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天草四郎の死因は何?最後の姿は?実は島原の乱では死んでいなかった?

天草四郎(1621(元和7)〜1638(寛永15))は、江戸時代初期のキリシタンで、島原の乱(1637年(寛永14年))における一揆軍の最高指導者です。本名は益田四郎と言います。
日本史上最大の一揆の総大将となった天草四郎は、どのような最後を迎えたのでしょうか?

この記事では、天草四郎の死因について簡単に解説していきます。

天草四郎の死因は何?

天草四郎は島原の乱にて戦死したと言われています。
それは、どのような最後だったのか?ここでは、天草四郎の死因について簡単に解説していきます。

天草四郎の死因は島原の乱での戦死?

天草四郎は、数々の奇跡を起こし人々を救ったことや、マルコス宣教師の予言もあり、キリストの生まれ変わりだと考えられていました。
その結果、なんと16歳という若さで島原の乱の総大将に抜擢されるのです。
天草四郎のカリスマ性が人を呼び、ついには3万7千人もの一揆軍へとなりました。
これは、日本史上最大の一揆だと言われています。

島原の乱の一揆は、最初こそ一揆軍の勢いもすごく、一時は幕府軍を撤退させたり、幕府軍の大将であった板倉重昌を戦死させたりするという奮戦を見せました。

しかし、このことが返って幕府軍の島原の乱に対する警戒レベルを引き上げてしまいます。

幕府軍は第二陣として、「知恵伊豆」として名高い松平信綱を総大将にして送り込んできました。

ここから、幕府は持久戦に切り替え、一揆軍を兵糧攻めすることにします。
そこからは、一揆軍はどんどん衰弱していき、最終的には幕府軍によって鎮圧されてしまうのでした。

『肥前国有馬戦記』によると、その最後の鎮圧の際、原城に攻めてきた肥後細川藩士・陣佐左衛門(じんのさざえもん)によって、天草四郎も討ち取られたとされています。

そして、天草四郎の首は、原城三の丸の大手門前と長崎出島の正面入口前に晒されました。
わずか17歳という若さで天草四郎は亡くなってしまったのでした。

天草四郎の顔を幕府軍は誰も知らなかったため母親が確認した?

天草四郎の最後は、陣佐左衛門によって討ち取られたのが有力となっています。しかし、実は幕府軍は天草四郎の顔を全く知らなかったのです。

何故、陣佐左衛門の討ち取ったものが天草四郎の首だとわかったのでしょうか?

まず、幕府軍が原城に攻め込んだ際、天草四郎の顔がわからなかったため、15歳くらいの少年の首を1人残らず刎ねました。

反乱を収めた後にその少年の顔を1人ずつ、捕えていた天草四郎の母親に見せていったのです。

母親はどの首を見ても、一切表情を変えませんでした。

しかし、化粧を落としたある首を見て、大きく取り乱した為、それが天草四郎の首であろうと断定したわけです。そして、その首こそが陣佐左衛門が討ち取った首だったというわけです。

天草四郎は島原の乱では死んでいなかった?

天草四郎は島原の乱で戦死した可能性が高いと先程お伝えしました。
しかし、実は島原の乱で死んでいなかったとする説もあるのです。
それはどのような根拠があるのでしょうか?
ここでは、天草四郎が島原の乱で死んでいなかったとする説について簡単に解説していきます。

天草四郎の首は正確には見つかっていない?

天草四郎が死んでいなかったとする根拠の1つ目は、討ち取られた四郎の首が正確に見つかっていないことが挙げられます。

幕府軍は天草四郎の顔がわからなかったため、天草四郎の母親に複数人の少年の顔を見せ、母親が泣き崩れたものを天草四郎の首だと断定しました。

しかし、このとき母親は決して天草四郎の首だとは断言していないのです。

この母親は、幕府軍が島原の乱の最中、天草四郎に戦をやめるように説得する旨の手紙を書けと言われた際に、素直に従うふりをして、実際には
「最後まで戦い抜きなさい」という手紙を書いたと言われています。

このような人ですから、幕府軍に天草四郎が生き延びているのを悟られないように動いたとしてもおかしくないわけです。

天草四郎はフィリピンに逃げた?

根拠の2つ目は、天草四郎はフィリピンに逃げたとする説です。

これはどういうことかというと、籠城戦を繰り広げていた舞台である原城は、海に面する場所にあり、さらに実は城の下に地下道がありました。
天草四郎は、この地下道を通り、海を渡ってフィリピンに逃げたのではないかと言われているのです。

当時フィリピンには、徳川家康に追放されたキリシタン大名が作った「日本街」がありました。

おそらくそこを頼りに逃げたのでしょう。

以上2つの根拠により、天草四郎は島原の乱で戦死していなかったのではないかと考えられているのです。

しかし、どれもはっきりとした証拠はないので、天草四郎の死因は不明のままとなっています。

天草四郎の墓はどこにある?

天草四郎は島原の乱で、原城にて亡くなったとされています。

その天草四郎の墓所はどこにあるのでしょうか?
現在では、天草四郎の墓所は2箇所あるとされています。
ここでは、天草四郎の墓所について簡単に解説していきます。

天草四郎のお墓「天草四郎公園」

まず1つ目は、天草四郎公園です。

ここは元々は天草四郎の生家の跡地だったところを整備したところのようです。

公園の中央には片手をあげた天草四郎像が建てられており、そのすぐ後ろに「天草四郎之墓」と書かれた墓があります。

ただし、この墓所は実際には慰霊碑のようなもので、出生の地に近い場所との理由で建てられたようです。また、この同じ場所にはいくつかのキリシタン墓が移設して置かれています。

天草四郎公園
住所:熊本県上天草市大矢野町中宮津

天草四郎のお墓「原城跡」

2つ目は、島原の乱で籠城戦が繰り広げられたとされる原城跡です。

原城は既に廃城となってしまっており、跡地が残っているだけです。

この原城本丸だった場所には、祈りを捧げる天草四郎像や、天草四郎の墓が移設されています。

移設されているというのは、元々この墓は、西有家町の民家の石垣に埋もれていたようなのです。

そして、この墓自体は天草四郎の母親が作ったとする説がありますが、真偽は不明です。

しかし、天草四郎公園の墓が慰霊碑の意味合いが強い以上、こちらのほうが本当の墓である可能性が高いですね。

原城跡
住所:長崎県南島原市南有馬町

まとめ:天草四郎は若くして島原の乱で戦死した

天草四郎は、わずか16歳という若さで島原の乱の総大将に抜擢されました。そして、その戦いの最中、奮闘虚しく戦死してしまいました。

今回の内容をまとめると、

  • 天草四郎は若くして島原の乱の総大将に選ばれた
  • 一揆は幕府軍により鎮圧され、天草四郎も討ち取られた
  • 幕府軍は、四郎の顔が誰もわからなかったため、母親に確認をとった
  • 実は、天草四郎は島原の乱では死なず、フィリピンに生き延びたという説もある
  • 天草四郎の墓は二ヶ所ある

島原の乱の最中、天草四郎は家族に会うこともできず、ひたすら仲間のために総大将として毅然とした態度を取り続けていたようです。わずか16歳の少年が、3万7千人もの命を預かる立場に立つことのプレッシャーはどれほどのものだったのでしょうか。
もしかしたら、天草四郎は死ぬことによって、その重責から解放され安心したところもあるのかもしれませんね。

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