これには、根拠が2つあります。

1つ目は、イギリス人外交官・アーネスト・サトウの証言です。

アーネスト・サトウは、プリンセス・ロイヤル号の甲板で、日本の貿易商人から
「孝明天皇が崩御した」という知らせを受けました。そして、そのときのことをこう回想していたそうです。

「天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという」

ここから、当時孝明天皇の暗殺説が噂されていたということがわかります。

さらに、根拠の2つ目として、『中山忠能日記』が挙げられます。

これには、女官の手紙が収められており、その手紙に
「孝明天皇は毒を献じられた」と「献毒」の噂が書かれていました。

以上2つの根拠に加えて、孝明天皇の崩御が、周囲への影響を考えて、4日間隠されたのちに発表されたということも、黒い噂がたつ要因となったようです。

孝明天皇を毒殺した犯人は岩倉具視?伊藤博文?

孝明天皇は毒殺されたとしたら、、いったい誰が犯人だったのでしょうか?

その主な犯人候補として、岩倉具視伊藤博文が挙げられています。
それぞれどうして候補として名前が挙げられたのか?それぞれ詳しくみていきましょう。

岩倉具視は孝明天皇の暗殺犯?

岩倉具視が暗殺したのではないかという噂は、孝明天皇が崩御された当時からありました。

なぜならば、岩倉具視にとって孝明天皇は邪魔な存在でしかなかったからです。

岩倉具視は、長州藩や薩摩藩とともに倒幕をしようとしていましたが、孝明天皇は幕府に肩入れしており、特に長州藩を嫌い、征伐を行うなどしていたのです。

そのため、岩倉具視は自分の目的を果たすために、孝明天皇のそばに仕えていた女官に毒を盛らせたと言われています。

ただし、岩倉具視は、孝明天皇が崩御した際、「生きる甲斐もない…」というような内容の手紙を残し、大変ショックを受けていたとも言われています。

岩倉具視が犯人であるならば、悲しむふりをしていたのかもしれません。しかし、真相は不明のままです。

伊藤博文は孝明天皇の暗殺犯?

伊藤博文が暗殺した犯人として噂されるきっかけとなったのは、孝明天皇が崩御した42年も後に起こった事件です。それは、伊藤博文が暗殺されたハルビン駅での事件でした。

伊藤博文を暗殺した安重根(あんじゅうこん)が、自分の裁判の席で

「伊藤博文は孝明天皇を毒殺した」

と主張したのです。この主張により、伊藤博文が暗殺したという説が浮上しました。

しかし、この説は安重根のデタラメであったとする可能性が高いです。

孝明天皇が崩御した当時、伊藤博文は朝廷や天皇と遠い存在であり、むしろ下っ端に位置していました。そのため、とても暗殺などできる立場ではなかったのです。

そのため、伊藤博文が暗殺した可能性は極めて低いと言えるでしょう。

孝明天皇崩御の影響は?

幕末の動乱期に即位し、尊皇攘夷を貫いた孝明天皇。

その孝明天皇が幕府に与えていた影響はとても大きいものでした。

孝明天皇がいたおかげで、江戸幕府は維持され、開国もされなかったと言っても過言ではありません。それでは、孝明天皇が崩御した後は、日本はどうなっていったのでしょうか?

ここでは、孝明天皇崩御の影響を簡単に解説していきます。

江戸幕府が終わりを迎えた?

孝明天皇が即位した頃の江戸幕府は、最初の頃のような勢いはもうすでになく、崩壊寸前でした。

しかし、孝明天皇は尊皇攘夷を訴え、幕府を支え続けたのです。

特に影響が大きいところでは、倒幕派の中心となっていた長州藩を牽制していたところでしょう。

しかし、その孝明天皇が崩御したことにより、その幕府を支えていたものがなくなってしまい、長州藩を止める人もいなくなり、いよいよ江戸幕府は倒幕されることになってしまうのです。

開国が急速に進んだ

孝明天皇は大の外国嫌いでした。そのため、生前は攘夷を徹底していました。

しかし、孝明天皇が崩御したことにより、江戸幕府が解体され、代わりに台頭してきたのが、明治政府です。明治政府は、海外の制度や技術をどんどん取り入れようとしていました。

そのため、今まで鎖国により閉ざされていた日本でしたが、急速に開国が進んでいったのです。

孝明天皇と明治天皇の関係は?

孝明天皇が崩御した後に皇位を引き継いだのは明治天皇です。
この明治天皇と孝明天皇の関係は親子です。

しかし、実は本当の親子ではないのではないかとする説も存在します。

それはどういうことかというと、明治天皇がすり替わっていたのではないかと言われているのです。

明治天皇の即位前と即位後の写真が残されているのですが、即位前はとても身体が小柄で虚弱体質でした。しかし、即位後は体重80キロを超えた立派な体格になっており、乗馬を好んでいたとされています。また、利き手が右手から左手になっていたり、きれいだった字が大きく変わってしまっていたりと、様々な違いが見られたのです。

それでは、一体誰とすり替わったのか?
それは、伊藤博文が率いていた隊士の、大室寅之祐だと言われています。
この大室寅之祐は、南北朝時代の後醍醐天皇の末裔でした。

つまり、南北朝時代の終わりからずっと北朝の血筋が続いていたものが、明治天皇の代になって南朝の血筋へと移ったということになります。

また、伊藤博文が率いていた隊士ということで、裏で操りやすいということもあったのかもしれません。

真実はどうかはわかりませんが、もし本当にそうだとしたら、伊藤博文の手のひらの上に朝廷までもが乗せられていたということになるのでしょう。

まとめ:孝明天皇は天然痘で亡くなった可能性が高いが、暗殺説もある

孝明天皇は、天然痘により亡くなった可能性が高いです。
しかし、その尊皇攘夷を貫き通した姿勢から、孝明天皇をよく思わない人物に暗殺されてしまったのではないかとする説も存在しました。

今回の内容をまとめると、

  • 孝明天皇は天然痘でわずか35歳という若さで亡くなった
  • 死因として、暗殺説も存在する
  • 孝明天皇崩御により、江戸幕府は終わりを迎え、日本は開国していくことになった

天皇を暗殺するなんてことは、バレたら大罪中の大罪です。
しかし、当時の日本を変えるためには、それを行わなければならないほどに、孝明天皇の存在は邪魔だったのかもしれません。本当に暗殺されたかどうかはわかりませんが、そのような説が出てくる事自体が、孝明天皇が与えた影響の大きさを表していると考えられますね。

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